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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

夏の終わりに後悔の音を

作者: 蒼花妃
掲載日:2026/03/22

 消えかけの街灯が、パチパチと音を立てて点滅する。

 真っ暗な路地を、数週間分の洗濯物が入った籠を抱えてコインランドリーまで歩く。もう夜中の三時だというのに気温は下がらず、じっとりとした汗が首を伝い、キャミソールが背中に張り付いて気持ち悪い。

 腕や足に疲労感を覚えながら、見えてくるひときわ光を放つ建物。

 明かりの前に立つと、スマイルマークにグッドサインをした意味不明なマスコットが迎えてくれる。虫を殺すための青色のライトがマスコットを下から照らし、より一層不気味に見える。

 マスコットの明かりに群がった虫たちが、バチバチと焼け死んでいく音が聞こえる、一番明るく、虫が群がると思われるマスコットの顔の下に、虫を殺す機械を置くのは非常に合理的だが、その虫を集めているのも明かりをつける人間だと思うと、このコインランドリーの持ち主が本当に下劣なクソ野郎にも思えてくる。光に囚われ、逃げることができなくなった虫が一匹、また一匹と青い光に吸い寄せられ死んでいく。その光景を、ただじっと眺めていた。

 そこにひときわ大きな真っ白い蛾がやってくる。

 その蛾も例に漏れず、マスコットの光に囚われ、自分では逃げ出すことができなくなり、ぐるぐると宙を旋回する。そしてほかの虫と同じように青い光に殺される。落ちてゆく蛾はひらひらと舞いながら、私の足先へと落下する。まだ死に切れていない蛾は、ピクピクと足を震わせる。

「気持ち悪い。」

 思わず口に出た。

 コインランドリーの中に入ると、エアコンの涼しい風が体を冷やしてくれる。人は誰一人おらず、回っている洗濯機も一つもない、

 抱えてきた洗濯物を籠ごとひっくり返すように、手近な洗濯機の中に押し込み、ポッケに入った小銭を適当に投入口に入れる。

 動き出した洗濯機が、ピーだの、ガタンだの音を立てながら動き出す。洗濯機がしっかりと動き出したことを確認すると。近くの椅子に腰を下ろす。いつからあるのか分からないボロボロな扇風機を自分の前まで引っ張り、強風のスイッチを押す。

 扇風機の風が、顔に張り付いた長い髪を吹き飛ばす。キャミソールの胸元を引っ張り汗で張り付いた箇所にも風を送り込む。その時、初めて自分がノーブラでここまで来てしまっていたことに気が付いた。やってしまったと一瞬後悔もしたが、こんな夜遅くに誰かと会うこともないだろうと開き直った。

 小銭を入れたポケットとは逆のポケットをまさぐり、ライターと煙草を取り出す。煙草に火をつけ、ふーっと煙を吐き出すと扇風機に乗せられた煙が宙を舞い、形を変え消えていく。その光景が、おかしくって何度も何度も繰り返す。煙草が一本吸い終わり、残りカスを足で踏みつける。何度も足で踏みつけるたびに思う。


 くそったれ。


 思い返せば思い返すほど、くそったれな人生だ。明日死なないために今日を生きる。毎日それの繰り返し。生きるのに必要な金を何とか稼いで、生きるためにお金を稼いでいたら、やりたいことをする時間は無くなって、また生きるためにお金を稼ぐ。

 生きるために生きている。

 そんな言葉がよく似合う。当たり前のことだと思われるかもしれないが、生きる意味を生きるため以外に見出せた人間がどれだけ幸せなのか、私には想像もつかない。

 他人の自慢話なんて聞きたくない。昔はよかっただの、中身のない話に相槌打って笑っている自分を思い返すだけで、自分が気持ち悪いし、相槌を打つたびに自分の本当の気持ちみたいなものが分からなくなっていくようなそんな気さえする。

 こんなはずではなかった。

 有名人になりたいわけじゃない。お金持ちになりたいわけでもない。ただ、明日を心配しないで済むだけのお金を手に入れて、たまの休日に自分の好きなことをして、また明日を迎える。ただそれだけでよかったのに。それすらも叶えることができず、夜中の三時に汚いコインランドリーで煙草を吸っている。

 夏の夜、特に今日のように蒸し暑い日になると、いつも思い出すことがある。

 高校時代の吹奏楽部での思い出。思い出すたびに吐き気がして、叫びたくなるような最悪な思い出。

 忘れたくて、何度も忘れろと念じた、何か別の記憶で覆い隠そうとした、それでも記憶は消えてくれずに、今も私の中にいる。

 反復学習と同じように、忘れようと思い出すたびに、その記憶は反復され脳に長期記憶として定着してしまったのだろう。これからも思い出すたびに記憶は濃くなり、消すことのできない最低な記憶になると思うと憂鬱で仕方がない。

 ピーという警告音が静寂を切り裂いた。

 同時に、思い出していた記憶も一緒に切り裂いてくれる。

 扇風機の電源を落とし、洗濯機を開く。洗い終わった洗濯物を、乱雑に籠へ詰め込んでいく。最後の衣服を籠に詰め込む時、コトンと何かが落ちる音がした。

 ライターか、何かをポケットに入れたまま洗濯してしまったのではないか、という不安がよぎり、慌てて落ちたものの正体を確認する。

 それは、誰かのスマートウォッチだった。

 きっと、前の利用者が一緒に洗濯してしまい、洗濯機に取り残されてしまったのだろう。それに気づかず、私がまた洗濯してしまった。

 何とも不運なスマートウォッチだ。

 ボタンを押すと、幸い電源は生きていた。

 画面には二千十七年七月十三日と九年前の日付が表示されている。いくら画面をタップしても、スワイプしても、その画面から動くことがなく完全にフリーズしている。どうやら洗濯の衝撃でどこか壊れてしまったらしい。

 捨ててしまうか。とも考えたが、まだ画面が動くなら、売れば金の足しになるだろう。最近では、ケータイだの、ゲーム機だのの電子機器を修理する姿を撮影し、新品を買うより何円得できたかをネットに投稿してお金を稼ぐ人間もいるらしい。私にとっては壊れたガラクタでも、お宝に見える人には高く売れる。

 周りを見渡す。

 無人のコインランドリーには、私が以外一人もいない。

 誰かコインランドリーに来てしまう前に、スマートウォッチを洗濯物に包み、何事もなかったかのようにコインランドリーを出る。

 こんな高価なものを気づかずに洗濯機に入れてしまう人だ。どうせ何処かのお金持ちに違いない。失くしたことも気にも留めず、新品を買うだろう。苦しんでいる私がそれをもらったって、何も悪いことはないはずだ。

 頭の中を、自身を正当化するための言葉が、泉が湧きだすように溢れてくる。

 誰もいないはずのコインランドリーで、誰かに見られているような、気持ち悪い感覚が背中に付きまとう。

 振り払うように、コインランドリーの扉を力いっぱい開け放ち外へ飛び出す。

 その時、真っ白な閃光が、視界を覆いつくす。

 あまりの眩しさに、思わず閉じた瞳をゆっくりと開く。

 私は、真っ白な何もない空間に立っていた。

 前も、後ろも、右も、左も、あるいは上下まですべてが真っ白で、空間が無限に続いているように思えて、自分がしっかりと地面に立てているのかさえ定かではなかった。


 ピッピッ。


 一定間隔で電子音が聞こえる。

 耳を澄ませると、音は私の洗濯籠の中から聞こえてくる。

 ゆっくりと籠を地面に置き、洗濯物をかき分けていく。音の正体は、先ほど拾ったスマートウォッチだった。画面をタップしても、スワイプしてもやはり反応がない。ただ電子音だけが次第に早く大きくなってゆく。

 気味が悪くなり、スマートウォッチを投げつける。何度か地面を跳ねたスマートウォッチは相変わらず電子音を響かせている。


 ピーーーーーーー。


 一定間隔で続いていた電子音が、けたたましい音を発する。その瞬間、体が謎の浮遊感に襲われる。

 真っ白だった空間に、真っ黒な大きな穴が私の真下に突然現れた。何も掴むことができず、底なしの穴の底へ落下してゆく。

 体が底なしの穴に飲み込まれる直前、スマートウォッチの画面にノイズが走り、ひとりでに文字が打ち込まれていく。

「次は失敗しないでね。」

 そう書いてあったように見えた。


 *


 夏の香りがする。まだ若い草花の青臭い香りと、空気中に留まり続ける湿気が交じり合った、暑くてたまらなくて、それでもどこか懐かしいような香り。

 私はこの香りを、今でも忘れることができずにいる。

「京子?どうして泣いているの。」

 懐かしい声がする。もう何十年も聞いていない、でも忘れることのできない声。

 ゆっくりと目を開けると、そこはどこか見覚えのある教室だった。グランドピアノに、防音のための波打った壁、特徴的な段差上になった床。周りには、それぞれに楽器を鳴らす学生服の生徒。そして、譜面台に乗ったボロボロになった楽譜に、私の手に握られているトランペット。

 ここは音楽室だ。しかも、ただの音楽室ではない。私がかつて通った高校の音楽室そのものだ。

 周囲の生徒の顔を見ると、見覚えのある顔ばかり。頭の理解がまるで追いつかない。

 さっきまで私はコインランドリーにいたはず。それがどうして、昔通っていた高校の音楽室いるのか。それに真っ白な空間は何だったのか。スマートウォッチから鳴っていたあの警報音はなんだったのか。いくら脳みそをフル稼働して、情報を整理しても納得のいく答えは一つも出てこない。

「あ~。もしかして緊張してるんでしょ。」

 声のする方へ振り向くと、髪をショートボブに切り揃えた女の子が優しい笑顔でこちらを見つめている。

 咲だ。河合咲だ。私の唯一の親友だった、あの咲だ。

「もう、大会まで一か月だもんね。」

 咲は教室の黒板へ視線を向ける。その視線を追いかけるように、私も視線を前方へ送る。

 黒板には、大きく太字で書かれている。


 『大会まであと一か月!!』


 私はその瞬間、堪えられないほどの吐き気に襲われた。

「京子!大丈夫!」

 蹲る私に、隣に座っていた咲が、優しく背中を撫でてくれているのが分かる。まだ収まらない吐き気をなんとかこらえながら、私はゆっくりと体を起こす。

 明かり一つない夜の景色が、音楽室に張られた窓を鏡のように変えている。そこには、今にも吐きそうな顔をした高校生の私がいた。

「ごめん。私……。」

 吐き気に耐え切れず、譜面台も倒す勢いで教室を飛び出した。

 高校に通っていたのは、もう数十年も昔の記憶なのに、なぜかトイレまでの道のりははっきりと覚えていた。

 駆け込んだ女子トイレの個室で、吐いた。ニ、三度えずいたあと、胃の中の物をすべて出し切り、ようやく吐き気が落ち着いてきた。

 ふらふらになりながら、個室を出て洗面台で、口を軽く濯ぐ。改めて鏡を見ると、やはりそこには、黒縁のダサい眼鏡をかけ、髪を後頭部で一つにまとめた高校生の私が映っていた。

 なぜか私は、過去の世界に来てしまったようだ。原因は分からない。しかし、拾ったスマートウォッチが関係していることは確かだろう。やはり得体のしれないものは、拾うべきではなかったと今更になって後悔している。よく物語であるように、自身の腕を抓ってみる。痛みはある。物語だと、この痛みが現実であると示す一つの指標となっているが、自分の身に、タイムスリップのようなことが実際に起こると、この痛み程度では、これが現実であると思うことは到底できなかった。それにスマートウォッチの画面に映った「次は失敗しないでね。」という文字が頭をよぎる。

「失敗」

 頭で、何度もその言葉を繰り返すたび、ある出来事が浮かび上がりそうになる。それでもその記憶だけは、二度と思い出すことがないように、必死に記憶に蓋をする。

 まずは、とにかく情報を集めるしかない。確かにここは、私の高校時代そのものだが、本当に過去に戻るなんて、そんな都合のいい話ある訳がない。きっとこれには、何か裏があるはずだ。

 鏡の中に移る自分をもう一度見つめ、今起こっているありのままを受け入れる努力をする。体が高校生になったことで、心も思春期特有の不安定さに引っ張られているのか、大人だった時より心が激しく揺さぶられているような感覚がする。何度か深呼吸を繰り返し、呼吸を整え、ようやく心が落ち着きを取り戻す。そして、意を決しトイレを後にする。

 もう時刻はだいぶ遅いのだろう。廊下も教室も明かりが消え、誰一人いない。目覚めた場所が音楽室であること。咲が隣にいたこと。それに私が今、握っているトランペットのことを考えると、今は放課後の部活の時間だろう。私の高校は、それなりに強い吹奏楽部で、よく夜遅くまで練習をしていた。吐き気のせいで、はっきりと見ることができなかった廊下は、確かに私が高校生時代のものと全く一緒だった。廊下に並んだロッカーの配置に、教室の机、教室の後ろに張り出された、テスト範囲の張り紙。すべてが同じで、どこか懐かしく思う。本当に昔に戻ってきたのだと、思えてしまうほどに。

 真っ暗な廊下を、間違い探しをするように、違和感を探しながら歩くが、何一つ見つけることができず、唯一、光の漏れる音楽室まで着いてしまった。

「なんで、お前なんだよ!」

 音楽室から怒鳴り声が聞こえてくる。

 恐る恐る、教室を覗くと、数人の先輩が咲を取り囲んでいる。

「お前より、優香の方がうまいに決まってんじゃん。」

「どんな、汚い手使ったんだよ。」

 ガンッと咲の椅子が蹴られる。蹴られた衝撃で咲の体が大きく揺れるが、咲は俯いたまま何も言い返さない それでもトランペットを握った指先だけは、演奏をするように動き続けている。

 間違いない。あれは課題曲のリズムだ。

 私は、この咲の指先を、前にも見たことがある。罵られ、罵倒されて、指先が震えても練習を止めないその指先を。

 黒板に書かれた日付を見て、ようやく理解した。今日が、夏の大会メンバーの発表日だったことに。

 そして、思い出した。

 忘れてしまいたかった記憶を。

 忘れるために何度も押し殺した記憶を。

 私の犯した罪を。


 *


 咲は、誰よりもトランペットがうまかった。

 私と咲は、小学校からの同級生で所謂、幼馴染というやつだ。私たちが初めてトランペットに出会ったのは、中学校の吹奏楽部の部活動紹介だ。先輩たちが演奏する姿、特にトランペットをソロで吹く先輩の姿に、咲は釘付けになっていた。

 私はというと、咲ほどの感動を感じてはいなかったと思う。教室に戻り、咲が吹奏楽部に入ると言ったときは、ただ咲と一緒に居たくて、私も吹奏楽部に入りたいと言った。


 好きこそものの上手なれ。


 この言葉は、咲のような人のためにあるのだと思った。

 初めて吹奏楽部でトランペットを触ったとき、私たちは、音すらろくに出すことができなかった。しかし、咲は次の日には音を出せるようになった。その後、一週間で音階を覚えた。そしてすぐに、簡単な曲ならすらすらと吹けるようになった。私も咲に追いつきたくて必死に練習した。それでも、咲と同じようにトランペットを吹けるようにはならなかった。

 一度だけ、咲に聞いたことがある。


 どうして、そんなにうまく吹けるのか。


 咲は照れ笑いをしながら言った。

「私なんて全然上手くないよ。ただ、毎日ちょっとずつできないことができるようになっていくのが、たまらなく楽しいの。」

 その時に理解した。追いつくのがやっとで練習が苦しいばかりの私には、どう足掻いても咲に追いつくことはできないのだと。それでも、吹奏楽を続けることで、咲のそばに居られるのならそれでいいと諦めも付いた。

 一年が経つ頃には、咲のトランペットは、部内の誰よりもうまくなっていた。

 高校へ入学しても、咲と私は、吹奏楽を続けた。

 咲は、持ち前のトランペット技術で先輩たちを追い越して、部内で一番トランペットの上手い大型新人となった。しかし、それをよく思わない先輩たちもいた。特に優子先輩と、その取り巻き二人。

 優子先輩もトランペット奏者で、もともとは部内で一番上手いと言われていたらしい。それが咲の登場で、一番の座を奪われてしまった。それに納得がいかなかったのだろう。先輩たちは、咲を仲間外れにしたり、部の連絡事項をわざと伝えなかったりと嫌がらせをするようになっていった。部の中心のような人物だった優子先輩を諫める人は、一人もおらず。他の先輩や同級生たちも、ただ見て見ぬふりをすることしかできなかった。

 咲はそんな状況でも、一切気にも留めずに、練習に打ち込んだ。

 私はというと、そばでその光景を、ただ見ていることしかできなかった。幸いとは何なのかと考えさせられるが、幸いにも私は、トランペットがそこまで上手くはならず、優子先輩の眼中にも入らなかった。だから咲の近くにいても、金魚の糞程度にしか思われておらず、いじめのターゲットにされることもなかった。それと同時に、いじめを止めることもできなかった。

 問題が起きたのは、夏の大会メンバー発表の時だった。

 咲が一年生にして、トランペットのソロに選ばれたのだ。

 咲の実力は、部内でも突出していたし、隣でいつも聞いていた私から見れば、選ばれるのは必然だと思った。しかし、それをよく思わなかったのは、優子先輩たちだった。

 先輩たちは、咲が選ばれたことに納得が行かず、優子先輩が選ばれるべきだったと、咲を罵った。咲はただその誹りを俯き黙って聞いていた。そんなときでも、咲の指先は課題曲を反復し続けていた。

 咲の頭には、優子先輩なんて眼中にもなかった。ただトランペットが大好きで、どんな場所でもトランペットさせ吹けるなら、他なんてどうでもよい。そう思わせる雰囲気が、その時の彼女にはあった。

 それが、優子先輩の癇に障ったのだろう。優子先輩は、何か言葉にならないような叫び声をあげると、咲からトランペットをひったくり、床に叩きつけた。

 金属片をばら撒いたような音が、音楽室に響き渡る。壊れたトランペットが床にバラバラに散らばり原型を留めていない。

 教室の皆が、何事かとこちらに注目がする。静寂となった教室で、一人の女子生徒が悲鳴を上げた。

 咲の指から、大量の血が滴っていた。

 溢れ出す血を抑えることもなく、咲は、指先から滴り落ちる血を、ただ眺めていた。

 優子先輩も流石に、やりすぎたと思ったのだろう。狼狽えながら、一歩、また一歩と後ずさりする。

 咲は、ふらつきながら立ち上がり、優子先輩を睨み付け、音楽室を出ていった。

 床には、咲の手から滴った血が、ヘンゼルが道標のために撒いたパンのように連なっていた。

 私は、咲を追いかけることすらできなかった。

 咲は、それ以降、学校へ来なくなった。私が連絡をしても、一切返信はなかった。

 一週間後に、指に包帯を巻いた咲が、教室にやってきて、クラスの皆の前で言った。

「私、転校することになりました。」

 クラスの皆、突然の報告に唖然としていた。咲は唖然とするクラスメイトなど、お構いなしに話を続ける。

「親の都合で、急遽引っ越すことになりました。短い間でしたが、みんなさんお世話になりました。」

 私には、それが嘘だと分かっていた。たぶん、クラスの一部の人も、それが嘘で本当の原因は、指先に巻かれた包帯にあることは気づいていたと思う。それでも、咲があまりにもあっさりと転校の理由を伝えるので、雰囲気に押し切られて拍手まで起こり、本当の理由などどうでもよくなり、クラスメイトとの別れを惜しむ空気となってしまった。

 咲はクラスの皆が、別れを惜しむ姿に笑顔で対応していた。

 私には、咲の行動が何一つ理解できなかった。先輩に大事にしていたトランペットを壊されて、指も怪我をさせられた。あのケガでは、しばらくトランペットを演奏することはできないだろう。それなのに、今の咲は、何事もなかったかのようにクラスメイトと笑っている。そして、突然の転校。目まぐるしく起こる状況の変化に頭が付いてこない。ただ、咲ともう一緒には居られないことだけは、嫌でも分からさせられた。

 他のクラスメイトとの別れの挨拶を終えた咲が、私の元へ歩み寄る。

 咲は、私をどう思っているのだろう。きっと、優子先輩たちからの嫌がらせを見て見ぬふりをした私を、恨んでいるに違いない。

 咲から、どんな罵りを受けるのか、気が気でなかった私に咲は一言、笑顔で告げた。


「次は、あなたの番ね。」


 私が、この言葉の意味を理解したのは、放課後の部活の時だった。

 咲というエースを失った吹奏楽部は、改めてトランペットのソロを決めなくてはならなかった。吹奏楽部の皆は、次点でトランペットが上手い、優子先輩が選ばれるだろうと誰もが思っていた。しかし、顧問はありえない言葉を口にした。

「トランペットソロに選ばれていた咲さんが、急遽転校となり、新しいトランペットソロを決めなくてはいけなくなりました。そこで、新しいトランペットソロには、咲さんとも親しかった京子さんにやってもらうことにしました。」


 は?


 発表を聞いた誰もが、理解できないという顔をしていた。私自身も、まるで何一つ理解できていなかった。なぜ、優子先輩ではなく、そこまで上手くもない私なのか。

「話は以上です。それでは、練習を始めてください。」

 顧問は、話が終わるとそそくさと教室を後にしてしまった。

 皆の視線が、私の元に集まる。その視線は、トランペットソロに選ばれたことを祝福するものではなく、懐疑の視線だった。

 どこからか、ひそひそと話し声が聞こえてくる。何か悪口を言われているのではないかと不安でたまらなくなった。優子先輩は私を睨みつけていた。咲に嫌がらせをしていた時と同じ視線を、今は私に向けている。

 場の空気に耐えられなくなって教室を飛び出し、顧問を追いかけた。

「先生!待ってください!」

「京子さん、どかしましたか?」

「どうして、私がトランペットのソロなんですか?私より上手い人は、部内にたくさんいますよね?」

 先生は、今までに見たこともないほど冷たい表情をしていた。

「咲さんに、代わりのトランペットソロは、京子さんに頼みたいと言われたからです。」

 その時、理解した。

 教室で咲が言っていた「次はあなたの番」という言葉の意味を。

 それは、あなたも私と同じような苦しみを味わえと言っていたのだと。

「それに……。」

 咲の言葉の意味をようやく理解し、動揺を隠せず狼狽える私を気にも留めず、先生は話を続ける。

「それに、咲さんは何も言いませんでしたが、転校の原因は、あの手の怪我にあるのでしょう。大方の予想は付いています。トランペットソロの件で、優子さんと咲さんが揉めたのでしょう。その時に、咲さんが怪我をしてしまった。」

 咲は、先生に怪我をした理由を伝えていなかった。

「私は、人を蹴落とし、あまつさえ怪我をさせてまで、自分のことを優先する人間に、楽器を演奏する資格などないと思っています。それを見て見ぬふりをする人たちも同罪です。なので、あなたたちの大会など、私はどうなってもいいと思っています。だから、最後に咲さんの意を汲むことにしました。話は以上です。」

 先生は、人ではない何かを見るような目で、私を見ていた。

 先生の言う同罪とは何なのか。

 嫌がらせをしていたのは優子先輩で、私たちではない。

 私たちはただ見ていただけだ。いや、見ていることしかできなかった。

 直接的に、嫌がらせをしていた者、ただ見ていた者。その両者が同じ罪に問われるのは納得が行かなかった。

 そう、納得は行かなかった。でも、どうしてだろう。私には間違いなく罪の意識があって胸が張り裂けるように苦しい。


「ごめんなさい……。助けてあげられなくてごめんなさい。」


 涙が止めどなく溢れ出してくる。

 むせ返るような感覚に息が詰まり、呼吸ができない。

 床に蹲り、子供のように泣いた。溢れる涙も声も、何一つ抑えることはできず泣き続けた。

 そんな私を気にも留めず、先生は職員室へ戻っていった。


 その後の吹奏楽部は、最悪の日々だった。

 今まで咲の受けていた優子先輩からの嫌がらせは、すべて私が受けることになった。

 連絡事項を伝達してもらえず、グループ練習では仲間外れ。トランペットに謎の粘液をつけられていたこともあった。

 周りの人間は、誰も助けてくれない。次の標的になるのが怖いから。

 私も、咲にそうした。

 だから、私が誰からも助けてもらえないのは、当たり前のことなのだ。

 私のせいなのだから、仕方ないのだと自分を納得させた。

 もう、何のためにトランペットを吹いているのか分からなかった。もともとトランペットは得意ではないし、一緒に居たかった咲はもういない

 それでも、必死にトランペットソロを練習した。

 これが、咲の残した私への罰だというのなら、私は罰を受けるべきだと思ったから。

 これが、咲との唯一の繋がりだから。


 好きこそものの上手なれ。


 追い縋るばかりで、苦しいだけの私は、咲と同じようになれる訳がなかった。

 そんなこと、中学生の時に気付いていた。

 大会当日は散々だった。

 いくら、練習を重ねても上手くならなかったソロは、本番の緊張でより下手くそになり、音を外しまくり、たったの数十秒が永遠のように感じられた。

 演奏をめちゃくちゃにした私を、優子先輩は責め立てた。

 他のメンバーたちも同じことを思っていただろう。口には出さなくても、態度で分かる。

 何か言い返す気力も、私には残っていなかった。


 次の出場校の演奏が始まる。

 様々な楽器の音の中に、一つだけ聞き馴染みのある音が聞こえる。

 聞き間違えるはずがない。私が三年間、隣で聞き続けた大好きな音。

 トランペットのソロパートが始まる。

 吹いていたのは、指を包帯で巻いた咲だった。

 咲の演奏は、雄大で自信に満ち溢れていて、この会場の誰よりも上手かった。

 咲を見つけ、騒めいていたメンバーも圧倒的な演奏を前に、ただ黙って見ていることしかできなかった。

 私たちは咲の転校した、名前も知らない学校の吹奏楽部に負けた。

 咲は、新しい仲間たちと笑い合い、抱き合っている。

 咲は、私たちに気付き、不敵な笑みを浮かべてみせる。

 咲は、最高の復讐を果たしたのだ。

 そこから私の落ち続けるばかりの人生が始まった。


 *


 目の前で、昔と同じように優子先輩が何か言葉にならないような叫び声をあげ、咲のトランペットを奪い取ろうと腕が伸ばされる。

 このままでは、また同じことを繰り返してしまう。

 鼓動が大きく脈打つのが分かる。焦りと恐怖で吐き気が収まらない。

 それでも、今、何かしなくてはいけない。

「次は失敗しないでね。」


 スマートウォッチの言葉が頭に浮かぶ。

 失敗とは何だろう。

 人生のすべてが、先へ進むための礎であったなら、失敗なんて一つもなかったはずだ。

 それは自分の人生に必要な時間だったに過ぎない。そう思うことで、人は自分の恥とか後悔とかを乗り越えていく。少なくとも私はそう考えていた。そうしなければ、生きていくことができなかったから。

 けれどもし、過去の失敗を訂正できるのならば、私は、今日この日を失敗と呼ぶだろう。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああーーーーー!!!!」


 私は叫んだ。

 涙が溢れてきても、叫び続けた。

 喉が千切れるくらいに叫び続けた

 そして、手に握ったトランペットを、優子先輩めがけて投げつけた。

 トランペットは、宙を舞い、優子先輩の顔を鈍い音を立てながら歪ませ、床に落ちてバラバラに砕けた。

 私にトランペットは必要なかった。

 私が、本当に欲しかったのは……。

「お前なんかより。咲の方がずっと上手いに決まってるだろ!お前なんかよりずっとトランペットを愛してるんだ!お前なんかより何倍も練習してるんだ!お前……お前なんかより……。」

 自分でも何言っているのか分からなかった。

 涙は止まらないし。鼻水まで出てくるし。泣きすぎて嗚咽も止まらない。

 もう、何もかもがぐちゃぐちゃで、それでもこれだけは、これだけはどうしても伝えなくてはいけないと思った。

「咲は……咲は、私の唯一の親友なんだ。咲を傷つけるのは私が許さない。」

 優子先輩は、蹲り顔を抑えている。あまりの痛みに声すら出せないのだろう。過呼吸のような上擦った呼吸だけが聞こえる。

 優子先輩の取り巻きの一人が、悲鳴を上げる。

 床に蹲る優子先輩は、鼻と口から血を流していた。

 血はどんどんと滴り落ちて、どんどんと広がっていく。

「どうしたのですか?」

 騒ぎを聞きつけて、先生が教室へ駆けつける。

 蹲り、血を流す優子先輩を見ると、すぐさま駆け寄り、手持ちのハンカチで出血箇所を抑える。白かったハンカチが鮮血に染まっていき、それでも抑えきれなかった血が、先生の真っ白なワイシャツの袖を赤く染めてゆく。

「一体、何があったんですか!」

「京子が優子に、トランペットを投げつけたんです!」

 優子先輩の取り巻きの一人が、私を指さした。

 皆の視線が、私に向けられる。

「京子さん!なぜ、こんなことをしたのですか!」

「わ……私は……。」

 動揺で上手く喋ることができない。

 優子先輩は、グッグッと壊れたまねっこ人形のような声を出している。

「言い訳はどうでもいいです。どんな理由があろうと、楽器を投げつけてよい理由にはなりません。」

 ––––––お前にそれを言う資格はあるのか?

 過去では、裕子先輩からの、咲への嫌がらせに気付きもしなかった。私の時は、見て見ぬふりをして大会を台無しにするための生贄にした。それなのにどうして、加害者が傷ついた時だけ、正義感を振りかざして助けに入る?虐げられた者がナイフを取って一矢報いることは、一方的な加害より悪いことなのか。私には何一つ理解することができない。

「楽器を大事にしない人間に、演奏をする資格はありません!」

 聞きたくない。

 思わず、耳を塞ぐ。

「まして、人を傷つけるための凶器にするなんて。」

 聞きたくない。そんな綺麗ごと。

 目を固く閉じる。

「あなたは、まともな人間じゃない。」

 聞きたくない。

 誰か、私を助けて……。


 耳を塞いだ手に、暖かな温もりを感じる。

 震える私の手をそっと誰かが握ってくれている。

「咲……。」

 俯いた顔を上げ、ゆっくりと目を開くと、咲が私の両手を優しく握っている。

「ここから逃げちゃおっか。」

「それって……。」

 言い終わりのを待たずに、咲が私の腕を引き走り出す。

 真っ暗な校舎を、ものすごい速さで駆け抜けて、音楽室の明かりがどんどんと小さくなっていく。何度も転びそうになるが、そのたびに咲が手を引いてくれる。階段を今までに、飛んだことのない高さから飛び降りる。足がジンジンと痺れるがそんなことは気にならない。靴も履き替えずに、校内用スリッパのまま学校を飛び出す。

 真っ暗な校舎の中とは打って変わり、月明かりが青白く世界を照らしていた。空には今までに見たこともないほど満点の星空が広がっていた。

 咲は、花畑を駆ける少女のように笑っていた。それがなんだかとても嬉しかった。


 *


 私たちは走った。

 校舎を抜け、等間隔に設置された街灯だけが照らす夜道を全速力で走り抜けた。

 車も人も誰一人通らず、まるで世界が私たち二人だけになったようなそんな気さえした。

 学校近くの少し大きな公園に着くと、球体が半分埋まったような遊具の上に昇り、二人並んで座った。

 乱れた呼吸を二人、ゆっくりと整えていく。

 その時、咲の携帯に通知が鳴る。咲は、届いたメッセージを確認すると、少し寂しそうな表情に変わったが、またすぐにいつもの優しい表情に戻る。

「月が綺麗だね。」

「うん……。」

 咲は、空を眺めながらそうつぶやいた。

 空には、ひときわ大きく輝く月と、それを砕いてばら撒いたような小さな星たちが燦々と輝いていた。

 今日がこんなにも、夜空が綺麗な日だと過去では知らなかった。たぶん、私が下を向いて帰ったからだ。

 遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえる。小さかったサイレンの音は徐々に大きくなり、私たちが走ってきた学校の方へと進んでいく。

 もし、私を捕まえに来たものだったらどうしよう。怖くなり、震える手で耳を塞ぎ、目を閉じる。

 早くどこかに行ってくれ。

 早くどこかに行ってくれ。

 心の中で、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。

「大丈夫。」

 また私の震える手を、そっと両手で包みこみ、不安で押し潰されそうな私に、頬が触れ合うくらいに顔を近づけて優しい声で囁いてくれる。

 咲の体温が、手の平から、頬から、伝わってくる。その体温が少しずつ私に力を与えてくれるような、そんな気がする。

 気が付いたらサイレンの音は止んでいた。また、世界が二人だけになったような静寂が訪れる。

「私のために怒ってくれてありがとう京子。」

「そんなこと……そんなことない……。」

「そんなことじゃないよ!優子先輩の顔見た?鼻とか口から血を流して、もう傑作って感じ!ざまあ見ろって思っちゃった。それに、京子が私のためにあそこまで怒ってくれて本当に嬉しかった。」

「本当に違うの……。私、咲に謝らなくちゃいけないの。」

「どうして、京子が私に謝るの?」

「私ね。信じてもらえないかもしれないけど、未来から来たの。」

 咲は、一瞬きょとんとした顔をしたが、私の顔を見て本当のことを言っているのだと確信すると、すぐに真剣な表情を浮かべる。私の突拍子のない話を咲は、信じてくれたのだ。

「本当は、今日、咲は優子先輩にトランペットを壊されて、指を怪我してトランペットが吹けなくなったの。その後、一切連絡が取れなくなって、一週間後に転校するって学校に挨拶に来るの。」

 咲は私の話に、何度も頷き真剣に聞いてくれる。

「その時、私、咲に『次は、あなたの番ね』って言われるの。最初は何のことか分からなかった。けれど、その後に顧問から、トランペットのソロをやるように言われるの。咲に推薦されたからって。顧問はもう吹奏楽部のことなんてどうでも良くて、見ていることしかできなかった私を『同罪だ。』って言ったの。私、その時思ったの。これは、咲が私に与えた罰なんだって。だから咲。本当にごめんなさい。」

 咲の方を見ると、難しい顔をしながら何度も、頷いては首を傾げて自問自答している。

 そして、何か一つ結論を出して私を見つめ返す。

「私だったら、やりかねないね。」

 咲は、私の話した過去の咲を肯定した。私は、咲に罵られても仕方ないと思った。何も言わずに別れてしまった過去より、今の方がずっと、マシだと思えたから。

「でもね。一つだけ間違いがあるよ。」

「一つだけ……。間違い?」

「そう!これは想像でしかないけど、京子をトランペットのソロに選んだのは、私の代わりは京子しかいないと思ったからだと思う。」

 咲は、立ち上がり空を眺め、続ける。

「私ね。実は転校することはもう決まっていたの。」

「そうなの?」

「そう。だから大会にはどちらにしても出られなかった。でも、私がトランペットソロを辞退したら、あの嫌な優子先輩がソロをすることになったでしょ?だから、私が大会のギリギリまでソロの権利を持って、大会の前日にソロの権利を渡してあげようと思ってたの。そうしたら、嫌な優子先輩に大会で恥かかせてやれるんじゃないかなって。でも、今さっきママから連絡が来たの。パパの仕事の都合で引っ越しが早まるかもしれないって。」

 公園に着いたとき、スマホを見て寂しそうな顔をしていた咲を思い出す。あの連絡は、引っ越しが早まるという連絡だったのか。過去の咲も、引っ越しをすることはもう決まっていたのだろうか。もう確かめる術はどこにもない。

「引っ越しすることは、誰にも話してなかったし、ママからの連絡のことも併せていろいろと合点がいったよ。京子は本当に未来から来たんだね。それと過去の私は、お別れするのが寂しくて、ちゃんとさようならを言えなかったんだね。」

 咲は少し寂しそうな顔をする。私にとっての過去で、咲にとっては別次元の彼女が、私と悲しい最期を迎えてしまったことを悲しそうに思いを馳せている。過去の咲が、本当に私を恨んでいなかったのかどうか、もう分からない。しかし、今私の横にいる咲が私との別れを惜しんでくれている。それだけで救われた気がした。

「京子……。私に会いに来てくれてありがとう。ちゃんと、さよならを言わせてくれてありがとう。京子は私の一番の親友だよ。」

 咲の温かな手が私を包み込み抱きしめてくれる。咲の肩に顔を埋めながら、涙が溢れて止まらない。

「咲……。咲のこと助けてあげられなくてごめんね。私もちゃんと咲と話ができてよかった。また、悲しいさよならにならなくて本当に良かった。本当に……本当に良かった。咲も私の一番の親友だよ。」

 咲に思いを伝えた瞬間、謎の浮遊感に襲われる。けれど体が浮いているわけではない。意識が、感覚だけが浮遊し、私の体から抜け出していくようなそんな感覚。

 空の上から三人称視点で見るように、公園で抱き合う私と咲の姿が見える。待って!と叫び何度も手を伸ばすが、何一つ掴むことができない。体から抜け出した私は、ぐんぐんと空を上り二人が小さく見えなくなっていく。

 突然、私が過去にやってきた時と同じような白い光が視界を覆う。どれだけ藻掻いても、どうすることも出来ず、白い光に飲み込まれていく。

 薄れゆく意識の中で、これがさよならなのだと悟った。


 *


「咲!」

 懐かしい名前を叫びながら、手を伸ばすが何も掴むことはできず虚しく空を切る。

 意識が戻ると、私はコインランドリーの入口前で座り込んでいた。あれは夢だったのか。それとも現実だったのか分からない。それでも、心の中にある悲しくも嬉しいような懐かしいような、この気持ちだけは本物のような気がした。

 洗濯籠の中から、スマートウォッチを取り出す。時間の合っていなかったスマートウォッチは、正しく今の時間を指していた。そういえば、スマートウォッチに映っていた時間が私の飛んだ過去と同じ時間だったような気がしたが、もうよく覚えていない。

 スマートウォッチを持ってコインランドリーの中に戻る。

 テーブルの上にスマートウォッチを置き、近くのチラシに、大きな文字で書き殴る。


 落とし物です!


 コインランドリーを出るとなんだか、清々しい気分になった。こんな気分は一体何年ぶりだろう。大きく背伸びをして深呼吸をする。

 ポケットからスマホを取り出し、連絡先一覧をスワイプし、一番下の番号に電話を掛ける。

 呼び出し音が何度か繰り返され、ようやく繋がる。

「お留守番サービスに接続します。合図がありましたらメッセージをどうぞ。」

 繋がらないことは分っていた。でも、それでいいと思えた。

「もしもし。私、京子だけど。あのさ……。」


 終


 作品を最後まで読んでいただきありがとうございます。

 人は生きていれば誰しもが、後悔や忘れたい過去をいくつか抱えることになると思います。でも、それは決して悪いことではなく。今の自分に必要な必要な時間だったのだと、私は思います。私がこの物語を書くきっかけになったように。

 もし、私の物語が誰かを楽しませることができたのなら、私の過去も報われるような気します。

 これからもどうか、私の作品にお付き合いください。

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