【第六夜】
わたしは学生だった。
ひどくショックなことがあったのか、気持ちは絶望していて言葉を発することができなかった。言葉を発することがあまりにも億劫で、言葉への意味を見失ってしまって、そんな言葉を使うのにとてつもない気力と体力がいったために、喋ることができなくなっていた。
そのせいもあるのだろう、クラスでは浮いていて、担任からも面倒な存在として疎まれていた。
でも、たったひとりだけ、ひたすら暗くて存在感のないわたしを気にかけてくれるひとがいた。
隣の席の、男子だった。
文字どおり文武両道な彼は、どうやら他の女子から人気があるらしい。それもそうだろう。学級委員長だということもあるかもしれないが、隣の席だからという理由で、担任からも眉を顰められる存在に気をかけられる心根の優しさを具えているのだ。もてないはずはない。背も高く、見た目だってもちろんかっこいい。
ただ、どういうわけか『好き』と感じたことはなかった。
好きになるということ自体が、よく判ってなかったせいかもしれない。
それでも、誰からもないものとして見做されるわたしにとっては、ただひとりこちらを見つめてくれる彼の存在はとてもありがたく、声をかけてもらえたり気にかけてもらえているそれだけで、昏く沈んだ思考に凝り固まった気持ちがほんのりとあたたかくなるのを感じていた。
学校への行き帰り、いつも彼はわたしを待ってくれる。
たまたま通学路の途中にわたしの家があるだけなのだろうけど、わたしの歩みが重たくなってしまったときはちゃんと待っていてくれ、時には隣に並んでそっと背中に手を添えてもくれた。背中に触れられる優しい感触が、震えるほどにありがたかった。
毎日毎日、彼は暗くて鬱陶しい存在のわたしに寄り添ってくれている。
決して嫌な顔はせず、決して面倒な素振りも見せず。
なにかにつけていろいろと話しかけてくれて、わたしの心をほぐそうとしてくれている。
嬉しくて嬉しくて。
でも、わたしは彼になにも返すことができない。
ありがとうという思いを、感謝している思いを伝えたくても、わたしの喉は音を作ってはくれない。呻き声すらも、喉は出し方を忘れてしまっている。
文字で伝えようともしたが、どういうわけか指は動かなくて、文字も絵もなにも描くことができなかった。
もどかしさばかりが募っていく。
けれど、そういったことすらも彼は判ってくれていて、大丈夫だからねと穏やかな表情を返してくれるのだ。
ある日のことだ。
淡いピンク色をした靴を履いていたわたしは、畑の真ん中で迷子になってしまっていた。広い畑の周囲にはぽつぽつと民家やマンションがある。でもわたしはそこまで行って誰かに助けを求めなければという意思自体を失くしてしまっていた。
助けを求めるのがとても疲れていて、誰にも会いたくなかった。誰も見たくなかった。このまま、朽ち果ててしまう自分をごく自然に受け入れていた。
時刻は昼あたり。季節は冬。
夜になって朝を迎える頃には、凍死できているなとぼんやり思っていた。
長い時間独り黒い土の掘り返された畑に座り込んで、夕暮れてゆく空を見上げていた。茜色とはこういうものなのかと、他人事のように空の色の移り変わるさまを眺めていた。
すると、背後からなにかが聞こえた。
振り返る前に、腕を引っ張り上げられた。
彼がいた。
迷子になっていたのはわたしのほうだったのに、彼自身が迷子になっていたかのような心細げな顔をしていた。
黒い土の間からピンク色の靴が見えて、わたしを見つけたのだと彼は言った。
ごめんなさい。
そう言うことができれば。
わたしはこんなときですら声を出すことができなかった。
ごめんなさいと言いたい。だけどその一方で、言葉を紡ぐ虚しさが、湧き立ったわたしの意思を呑み込んでしまうのだ。
なにもできなくてわたしは、ただただぽつねんと俯いて佇むしかなかった。
「帰ろう」
彼が言った。
わたしは、ひとつ頷きを返す。
彼が怒っていないことに、わたしは心の底からほっとしたのだった。