【第十夜】
森を抜けた小高い丘の上に立ち、わたしたちはふたり、夜空を見上げていた。
六月の満月はストロベリームーンと言うらしい。
「ほら。見て」
彼が長い指で夜空に輝く丸い月を示す。
「違い、判る?」
「違い?」
月の光は、輪郭だけでなく彼の相貌の美しさをも闇に浮かび上がらせていた。わたしは間近にあるその顔を意識しないよう、深い藍色の空で爛々と輝く月をあらためて見上げる。
違い。ちがい……。
「あ、れ……?」
違和感が、確かに言われてみればある。すごく、ある。
なにかが違う……。
でも、なにが違うんだろう。
「判った?」
いつもと違うことだけは判ったけれど、なにが違うのか。わたしはいっそうじっと月を見つめる。
「―――あ」
「判った?」
わたしの漏らした声に、気付いたと伝わったのだろう。
「はい。あれって、……ホントに……? 月、ですよね?」
わたしが真偽を疑おうとなんだろうと、現実目の前にある月の顔は、いつも目にする満月のものとはまったく違っていた。
赤みを帯びているいないとかそういうことではなく。
模様が、違うのだ。
兎とか蟹とか女性の横顔などと言われる、あの馴染みのある模様が無くなり、マーブル模様というのかそれをもっと複雑にした模様が輝く月面に現れていた。
「なんで……、もしかしてこれ、マジック、とか?」
「マジック? そうくるか。違うよ」
彼はどこかおかしげに返してくるも、決してわたしのとんちんかんな答えを莫迦にはしない。
ほんのりと笑んだ彼は、空を見上げた。
「ストロベリームーンというのは、月の裏側が見られる貴重な日でもあるんだ」
「裏側……」
月の裏側なんて見たこともないから、どんな顔をしているのか想像したことすらない。
「裏側と言ってもね、後ろ側のことじゃなくて、本当の裏側。表と裏の、裏」
「……え?」
衛星である月。その、裏? それはつまり、宇宙飛行士がふよふよと歩いた岩石の転がる白い砂地っぽい場所ではなく、その足下にある……裏側? 地面の、内側……?
「『V』の字が真ん中あたりに見える?」
「へ。あ……、はい。あります、あります」
複雑な模様を見せている薄赤い満月。その中央に、よく見ると大きな『V』の形をした色の濃淡がある。
裏側……、表と裏……。あれが、月の中にある、ということ……? いったい、どうやって?
彼はわたしをからかうようなひとではないし、なによりも実際に目に見えている月は、本当にいつもと違った模様だし。
わけが判らないまま、わたしは彼の説明に耳を傾けることしかできない。
「『V』の右側の線が、オリュンプス大峡谷。一番深い谷だ。少しだけ薄い左側は、トランクィリタス渓谷っていうんだ。その間にあるのが、雪の平原と呼ばれる平地だ」
知らない単語を、彼はすらすらと口にする。
本当に当たり前のように説明をしている。
わたしは、狐につままれた思いで、どう相槌を打てばいいのかも判らず、ただ頷くことしかできない。
夜空に浮かぶ薄赤い満月。
あの模様がいつもみたいな女のひとの横顔だったら、きっともっと背伸びしたオトナの女性な対応もできただろうけれど、―――何度瞬きをしても、月の顔はやはりいつもと違う。
頭が、追いつかない。
彼は隣で月の模様の説明をし続けてくれているけど、もうわたしにはなにがなんだか判らなくて、ついてゆけなくて、曖昧な頷きをしか返せない。
ストロベリームーンは月の裏側が見られるというのはもしかして世間の常識で、わたしはたんに物事を知らなかっただけ……?
みんなは知っているの?
ストロベリームーンを好きなひとと一緒に見ると幸せになれるって、……そう聞いたことはあったけど、それ以外のことなんて全然知らない。
どういうことなの?
なんで、裏側が見られちゃうの?
光の屈折とか角度とか時間とかそういうのが偶然重なって透けて見える、とか?
透ける? でも太陽は地球の反対側にいるはずだよね? 地球が透けて見えてるの? ううん違う違う。だって地球じゃなくて「月の裏側」って言ってたし。
頭の中が大混乱してしまって、わたしはもう瞬きもできなくなって、固まってしまっていた。
すると、ややして頭に優しい感触が数回あった。
なんとはなしに隣を見上げると、彼は、少し困った顔で笑みを湛えていた。
「もうすぐ、いつもの模様に戻るよ」
「え?」
もどる?
いまのあれが?
わけが、判らない。
ねえ。どうしていつもの模様に戻るって判るの?
本当に、足元すらおぼつかない。
これまで何年も一緒に過ごしてきた彼が、知らないひとにすら思えてきて。
「―――ごめんね」
唐突に、謝罪の言葉が降ってきた。
「びっくりさせちゃって」
むしろその発言と悲しそうな彼の表情に、わたしはぞくりと背筋が冷えて恐ろしくなる。
思わず、彼の腕を摑んだ。
「だめ。行かないで」
え? と今度は彼が怪訝な声をこぼす。
「どこにも行かないで」
月の光に連れて行かれてしまう。そう思ったから。
だからわたしはもう一度強く伝えた。
「どこにも、行かないで」
戸惑う彼。
けれどすぐに、「そうだね。うん。そうだね」と、頷いてくれた。
そのすぐあとにちらりと見上げた月は、いつもと同じ、女のひとの横顔に戻っていた。




