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【第七夜】




 年に一度ある、日本の伝統芸能などが一同に会する舞台祭で、わたしはある大きな役を仰せつかっていた。

 それは、狐と人間との間に生まれた(あやかし)の娘で、とても難しい役だった。

 稽古を重ねても重ねても、その役を摑むことがどうしてもできない。

 それを見かねたのだろう、一緒の幕に出るわけではないが、別の物語で同じ舞台に立つ歌舞伎役者のひとりが、わたしの稽古をかってでてくれた。

 彼もこの舞台で難しい女役に挑んでいるのは、報道で知っていた。なのに、わたしが役を全然摑みきれていないせいで舞台が失敗となってはならないからと、以前この役をやったことがあるからと、稽古をつけてもらうことになったのだ。

 彼だけでなくそのお兄さん――彼もまたこの日の舞台に出演をする――やお弟子さんたちをも巻き込んで、わたしは彼らに教えてもらっていた。

 優秀な生徒ではないと自覚はあった。

 彼らが親身になって、厳しく、時にはやっぱり厳しく、当然ながら稽古なので甘やかされることもなくやはりひたすら厳しく教えてもらっていた。

 そんな彼らの努力の甲斐があってか、あともう少しで役を摑みきれるというところまで来た。

 その日の稽古も終わり、わたしは汗をシャワーで流し、疲れて重たくなった身体を引きずるように着替えをする。

 汗になったせいか喉が乾いていたのを思いだし、下着姿のままではあったが、水を飲もうと脱衣場の一角にあるウォーターサーバーへと足を向けた。

 するとそこには、わたしの稽古をかって出てくれた彼―――四代目平原(ひらはら)深左衛門(しんざえもん)さんがいた。

 深左衛門さんは、わたしよりも先にシャワーを浴びていたらしい。まだ濡れている髪、腰にバスタオル、首に白いタオルをかけたままの格好で、鏡の前で瓶のコーヒー牛乳を飲んでいた。

 軽く腰をそらして飲んでいる。バスタオルのすぐ上から覗く鍛えられた腹筋に、どきりとなる。女役をしているとはいえ、やはり体力勝負の歌舞伎役者だ。腹筋に限らず、細身ながらも筋肉はしっかりとついている。

「お疲れさま」

 深左衛門さんが、鏡の端に映りこんだわたしに気付き、声をかけてくれた。

「今日もお忙しいところ、時間を割いてくださってありがとうございました」

「やっと教えがいが出てきたよ」

 ふっと笑みをこぼす彼に、師匠に対する緊張が僅かに和らぎ、別の緊張が生まれてきた。

 深左衛門さんは、飲みきったコーヒー牛乳の瓶を置き場に返すと、

「あんたは? 飲む?」

 と、ガラスケース内で冷やされている瓶牛乳やコーヒー牛乳を手で示す。

「あの。ええと、では、コーヒー牛乳を……」

「ん」

 しどろもどろになってしまうわたしを気にするふうでもなく、彼はケースの扉を開け、コーヒー牛乳を取ってくれた。

 手渡されるとき指が触れるかと思ったけれど、そんなこともなく普通に手渡された。

 意識しすぎてる、わたし。

 深左衛門さんの視線を受けながらコーヒー牛乳の蓋を開ける。……のだけれど、手に持ったまま片手で開けようとしているせいか、うまくいかない。

 しばらく奮闘していると、

「ホント不器用だよな」

 溜め息とともに大きな手が伸びてきて、わたしからコーヒー牛乳を取り上げた。

 わたしの苦労はなんだったのかと脱力してしまいそうなほど難なく、彼は蓋を開けてしまう。

「ありがとうございます……」

 手渡された瓶を慎重に両手で受けとる。

 いつもは、テーブルとかどこかに置いてこういった蓋を開けるわけだから、もうちょっとはスマートにできるはずだけれど。なんだか、悔しい。

「両手で持つって、お子ちゃまじゃないんだから」

 呆れた声が降ってきた。

「こぼしたり落としたりしたら大変じゃないですか」

「そりゃそうだけどさ。似合いすぎてるし」

 お子ちゃまが似合いすぎててスミマセンね。

 わたしは深左衛門さんに返事もせず、そのままコーヒー牛乳の瓶に口をつけた。

「違う」

 突然の鋭いダメ出しに、びくりとなる。

 びっくりしてしまって深左衛門さんを見上げた。彼は頭ひとつぶんは背が高い。なのに、舞台に立つとすごく華奢で小柄に見えてしまうから、不思議だ。

「こうだ」

 深左衛門さんは、定番中の定番の、コーヒー牛乳を飲む格好をした。腰に片手を遣り、喉をそらす格好だ。

「……ガチすぎます」

 深左衛門さんがそんな格好にこだわるひとだとは、全然思いもしなかった。そういえば、さっきもこんなふうにしていた……。

「なにを言う。これは礼儀だ」

「その発言も、ガチすぎます……」

「生意気な口きける立場なのか?」

 深左衛門さんおすすめの飲み方はさすがに恥ずかしかったから、普通にこくりこくりと飲む。火照った身体に、コーヒー牛乳の冷たさが、心地よく沁み込んでいく。

 飲んでいる間中、深左衛門さんのジト目な視線が突き刺さる。

 いくら師匠的な立場にあるからっていっても、芝居とは関係のない個人的なこだわりにまで従わなきゃいけないルールはないと思う。

「……あんまり見ないで欲しいんですけど……」

 なんだか気持ちがむず痒くなって、たまらずそうぼやくと、

「TPOってものがあるだろが。そんな飲み方じゃ、美味いものも半減じゃないか」

 深左衛門さんは飲み終わったばかりの瓶を、わたしの手からひょいと取り上げ、軽く身体をひねって置き場に戻した。

「……ありがとうございます」

 最後の最後を(あお)るようにすするの美味しいんだけどな。その前に取り上げられてしまった。

「なに?」

 わたしの声音から少しの不満を感じ取ったのだろう。深左衛門さんは怪訝に、それでいて問い詰めるような色も混ぜながら訊いてきた。

「いえ、―――、……。あの。えっと、まだちょっと残ってたのになぁと」

 なんでもないと誤魔化そうとしたら、深左衛門さんは目を(すが)めてきて、誤魔化せなかった。

「ケチ臭いこと言うんじゃない。それよりも、今日摑みかけた役の感覚、ちゃんと明日に繋げるんだぞ」

「―――はい」

「あんたは身体は固いしとろくさいから、繊細な役をするには無理があるんだよ」

「……」

 そんな、いきなりはっきり本当のことを本人に向かって言わなくても……。

 気持ちにぐさぐさと言葉が刃物のように突き刺さってきたせいで、受け答えをすることができなくなる。

 突然、口に鈍い痛みが走った。

(な!?)

 深左衛門さんの手が、わたしの唇を上下から挟んでいたのだ。

「んんんーッ!?」

 なにするんですか!? とわめこうにも、肝心の声の出口が押さえられているので、単語ひとつも訴えられない。

「滑舌も良くないんだよ。腹からの声もなまっちろいし。あんたは口を、飯食うのだけにしか使ってない」

 唇を摘まんだまま上下に動かしたり引っ張ったりしてくるものだから、地味に痛みが積み重なってくる。

「んんーんんッ!」

 離してください! 痛いんですけど! ちょっとは加減してください!

 深左衛門さんの腕を叩きながら訴えるも、口を摘まむ手は離れてくれない。

 抵抗をしていくうち、次第にわたしは後退(あとずさ)りする形となり、それを追うように必然的に深左衛門さんの身体が迫ってくる。

「あんたの役は話の要だ。『か細い声』というのは、『小声』とは違う。判ってるのか?」

 深左衛門さんは、稽古バージョンの声になって問うてきた。

 わたしは唇を摘ままれたまま、彼の言葉を気持ちに染み込ませ、そこから返ってくるものを受けて、ひとつ頷きを返した。

 そのとき、視界の隅に、とんでもないものを見てしまう。

 鏡に映る、わたしたちの肌の色だった。

(や! ちょ、ほとんど裸だったんだ!)

 ブラとショーツだけだった自分の格好をようやく思い出し、深左衛門さんから迫られている現状に、一気に焦りがこみあがる。

 急にわたしの挙動がぎこちなくなったその意味に気付いたのだろう。深左衛門さんの様子も、なんだか濃密なものをはらみだす。

 わたしの口を摘まんだまま、彼は無言で身体をさらに近付けてきて、どんどん壁際へと追い詰めてくる。

 いよいよ追い詰められて壁に背中が当たろうとするとき、もう一方の彼の手が、冷たい壁とわたしの背中との間に差し込まれた。

 その、背中に感じた深左衛門さんの大きな手の感触に、身体がびくりと震えた。

 近付く深左衛門さんの足は止まったけれど、じっと見つめ込む濃厚な眼差しが注がれているのが判る。

 眼が、語っている。

 艶めいた眼差しは潤んでいて、そこに戸惑ったわたしの顔が映っている。そのくらい、わたしたちの距離は近かった。

 深左衛門さんの息遣いが、乱れている。

 どうしよう。これ、すごくまずい展開。

 だけど……、期待、してしまう。

 だって本当はずっとずっと、深左衛門さんに見つめてもらいたかったから。

 ずっと、―――好きだったから。

 もはや抵抗らしい抵抗などいっさいできないまま、わたしは全身で深左衛門さんの次の気配を探るしかなかった。

 背中に添えられていた彼の手が、腰にまわってきた。そうして、

「……っ」

 ゆるりと手のひらが、ブラ越しにわたしの胸を包む。

 その感触に、(こら)えられない吐息が、鼻から抜けてゆく。

 深左衛門さんから与えられるあたたかで優しい肌の感触に、わたしはもうたったそれだけで(もろ)くも流されてしまう。

 彼の額が、わたしの額にこつんと触れた。乾ききっていない前髪が一筋はらりと落ちてくる。その感触すら、(なまめ)かしい。

「……は……」

 いつの間にか唇を摘まむ手は外れ、頬を包んでいた。声になりきらない吐息がこぼれ落ちる。

 熱い。

 深左衛門さんの熱い眼差しに焼かれるように射抜かれて、すべてが暴かれそうだ。

 熱に浮かされたふたりの息遣いの音が、この場を満たしていた。

 鼻先が、触れ合う。

 彼の眼が、ひたとわたしの唇を追っている。この距離に、胸を包む手の感触に、彼の隠そうともしない表情に、心臓の鼓動は強く、乱れる呼吸に唇はわななくばかりだ。

 僅かに、ほんの僅かに深左衛門さんの顔が傾く。でも、彼の唇は薄く開かれてはいるものの、触れるまではいかない。

「は……ぁ」

 肩で呼吸するわたしを、それでもまだ深左衛門さんは焦点も合わないだろうに、潤んだ眼差しで食い入るように見つめ込んでいる。

 彼の呼気が、淡く唇にかかってくる。それすらも、気持ちを煽ってくる。

 頬に遣られていた彼の親指が、おずおずと唇の端に流れる。なにかを確認するかのように。なにかを探るかのように。

 もう、ここまできてしまっているのだ。

 わたしからは、動くことなんてできない。

 でも……、いまならまだ引き返せる。

 いまならまだ、止められる。

 深左衛門さんの名を呼ぼうとした―――その唇に、柔らかな感触が落ちてきた。

 怖々としたという表現が当てはまりそうなそれは、紛れもなく深左衛門さんの唇だった。

 一瞬だけ触れた唇はすぐに離れ、けれどそれも次の瞬間には、ためらいがちにわたしの唇の上に戻ってくる。

 存在を確かめるように、深左衛門さんは優しく唇を押し当て触れ合わせてくる。

 わたし、いま、深左衛門さんとキスをしてる……。

 抵抗なんて、とうに忘れてしまっている。

 何度も何度も(ついば)むように深左衛門さんはわたしの唇を()み、どんどんとわたしの心を切り崩してゆく。

 いたわるような優しいくちづけから彼の気持ちが伝わってきていると感じるのは、わたしの思い上がりではないと思う。

 胸は甘く震え、腰の奥も熱く潤みだす。

(あぁ……)

 キスをしている。

 わたし、あの深左衛門さんとキスをしている……。





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