第7話 暗く、湿った街 3
「エレナ、起きてください。朝ですよ」
「……ん、まだ暗いじゃない」
メイクに呼び起されて目を覚ましたエレナだったが、まだまだ暗い窓の外を見て不機嫌な声を出す。
「確かに暗いですが、雨は止んだようです。今のうちに出発しましょう」
「……わかった」
朝の苦手なエレナは気怠そうに体を起こすと、大きくもないが小さくもない胸を反らせて伸びをする。本人は忘れているのか、寝る前に薄着になっており、程よい筋肉のついた腹部も見え隠れしていることもあってかメイクはどことなく視線を彷徨わせていた。
その後も、メイクの目を気にも留めていないかのように服を着替えだすエレナに驚き、慌てて後ろを向いたり、脱いだばかりでまだ暖かい衣服を畳んだりするなど、朝一番から何故か疲れているメイクとすっかり目が覚めていつもの凛とした雰囲気に戻ったエレナが宿を発ったのは空が白み始めた頃であった。
句動二輪を発進させると朝のまだ冷たい空気が顔に当たるが、そこに湿った風は無く、少なくとも日が出てしばらくは雨が降る様子が無いことを教えてくれる。連日の雨で道がぬかるみ、あちこちで水たまりが出来ているが、一晩かけて乾かせたフード付きのコートが、飛び散る泥から二人を守っていた。
「いい感じに晴れているけど、隣までどれくらいかかるのかしら?」
「地図を見たところ、どうやら今日一日走り続ければ夜のうちにたどり着けそうです」
「だったら一度止まって食事にしない? 朝から何も食べてないからお腹空いたんだけど」
「それには私も賛成ですね」
鉄の塊ではあるが、走る音は馬車よりも静かな句動二輪に乗る二人は何気ない会話をポツポツと話しながら道なりに進んでいたが、いつの間にか日が高く昇り始めており、随分長く走り続けてきたことがわかったエレナが空腹を訴え、それに同調したメイクが句動二輪を路肩に止めた。
周囲は広い野原になっており、時折吹く風が草木を揺らして波を生み出している。そんな気持ちの良い景色を見ながらエレナは日の光をたっぷりと含んだ空気を胸一杯に吸い込むと、いそいそと食事の用意を始めているメイクに向き直る。
「久しぶりに日の光を見た気がするけど、あの村はいつもあんなに雨が降っているのかしら」
焚火に鍋をかけて沸騰した鍋に干し肉の細切れを入れていたメイクは、エレナの疑問に頷く。
「ええ、あの辺りはどうも盆地になっていて雲が溜まりやすいようです」
「そうなんだ。でも、あんな所でも花って咲くのね。しかも結構綺麗な」
「……みたいですね。ですが、あんな種類の花は見たことがありません」
珍しく説明が来なかったエレナは、口元に笑みを浮かべると少し驚いたかのように続ける。
「へー、メイクでも知らないことがあるんだ」
「我々歴史の語り部は、未知を既知にするために存在しているのですから当然、知らないこともあります」
「けど、あの村はなんであんなにも閉鎖的なのかしら。あんなに綺麗な花畑があるんだから、あれを観光資源として利用すればいいのに。手入れもキチンとされてたし」
「……そうですね。それに関しては少しばかり推測というか予想がありますが、街で確認してみるのがいいでしょう」
歯切れの悪いメイクに、不穏な気配を感じ取ったエレナは眉を顰めた。しかし、さらに追及しようとして開かれた口は、突如香ってきた食欲をそそる匂いによって閉ざされる。
「完成です。保存食の余りものを煮ただけですが、なかなか上手くできたと思いますよ」
そう言って差し出してきたお椀には、朝から何も食べていないという空腹には抗いがたい香りの漂っている暖かなシチューが入っていた。いつの間にか手に取っていた椀のの中身を食べるうちに、メイクにしようとしていた不穏な質問は心の片隅からは消え去っていた。
満腹になった二人が出発し、時折メイクが調査のためにあちこち寄り道したこと以外は順調な旅路だった。このところ雨ばかりで満足に体を動かせていなかったエレナは、ここぞとばかりにはしゃいでいたのだが、夕方になるにつれてその元気はだんだんと落ちていき、夜の帳が落ちた頃には句動二輪の後ろで次の街につくのはまだなのかとしきりに訪ねるようになっていた。
「もうすぐですよ。というか何度目ですかその質問」
「だって飽きちゃんたんだもん。特に真新しいモノは見当たらないし」
何度目になるかわからないやり取りに、同じく何度目かわからない溜め息をついたメイクがふと顔を上げると遠くの方に明かりを見つける。
「どうやら本当にもう着くみたいですよ」
「本当! それじゃもっと飛ばして早く宿に行きましょ!」
目に見えて元気になったエレナに困ったような笑いを浮かべたメイクは、句動二輪を明かりに向けて加速させた。
「これは……」
「なに、この街、全然活気というか生気が無いわ」
街についた二人は愕然としていた。本来、街に入るときには門番に通行証なりを見せて入るのだが、この街には門番どころか、門すら開け放たれている状態であり、普通であれば市民で賑わうはずの大通りには飲み潰れたかのような浮浪人が数人横たわっているだけで、人ひとり出歩いてはいなかった。また、周囲に立ち並ぶ店には明かりもなく、まるで街全体が死んでいるかのような様相を呈していた。
「とにかく、宿を見つけましょう。もしかしたら夜が早い街なのかもしれません」
「わかった」
メイクの提案に乗ったエレナであったが、大通りの宿は軒並み鍵がかかっていて、戸を叩いても誰かがいる気配はなく、誰かに宿を訪ねようとしても誰も出歩いていない状況で宿を見つけるのはひどく難しかった。ようやく見つけた宿も、細い通りを何本も抜けて街の反対側まで来なければならなかった。
しかし、疲れた二人が戸を開けた宿は、本来であれば賑わっているだろう食堂に、誰一人として座っておらず、代わりに目の下に隈のできた婦人が頬杖をついて杯を弄んでいた。おそらく、この宿の者だろう。
「すみません、一部屋お願いしたいのですが」
異様な空気に呑まれたエレナに代わりメイクが声を出すと、頬杖をついていた婦人がこちらを見ると、勢いよく二人に迫ってきた。
「お客さん? お客さんなんだね!」
「え、ええ、そうです」
鬼気迫ったかのように近づいてきた婦人に気圧されつつも、なんとか頷いたメイクを見て、婦人は心の底から深い溜め息をついた。
「良かった……ようこそ、死んじまった街にある唯一の宿、ヤドリギ亭へ。あたしはこの店の主人、ラフスさ」
「死んでしまった街……?」
エレナが恐る恐る訊ねると、力なく微笑んだ女主人は溜め息交じりに話してくれた。
「そうさ、前はこの街にもいくつもの宿があって、大通りの店なんかも活気があったんだけどね。今やどの店も死んだようになっちまったのさ。ここへ来るまでもたくさん見てきただろう? それもこれも、いつの頃からか売られ始めた花が原因なのさ。あの黄色い花の香りには人を元気にする効果があって、この街はこぞって買い集めた。でも、その花が枯れちまうと、元気だった人たちまでもが生気を失ったかのようになっちまった。でも、またあの黄色い花の香りを嗅ぐと、また元気になるんだよ。そのせいで元気になってはやる気を失くすの繰り返し。それで結局このザマさ」
女主人の話に顔を見合わせた二人だったが、それに気づいた様子もなくラフスは話を続けた。
「いけないね、お客さんに聞かせる話じゃなかったよ。お腹空いてるだろう? 今、食事を出すからね」
そう言って背を向けてキッチンの方へ歩いて行った女主人に聞こえないよう、二人は顔を近づけると小声で話し始める。
「どう思う?」
「間違いなくトナードの村に咲く花の事でしょう」
「でも、私たちは何ともないわよ?」
「もう少し詳しく話を聞く必要がありますね……ですが……」
「なに?」
「食事を取ってからでも遅くはないでしょう」
「……そうね」
二人は頷くとカウンターに向かって歩き始めた。