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水の殻

作者: 有馬

 1 


 どういう訳か目が覚めた。時計を見れば、午前二時に少し足りない。五月晴れ続きのここ数日には珍しい豪雨で、吹き荒れる風の音が鼓膜を震わせている。

 身体を起こすとすぐに視界に渦が幾つも巻起こり、ふらついた。舌が干涸らびた昨日の臭いを感じ始め、張り付いた濃厚な苦みが口内を巡る。

 ベッドから這いだし、数歩歩いて左の台所へ。漏れる橙色の光を見ないようにして冷蔵庫の扉を開け、中をまさぐる。緑茶のボトルを掴み、コップに注ぐこともなく無造作に口に流し込んだ。

 視えていた渦は次々と消える。

 苦みと共に粘ついた唾を飲み下すと、喉の奥が凍るように冷えていった。眼球の奥を反射して増幅する氷のような頭痛と次第に明るくなる視界の中、ボトルを冷蔵庫に放り込んだ。

 闇は透き通る。

 漂う渦と塵が消え、やがて五感が戻る。

 微かな金属臭。

 全身を極小の針でつつくように、冷気がまとわりつく。

 (ほの)かな外の光で照らし出される硝子の食器、ステンレス製の流し台に剃刀が鈍色に輝き、蛇口からは水粒がこぼれ落ちた。

 一滴一滴鈴が鳴るように、水たまりを刻々と壊していく。

 透明な闇の中、自分を取り囲む数多の静物はこの暴風のせいか、揺らぐように蠢いた。

 背中を押された気がした。部屋に戻る前にもう一度見回し、窓際の水槽に目が留まる。

 そこで、気付いた。

 QUZEが、跡形もなく姿を消していた。


 2


 春とは思えない暑さの午後だった。

「これから二泊三日で旅行に出掛けるの。この子、預かっていてくれない?」

 突然やってきたクゼはそう言って、満面の笑みでやたら大きな水槽を押しつけてきた。

 中学以来久方ぶりに会った彼女は以前より痩せ、褐色だった肌は白く生気が無く、頬はこけていた。

「預かって、くれるよね?」

 懇願する漆黒の瞳と、有無を言わせない口調である。

 水が揺れる。

「QUZEって言うの。陽当たりのいい窓際に置いてあげて。―――水を換えたり、餌を与える必要はないから。でも、時々眺めてあげてね。可愛いから」

 大人びた顔に、ストレートな黒髪。

「明後日の夕方、取りに戻るからね」

 おかしな要求だったが、特に断る理由も無かったので肯定すると、クゼは去っていった。

 何か急いでいるようだった。

 抜ける様な青空の下、自分と、手の中の巨大な水槽。そして、問うことの無かったひとつの疑問が残った。

 QUZE?

 水槽には、水しか入っていない。

 陽の光を真っ向から受けるアスファルトの地面から、陽炎が立ち昇る。熱風が樹々を逆立て、葉々がやかましく(さえず)った。

 水槽が、揺れる。

 それにしても大きい。


 3


 ダイニングの窓際の観葉植物をどけて、重く大きな水槽を置いた。曇り一つないプラスチックの側面に、陽の光と僅かな波が薄い模様を描く。

 ひどく澄んだ水だった。

 指を入れると、ぬるくも冷たくもない涼しさが包んだ。

 手首まで入れて、ゆっくりとかき混ぜる。

 からっぽの水槽に、数え切れない程の飴色に輝く糸が捻れ絡みつく。

 白い床に舞い降りた水影は渦を巻き、見えない壁にあたってはね返る。

 規則的な波紋はやがて薄れ、ただの波となる。

 窓の外を眺めながら、何となく考える。

 卒業時にメルアドを尋かなかったせいで、クゼは何処か大学に入ったのか、そもそも高校が何処だったか、全く見当がつかなかった。クゼの容貌は悪くなく、性格は見ていた限り穏やかで、彼氏のひとりふたりは居てもおかしくなかった。ただ自分を見るときの目は、どこか作り物めいた、常に避けられているような感があったことだけは憶えている。

 そういえば、何故自分に水槽を預けたのだろうか?


 ふと。


 手で水を回しながら、おかしなことに気づいた。さっきよりも、水が重くなっているように感じられる。手が疲れてきた、という訳ではない。水そのものが、まるで別の物に変質するかのように粘性を帯びてきていた。やがて指が、明らかに水槽の壁とは違う、殻のような物に触れた。

その違和感に、視線を水槽へと戻す。そして、目が合った。


 ………


 空だったはずの水槽にいつの間にか、おかしな形をした生き物がいた。

 その無機質な瞳が、じっと見つめていた。


 4 


 空気が凍った。

 思考が停止し、湧き起こる数多の疑問が吹き飛ぶ。

 鳥肌が立った。目が逸らせない。後ずさることも出来ない。

 何をどうしたら良いのか、何もわからない。

 白い壁に掛かった時計だけが、変わることなく秒を刻む。

ただ耳元で振動音が聞こえる。誰かに脅かされて目覚めた寝起きのように、心臓は鼓動し動脈が拍動し静脈は脈動している。

 息が出来ない。手の平がぬめる、握る。滑って爪が喰い込む。夏に見紛う程の熱気が全身を撫で、剥き出しの(すね)から這い上がる。太く立った毛がやがて湿り気を帯び、皮膚に張り付くのがわかる。噴き出した汗は小さな粒から玉へ、そして重みに耐えきれずに流れ落ちるまで後どの位なのか。

 いつしか耳元で囁く心音に、微かながらもう一つの振動音が加わった。

 見れば、微動だにしない生物の透明な殻の中で急くように波打つ肉が―――

 あの生物の、胸音だった。

 鼓動が加速する。

 不協和音の周期が短くなる。互いのリズムは高まり、繋がった視線は互いにたぐり寄せられ張り詰め、糸のように、やがて針のように細くなる。

 引っ張られて、飲み込まれそうになる。

 頬を汗が伝う。

 そうはさせじと、必死で糸を引く。目と目の見えない線はなお、細くなる。

 細くなる。

 引っ張られる。

 飲み込まれる。

 細くする。

 引っ張り、

 飲み込む。

 そして、

 ―――唐突に、切れた。


 ………


 先に目を逸らしたのは向こうだった、と思う。急に興味が失せたかのように、視線をあさってに転がした。

 息が漏れた。思い出したように、水槽から手を引き抜く。重たさはそこに無く、粘りけのない、ただの水の感触がした。

 気が付くと、全身に冷や汗をかいていた。

 窓からぬるい風が吹き込み、流れていく。外はまだ明るかったが、部屋の中は文字が読めそうにない程に暗い。白い壁に掛かった時計だけが、変わることなく秒を刻む。随分と時間が経っていた。

 (時々、眺めてあげてね)

 今になって、クゼの言葉が頭の中を反響する。

 QUZE?

 何となく発せられた問いは、虚空へ消える前に水槽の生物に届いた。

 ソイツが、小さく身を震わせた。

 可愛いとは思えなかった。


 5 


 夕食中、クゼには悪いが断じて目を逸らした。ただ気にはなったので、視界の端でずっとQUZEを見ていた。

 全く動く気配がない。

 水槽の底に腰をおろし、視界の端に俺を泳がせている。ように見える。

 クゼに似た漆黒の瞳は、少なくともテレビは見ていない。

 もしかしたら、眠っているのかもしれない。

 巨大な水槽には不釣り合いな小さな体躯は、限りなく透明に近い。

 心臓はゆっくりとゆっくりと、色素の薄い血を吸い込み全身へ送り出している。

 さっきのような得体の知れない緊張感はどこにもない。嘘か幻か、あるいは何かの間違いにも思える。だが、もしこのことを人に話すのなら自分は多分、最大限に事実を誇張するのだろう。それだけ、目を合わせたとき、QUZEには存在感があったのだ。

 どうしようもなく怖くて、同時に、どうしようもなかった自分が嫌になった。

 嫌になった?

 何の前触れもなく、クゼの泣き顔が頭にちらついた。

 今の今まで忘れていた、嫌な記憶が鎌首をもたげた。

 テレビを消して、眠くもないのに寝ることにした。今は何も考えたくなかった。

 電気を消したとき窓際で何か蠢く気配があったが、無視して布団を頭から被る。


 6

 

 クゼとは中学の時に一度だけ同じクラスだったが、特に親しい仲ということはなかった。

校内で女子と親しげに話す男子は力のあるごく一部の人気者だけで、自分を含む残り大多数の男子は冷やかしを恐れ、用もないのに話しかけることはほとんどなかった。女子も似たようなセオリーがあったのか、昼休みの教室は男女で綺麗に二分された。幼さの残る顔立ちにボーイッシュな髪のクゼは教室の隅で大人しく本を読んでいたし、自分も中心から外れた四、五人のグループにそれとなく入って過ごしていた。

 声を掛けたことも話したことも、数度しかない。視線が合えばすぐに目を逸らした。

 せいぜいそれくらいの仲だった、と思う。

 いや、一つだけ。何とはなしに過ごした中学時代の中で、嫌な思い出があった。


 みんなが、泣き叫ぶクゼを見ていた。

 誰もが、事態の収束を望んだ。

 自分も、みんなも、クゼに駆け寄ろうとはしなかった。

 

 いつのことだったか、事の発端が一体何であったのかは、今となってはわからない。どうせくだらない喧嘩か、何か決めごとでクラス全体がシカトしたか何かだ。

 そこら辺がせいぜい相場だ。

 イジメではなかったと思う。ただクゼの感情が想像以上に脆かったのと、みんながみんな、無力感と脱力感に勝てなかっただけだ。自分はその時、怯えた目で何人かと何となくかたまって、時が過ぎるのをただ待っていた。罪悪感が胸を満たしていた。

 放課後、誰もいなくなった教室で帰ろうとするクゼを、勇気を出して呼び止めた。

 ごめん、と。

 一言だけ、謝った。

 クゼは物も言わずに踵を返し、

 その肩を強く掴んだ。

 振り払おうとしても離さない。言わなければ、と何故か強くそう思った。

 顔を近づけて、もう一度謝った。腰が折れるほど、大きく頭を下げた。

 かっこわるいとこ、見せちゃったね。

 拍子抜けするほどあっさりとした声だったので、思わず顔を上げた。もういい、とか、はなしてとか。そんな言葉が帰ってくるものだと思っていた。クゼは穏やかに笑うだけだった。

 涙の(あと)が、染みとなって点々と顔に貼り付いている。

 誰もが綺麗な所だけ見せていたい。みんな傷つきたくないから、何となく曖昧に過ごしてきた。でもそんな関係はいつか、誰かが耐えられなくなる。曖昧なノリの、その不透明な理不尽さに吼えてしまった。

 私はね、たまたま運がなかっただけ。天災みたいなものだから。

 そう言ってはにかみ、今度こそ踵を返した。そこに、思い出したように、詠うように付  

け加える。

 人は誰でも、心の中に臆病な生き物を飼うの。澄んだ透明な殻と、大きな大きな翅を持っているの。

 ―――今度は、私の綺麗な翅を、見せてあげなきゃね。

 窓の外を照らしていた西日は、いつの間にか溶けるように消えていた。

 これは、彼女との唯一の思い出でもあった。

 

 7


 ぼんやりとそんなことを思い返していると、水槽の中でQUZEが(はね)を広げているのが見えた。

 虫が持つような、紙のように薄く、しかし大きな翅。

 穏やかな様子で、翅を広げていた。


 ………


 しばらく呆気に取られて眺めていた。

 その視線に気づいたのか、驚いて飛び上がり、慌てて仕舞おうとして失敗する。

 くしゃくしゃになってしまった翅を一瞥して、QUZEはばつが悪そうに縮こまった。

 それを見て、自分の中の何かと何かが繋がった。歯車が寸分無く噛み合って思考が動き出し―――自分の鈍さと、QUZEの滑稽な姿に微笑った。

 

 なんだお前、かまってほしかったのか。


 辛抱強く待ってやっていると、目をこちらに向けた。

 昨日のような緊張感はない。

 どこか幼さの残る顔立ちと、懇願するような、漆黒の瞳。

 やがて諦めたか、それとも居直ったか。

 大きく大きく、虹色に輝く翅を水槽いっぱいに広げて見せた。

 まだ戸惑っているのか、ちょっとだけ震えている。

 水槽に手を入れて、翅に触らないように撫でてやった。

 QUZEは拒もうとはしない。優しく撫で続けると、震えが止まった。

 QUZEが手の平を見上げる。

 花の蜜を吸う蝶の様に翅をゆっくりと動かしながら、人差し指に左前脚を引っかけ、薬指に右前脚を引っかけ、躯を起こして中指に口を近づけ、

 噛んだ。

 痛い。

 今度は思い切り、笑った。

 QUZEがつられてはにかんだ。ように見えた。

 そしてその夜。


 8


「QUZE?」

 暗闇の中の問いは、虚空に呆気なく霧散した。

 相変わらず、吹き荒れる風の音は鼓膜を震わせている。

 仄かな外の光で照らし出された静物達は、何も語らない。

 窓際に置かれた巨大な水槽は、空だった。

 急に全身に鳥肌が立った。手の平にだけ汗を握る。

 水槽に駆け寄り、水を掻き回そうとする。そうすればまた、あの奇妙な粘りけと共に出てきてくれるかもしれない。

 目論見は、水槽に手を入れた時点で瓦解した。

 水の感触すら、そこにはなかったのだ。

 呼んでも出ては来ず、家中探しても、嵐の中外を見て回っても、QUZEは何処にもいなかった。

 暗澹たる気持ちで朝を迎えた。

 その日の夕方、クゼは来なかった。

 

 その翌日、クゼが来る気配が無かったので、空の水槽を持ってクゼの家に出掛けることにした。

 当時の連絡網を埃まみれで漁って探し出してみれば、ここからそう遠くない場所だった。

 クゼの訃報を聞いたのは、その時である。

 幼少からの持病が寿命を蝕み、二日前にその闘病生活を終えた。一昨日と昨日で、親族の間で通夜と葬式が静かにとり行われた。

 クゼは家の床で、家族に看取られたという。

 弔問ということで、線香をあげた。

 持ってきた巨大な水槽は、親族の誰一人として見覚えがなかった。

 

 日が暮れかけていた。

 手元に残った空の水槽を抱えて、家へと歩を進める。

 その時ふと、頭上の大気が大きく揺れ動くのを感じた。

 見上げる。

 透明な体躯に、虹色に輝く薄い翅を纏った大きな大きな何かが、夕日へ向かって颯爽と空を駆けていった。やがてその空にも、ゆっくりと群青色が流されてゆく。飛び去った軌跡として残っていた橙色も、幕を下ろすかのように彼方へと消えた。

 眼前に、夜の帳が降りる。


読んで下さり本当に有り難うございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 初めまして。ジャンル別の新着からたどり着き読ませて頂きました。 自分もこんな掌編が書きたいなー、なんて羨望と嫉妬の入り混じった気分になりました。なんて(笑) 無駄のない構成、先を読ませる…
[一言] 綺麗なお話だと思いました。 多少分かり難い言い回しもありましたが、個人的には好きです。 今後の作品を楽しみにしています。
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