契約
嫌に広い空間だ。ガナムの持つ松明の明かりが微かに一同を照らし出すが、この広い空間を全て照らし出す事は出来ない。ゆっくりと進み、異様な静けさに違和感を覚え始め、個々は剣を携えた。
『…人間…カ。オオ…人間ナノカ…』
重い、擦れたような声が部屋いっぱいに広がった。
「何だ、声が聞こえる!!」
ハイネは剣を構えながら力いっぱいに叫んだ。
「人だ、人間だ!貴様は、貴様は竜か!」
また、重い声が部屋中に響き渡る。
『…ハハハ、…ヤハリ…カ。貴様ラハ…人間カ』
風が一同を吹き飛ばした。壁に叩きつけられたハイネは嗚咽と共に押し殺したような声を漏らす。思わず歪めた顔を声の方へ向けると闇の中に二つの紅い光が見えた。
すると、壁の松明が一斉に火を灯した。真っ暗な闇が掻き消され、ハイネの目の前に黒い、そして巨大な物体が姿を現した。巨大な口がゆっくりと開かれた。
『我が名はシヴァ。誇り高き竜だ』
巨大な竜がハイネを見下ろしていた。ハイネは剣を握りしめ、それを支えにして立ち上がる。鋭い眼光でシヴァと名乗る竜を睨み付けた。
「貴様はあの忌まわしき竜か」
『三百年前、忘れもしないぞ。あの男に我は此処に閉じ込められた』
シヴァは大きく首を振るい、唐突に顔をハイネに近づけた。自らの身体より巨大な顔にハイネは思わず身震いした。
『我を此処から出せ、さもなければ今此処で貴様を喰い殺してやる』
「おらぁっ!」
背後から大剣を振り下ろすアゼザル。シヴァが巨大な尾を振り回し、アゼザルは部屋の隅へと吹き飛ばされた。
『汚らわしい人間め、我が身に傷を付けようとは!』
シヴァが唸り声を上げた。部屋中に響き渡り、大きく揺れる。土埃が舞い、ハイネは顔を歪めた。シヴァはハイネを背にし、アゼザルの方へゆっくりと歩き出した。アゼザルはハイネと同じように顔を歪めながら立ち上がろうと剣で身体を支えている。
――殺せ。
ハイネの心に何か語りかけた。殺せ、全て殺せ。何もかも。
ハイネは剣を握り直した。紅い悪魔が心に訴えかけたのだ。
「お前が三百年前に世界を滅ぼした忌まわしき竜なら、俺がお前を殺してやる!」
ハイネが力いっぱい叫んだ。思わずシヴァが振り向いた。ゆらゆらと立ち上がるハイネの瞳が鋭くシヴァを捕えている。身体中が殺気を帯び、髪が逆立つように歯を食いしばる。
空気が流動している。ハイネの周囲の空気がハイネから吐き出されるように周囲の小石が徐々に動く。真っ黒な煙のようなものがドロドロとハイネの身体に纏わりつき、ハイネの瞳が紅に染まった。
『貴様、まさか竜の子か!』
シヴァが驚きの声を上げる。
ゆっくりと近づき、ハイネは剣を振り下ろす。シヴァの顔から血飛沫が舞った。叫び声を上げるシヴァの顔を斜めに一筋の切り傷が刻まれる。ドクドクと溢れる血を流しながらシヴァは雄叫びを上げてハイネに喰らい付いた。
噛み千切られた右腕が剣と共に宙を舞う。反動で吹き飛ばされたハイネは血をだらしなく垂れ流しながらゆっくりと立ち上がる。
「貴様を殺す、殺してやる」
残った左腕で剣を拾い上げ、ハイネはシヴァに向かう。
「いけない、ハイネ。駄目だよ!」
ユリエが力いっぱいに叫んだ。
「契約しては駄目! 悪魔が君を殺してしまう!」
ハイネの身体を包む煙が形となって現れる。黒い翼を持った禍々しい悪魔。悪魔は大笑いしながらハイネの耳元で囁いた。
『あいつを殺したいか、いいだろう! 契約成立だ!』
悪魔は煙となり再びハイネの身体を包んだ。煙は形となってハイネの失われた右腕となり、同時に黒い翼を生やした。
『殺せ殺せ殺せ! 良いんだろ、殺したいんだよなぁ? 殺せよ、殺しちまえよ! ひっひっひっ、いい気分だぜ!』
悪魔の笑い声が部屋中に響き渡った。
『悪魔と契約した醜い竜の子め、忌まわしき契約と共に噛み殺してくれる!』
シヴァが大きな牙で噛み付いた瞬間、ハイネは翼を持って宙に浮いた。衝撃で壁が崩れる。シヴァが振り向いたとほぼ同時にハイネが忌まわしき右腕に携えし剣を薙ぎ払った。
再び叫び声を上げるシヴァ。怒り狂うシヴァは首に取り付けられた鎖を引き千切り、黒く巨大な翼を羽ばたかせた。宙に舞うシヴァ。巨大な牙がハイネを襲い、吹き飛ばす。壁に叩きつけられたハイネは動じる事も無く、不気味に笑みを浮かべ呟いた。
「殺してやろうか」
壁をけり、宙に舞うシヴァに突進する。
『あぁぁぁぁぁぁぁっ!』
シヴァの胸に力いっぱい剣を突き刺し、呻き声が上がった。床に叩きつけられるかのように墜落したシヴァは押し殺したような呻き声を上げ、同時に巨大な口から大量の血を吐き出した。
そのすぐ横にゆっくりと着地したハイネはこれまた不気味な笑みを浮かべながらシヴァに歩み寄った。
『自らの命を代償に悪魔と契約したか…』
その言葉にハイネの笑みが消えた。
「どういう事だ、悪魔が命を引きか…」
そう言いかけた時、ハイネの口から赤黒い血が吐き出された。黒い右腕と翼は煙となりハイネから離れ、やがて悪魔となる。
『命と引き換えに力を貸してやったぞ。くくくっ、はぁ、お前に待っているのは死だ。楽しい殺し合いをありがとよ』
悪魔は嘲笑うかのようにゆっくりと宙に舞う。
『我が焔によって貴様に死を齎そう!』
シヴァが首を持ち上げ口を開いた。紅の焔が口元で渦巻き、閃光と共に吐き出された。悪魔が叫び声を上げながら燃える。
『がぁぁぁぁぁっ、やめろ、やめろぉぉぉっ!』
悪魔が焔に焼かれ、包まれながら床に落ちた。黒い煙を出しながら。
シヴァは力を使い果たしたようにだらしなく頭を地面付けた。僅かな呼吸で精いっぱいのように口を開いたままだ。
勿論、ハイネも同じであった。噛み千切られた右腕と口から溢れんばかりの血が垂流れ、ぐったりと倒れ込むようにしてその場に跪く。
『くくくっ、共に此処で息絶えるか』
ハイネの顔から血の気が引いていく。身体がぐらりと揺れ、倒れ込むと意識が徐々に失われていく。
死ぬのか、此処で。
――ハイネ。
ハイネの脳裏に女性が浮かんだ。優しく微笑みかける女性。愛しい、手の届かない遠い存在。母さん。復讐すると誓ったあの日。母が殺され、殺そうと誓った。
殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる。
――殺してやる、絶対に。
拳に力が湧いた。よろよろと立ち上がり、剣をシヴァに向けた。
「契約しろ、この俺と!」
笑い声と共に血を吐き出すシヴァ。
『復讐か? 復讐の契約なのか?』
「殺したい、殺すまで死ぬわけにはいかない! 誓え、契約しろ!」
シヴァの笑い声が部屋に響き渡る。
『いいだろう、契約だ』
シヴァの唸り声と共に口から光が漏れ出す。光が瀕死のハイネを包み込んだ。柔らかな光がハイネの傷を癒し、胸に入っていく。失われた右腕が光と共に現れた。そしてシヴァの胸の傷が癒えていく。
真っ白な空間でハイネとシヴァは対峙した。
『我の翼が朽ちた時、貴様の右腕は腐り堕ちる。貴様の心臓が止まった時、我の命は終わりを迎える』
シヴァが顔を近付けた。
『契約だ、その意味は解るな?』
あぁ、とハイネは頷く。再び生み出された右腕でシヴァの顔に触れる。
「契約の、契約の代償は?」
そうだなぁ、とシヴァは一度翼を広げて見せた。
――世界を、滅ぼしてやろうか。
ハイネは表情を変えずに、黙って頷く。
「構わない、復讐が出来るのであれば、皆殺しにしても」
真っ白な精神世界から解放されたとき、ハイネとシヴァは復讐と滅亡の契約をたてていた。