婚約者がいつも優先する幼なじみは、本当に病弱なのでしょうか? 直接確かめてみることにしました
「ミリネを治療院へ連れていかなくちゃならないんだ」
「そうですか」
「僕が付いていてあげないと、あの子は不安がるから……悪いな、エリーゼ」
さほど申し訳なさそうな様子もなく、婚約者のアベルはそう告げた。
「ミリネは昔から体が弱いんだ。エリーゼなら分かってくれるだろう?」
今日は私の誕生日だった。
せめて誕生日くらいは、婚約者と一緒に過ごせると思っていたのに。
胸の奥がきゅっと痛んだ。
けれど、喉元までせり上がった熱いものを、私はどうにか飲み込んだ。
そして、静かに答えた。
「承知いたしました、アベル様」
アベルは、私の初恋だった。
五年前、セレスティン公爵家の娘である私と、グレンウェル伯爵家の子息アベルとの婚約が決まった。
初めて顔を合わせたときから、私は彼に惹かれていた。
黒髪に、海のような青い瞳。少し内気で、物静かな雰囲気をまとった彼が好きだった。
『エリーゼ様の笑顔は、本当にお美しいですね』
そう言ってくれたアベルは、学園に入学し、幼馴染のミリネと再会してから、私よりも彼女を優先するようになった。
ミリネは、波打つ金髪が愛らしい令嬢だ。
彼曰く、ひどく病弱らしい。
アベルはもう、私を見ていない。
いや、最初から彼の優しさは、ただの社交辞令にすぎなかったのかもしれない。
今では、その形だけの優しささえ見せなくなっていた。
ただ一つ、腑に落ちないことがあった。
私と約束した日に限って、アベルは「ミリネの具合が悪いから、そばにいてやらなければならない」と言い出すのだ。
けれど、私が見る限り、彼女は顔色もよく、食事の量も決して少なくなかった。
少し歩くだけでも息が上がり、長くは歩けないと聞いていたのに、かなりの距離を平然と歩いている姿も見たことがある。
私は疑問を抱いた。
病弱だというアベルの幼馴染――ミリネは、本当に体が弱いのだろうか。
なぜ彼女は、決まって私とアベルが会う日になると具合が悪くなるのだろう。
「どうやら、確かめてみるしかなさそうですね」
屋敷に戻った私は、信頼できる侍女に命じ、ミリネのことを調べさせた。
◇◇◇
学年末のパーティー会場は、華やかに賑わっていた。
その日もアベルは婚約者である私を差し置いて、ミリネをエスコートしていた。
本来は私をエスコートするはずだった。
ところがパーティーの直前、ミリネが「一人では歩けそうにありません」と言い出したため、アベルは彼女のもとへ行ってしまったのだ。
普段は一人で何の問題もなく歩いているミリネが、どうしてパーティーの直前になると歩けなくなるのだろう。
胸の奥が苦くなるのを感じながら、私は二人を見つめた。
音楽がひときわ盛り上がったころ、私は周囲にも聞こえるようにミリネの名を呼んだ。
「ミリネ様。あなたにお尋ねしたいことがあります」
ミリネはびくりと肩を揺らし、こちらへやって来た。
「何でしょうか、エリーゼ様」
か弱げな様子ではあったが、やはり顔色は悪くない。
「ミリネ様。あなたの体調が急に悪くなるのは、たいてい私とアベル様の約束がある直前でしたね」
「……」
「今日もそうでした。あなたはパーティーの直前に、急に具合が悪いとおっしゃった。これを偶然だと思うには、少し無理があります」
「そんな……私は本当に具合が悪くて……」
その瞬間、ミリネは額に手を当て、倒れ込むようによろめいた。
アベルが驚いたように、慌てて彼女を支える。
「病弱な方に、少しひどいのでは?」
「そうよ。ミリネ様がお可哀想だわ」
周囲の生徒たちの囁きが耳に入った。
けれど私は構わず、もう一度口を開いた。
「一週間前、あなたはアベル様と一緒に、王都の聖ミカエル治療院へいらしたそうですね」
その日は、私の誕生日だった。
アベルに約束を破られた日でもある。
ミリネは困ったように眉を寄せ、答えた。
「はい。あの日はとても具合が悪くて、アベル様が治療院まで付き添ってくださいました」
いつの間にか、生徒たちは興味津々といった様子で、私たちの周りに集まっていた。
ミリネのそばにいたアベルも、不満げな顔で口を挟む。
「エリーゼ。僕がミリネと治療院に行ったことが、そんなに気に入らなかったのか?」
アベルは、探るように私の顔を覗き込んだ。
「ええ、気に入りませんでした。少なくとも、あの頃は」
それがもう過去のことだと伝わるように、私は答えた。
アベルが何度もミリネを優先するたびに、私は傷ついてきた。
けれど、それが繰り返されるうちに、彼への期待は少しずつ薄れていった。
そして彼への想いも、少しずつ冷めていった。
「そうか。君ならわかってくれると思っていたんだけどな」
私はアベルの言葉を聞き流し、再びミリネへ視線を向けた。
「あの日の件について、聖ミカエル治療院から院長署名入りの証明書を預かってまいりました」
その瞬間、ミリネとアベルの顔が引きつった。
聖ミカエル治療院が、セレスティン公爵家の支援を受けている治療院のひとつだということまでは、ミリネも知らなかったらしい。
私は二人の前で、証明書と調査報告書を広げた。
「証明書によれば、その日、ミリネ様が聖ミカエル治療院を受診した事実はありません。さらに、こちらの調査報告によれば、あなた方は治療院へ行くと言って、王都の北広場にあるカフェで過ごしていたそうですね?」
「うっ……」
ミリネは青ざめ、唇を噛んだ。
「あの日だけではありません。私と約束していた先月一日、そして先々月末にも、アベル様はミリネ様を治療院へ連れていかなければならないとおっしゃいました。ですが、そのいずれの日についても、ミリネ様が聖ミカエル治療院を受診した記録はないと、この証明書には記載されています」
「え、本当に嘘だったの?」
「ミリネ様って、本当に体が弱いのだと思っていたのに。私たちを騙していたの?」
生徒たちの視線が、少しずつミリネへと冷たく向けられていった。
「さらに、こちらはミリネ様が肺を患っているという理由で、いつも持ち歩いていた薬瓶です」
私は、彼女が捨てた薬瓶を取り出し、皆に見せた。
薬瓶のラベルには、ミリネの名前が書かれていた。
「成分を調べたところ、この薬瓶に入っていたのは、ただの強壮剤でした。しかも、その強壮剤に含まれていた樟脳草の成分は、肺の弱い患者には有害なものです」
周囲がさらに大きくざわめいた。
私は声に力を込めて、さらに言葉を重ねた。
「ミリネ様。あなたは本当に、病弱なのですか?」
ミリネは顔を赤くして視線を泳がせたあと、開き直ったように言い放った。
「ふん。私が病弱でもそうでなくても、それが何だっていうんですか?」
「十分、問題になります」
私は静かに答えた。
「あなたは病弱なふりをしてアベル様を呼び出し、そのたびに、私とアベル様の約束を破らせました。そしてアベル様の隣には、いつも当然のようにあなたがいました」
「……」
「私とアベル様の婚約は、家同士が結んだ公的なものです。あなたがその関係を故意に邪魔したということは、両家の名誉と信用を傷つけたということ。どれほどの慰謝料を請求すべきか、見当もつきませんわ」
「そんな……慰謝料だなんて……」
慰謝料という言葉に、ミリネの顔はさらに白くなった。
裕福でもない男爵家が、莫大な慰謝料を払えるはずもない。
彼女はあまりの動揺に足をもつれさせ、アベルが咄嗟に支えた。
しかし、それでも完全に腰が抜けてしまったのか、ミリネはその場にへたり込んでしまった。
「ミリネ……」
アベルも私の追及に戸惑っているようだったが、反論する言葉はないようだった。
これでミリネは、嘘をついて他人の婚約を邪魔した恥知らずな令嬢になった。
か弱く病弱な令嬢の仮面は、完全に剥がれ落ちたのだ。
「本当に恥知らずな方ね。私たちも気をつけませんと」
「ええ。また演技をして、誰に取り入るかわかりませんもの」
令嬢たちの囁きが、矢のようにミリネへ突き刺さっていった。
ミリネは泣きそうな顔で、周囲を見回した。
「わ、私は、ただ……」
今にも泣き出しそうな顔でそう呟いた彼女は、次の瞬間、叫んだ。
「……アベル様に言われた通りにしただけです!」
その声は、会場中に響き渡った。
一瞬で、周囲は水を打ったように静まり返った。
私もまた、呆然としてアベルを見た。
アベルは目を大きく見開いたまま、ミリネを支えていた手を離した。
そんなアベルを睨みつけ、ミリネは泣き叫ぶように言った。
「言ってください、アベル。あなたが頼んだのでしょう? 私に病弱なふりをしてほしい、エリーゼ様を刺激してほしいって!」
頭が真っ白になった。
私は今、何を聞かされているのだろう。
ミリネが病弱なふりをしたのは、すべてアベルの指示だった……?
到底信じられない事実に、理解が追いつかない。
逃げ場を失ったように、アベルが力なく口を開いた。
「……エリーゼ」
「……」
「僕は、君が嫉妬するところを見たかったんだ」
殴られたような衝撃に、私はよろめいた。
頭の奥がずきずきと痛み出した。
「君はいつも冷静で、堂々としている。だから、君の気持ちを確かめたかった。君が嫉妬して怒って、悲しんで、僕に縋るところが見たかったんだ。それで安心したかっただけなんだよ」
アベルはがくりと肩を落として言った。
「アベル様……」
目の前が遠くなりかけたが、私はどうにか踏みとどまった。
「私は……あなたのことが好きでした」
その時、アベルの目が、大きく揺れた。
私は彼を見据えたまま言葉を続けた。
「あなたがミリネ様を優先するたびに、私はずっと傷ついていました」
「……だったらどうして、どうして態度に出さなかったんだ!」
「態度に出さないように育てられたからです。それが、公爵令嬢としてあるべき姿だからです」
「……! 僕は、君は平気なのだとばかり思っていた」
「平気だったわけではありません。あなたの前で、取り乱さないようにしていただけです」
私は長く息を吐き、淡々と告げた。
「でも今は、本当に平気になってしまいました」
アベルの瞳が大きく揺れた。
彼は何かに縋るように、慌てて言葉を重ねた。
「エリーゼ。君も僕を見てくれていたんだな。僕も、今さらだけど君が好きなんだ。ミリネに特別な感情はない」
近づいてきたアベルが私の手を取ろうとした瞬間、私は迷わずそれを振り払った。
「もう遅いです」
もう私の心は、彼には向いていない。
何度も傷つけられた果てに、私の想いは終わってしまった。
「でも、僕のことが好きだったと……」
「もう、あなたのことは好きではありません。あなたには、ほとほと呆れました。そんな卑劣な真似をしていたなんて」
私はアベルとミリネを、冷ややかに見下ろした。
アベルは私を好きだと言いながら、私の心を弄んだ。
そんなことを、許せるはずがない。
「今のあなたは、私にとって嫌悪の対象でしかありません。それから、私たちの関係についても考え直す必要がありそうですね」
アベルは私の言葉に打ちのめされたように、その場に立ち尽くした。
私は彼をその場に残し、悠然とパーティー会場を後にした。
◇◇◇
「お父様。私の気持ちを汲んでくださり、ありがとうございます」
私は父の前で、深く頭を下げた。
「いいのだ、エリーゼ。つらい思いをしたな。まさか、アベル君があのようなことをしていたとは」
父は手元の書類を閉じ、苦々しげに小さく舌を鳴らした。
「グレンウェル伯爵家と、あのミリネという令嬢の家にも、相応の責任を取らせる」
その声は、ひどく厳しかった。
両家が支払うことになる慰謝料は、莫大な額になるだろう。
もちろん、どちらも裕福な家ではない。かなり苦しむことになるはずだ。
さらに、アベルとミリネが今後、家でも社交界でもどのような扱いを受けることになるかは、目に見えていた。
「そもそもアベル君は、我が家に迎える相手として十分な人物ではなかった。お前が望むなら、もっとよい相手を探そう」
「今度は、私を信じてくださる方と出会いたいです」
父は静かに頷いた。
「実は、以前からお前に縁談を申し込みたいと言っていた家があった。そちらと話を進めてみたいと思っていたのだが、すでにアベル君との婚約が決まっていたため、見送っていたのだ」
「……そうだったのですか?」
「ああ。だが、今は事情が変わった。もちろん、急ぐ必要はない。お前が望むなら、改めて検討してみようというだけだ」
「それなら、検討してみてもよさそうですね」
私は父に向かって微笑んだ。
過去のしがらみを払い落とし、これからは新しい人生を歩んでいこう。
そう、心に決めた。
◇◇◇
薄暗い部屋の中で、燭台に立てられた一本の蝋燭の火だけが揺れていた。
その灯りの前に、アベルが座っていた。
無精髭を伸ばし、すっかりやつれた顔で、彼は一冊の日記を開いた。
そして、最初のページから読み始めた。
――――――――――
エリーゼは、たまらなく愛らしい。
けれど、いつも無表情で冷静な彼女の気持ちがわからなくて、不安になる。
彼女が僕に縋ってくれたら、安心できるのに。
そうだ。
試してみればいい。
これは、ひとつの実験だ。
内容と結果は、この日記に記していこう。
実験その一。
僕が約束を破ってミリネのもとへ行ったら、エリーゼは怒るだろうか。
結果。
反応なし。もっと強い刺激が必要。
……
実験その十五。
誕生日のような大切な日に約束を破ったらどうだろう。
これなら、きっと泣くだろう。
泣きながら僕に縋るエリーゼが見たい。
結果。
彼女は縋ってこなかった。
どうしてまだ縋ってこない?
やはり僕のことなど好きではないのか?
実験その十六。
今度は学年末のパーティーで、エリーゼをエスコートするのをやめてみよう。
彼女はきっと衝撃を受けるはずだ。
今度こそ、氷のように冷静な彼女の表情が崩れるところを見られる。
きっと、彼女の口から「好きです」という言葉を聞けるはずだ。
結果。
――――――――――
空白のまま残された最後の結果欄を、アベルは呆然と見つめた。
その結果、彼は……エリーゼの愛を完全に失った。
「好きです」という言葉ではなく、彼女から返ってきたのは、
『好きでした』
という、あまりにも寂しい一言だった。
その一言に、胸が潰れるようだった。
もっと早く、彼女の気持ちに気づいていたなら。
いや、ミリネを利用して無理やり彼女の心を試そうなどとしなければ。
僕に、まだ機会はあったのだろうか。
「僕の、僕のエリーゼ……」
アベルの頬を、涙がとめどなく伝っていった。
数日後には、父の手配で地方へ末端の役人として送られることになっている。家を出る日は、もう決まっていた。
さらに父からは、グレンウェル伯爵家の籍から外すとも告げられていた。
エリーゼの家に婿入りする話がなくなった以上、彼にはもう、平民として生きていく道しか残されていなかった。
セレスティン公爵家から請求された莫大な慰謝料は、一生、役人として働きながら返していくことになる。
『好きでした』
彼女のその一言を、生涯忘れないだろう。
もうアベルに、エリーゼの心を試す機会はない。
永遠に……。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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