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雪霊 ver.2  作者: 謎村ノン


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2/3

(2)

 それからしばらく、私は、大学での研究生活に戻った。

 戻った、というより、戻らざるを得なかった。取材の熱が冷めると、実験室の白い蛍光灯と、電子音のする計測器と、埃っぽい空気が、容赦なく現実へ引き戻してきた。

 雪の旅館の映像は、編集用のフォルダに残っていたが、再生ボタンを押す指がどうしても鈍った。怖いのは「幽霊」ではなく、あの白い輪郭を見た自分の心が、少しだけ喜んでいたことだ。怖さと面白さが同じ場所で絡まっていたことを思い出すと、胃の奥が重くなるような気がした。

 そんなある昼下がり、研究棟の廊下で、依田先生に呼び止められた。

「洋次くん。ちょっと来なさい」

 声はいつも通り落ち着いているのに、目だけが妙に冴えていた。何かの確信を得たといった感じだった。

「何ですか、先生?」

「装置ができた。見せたい。……いや、君にも見てもらう必要がある」

 必要がある、という言い方が引っかかった。研究者は、自分の成果を見せたいとき「見に来い」とは言うが、「必要」とはあまり言わない。

 私は、軽く頷き、先生の後ろを歩いた。廊下の奥へ進むほど人の気配は薄くなり、足音がやけに響いた。窓枠の結露が、冬でもないのに残っていた。光を受けた水滴が、ちらりとこちらを覗く目みたいに見えた。

 研究室の扉を開けると、また、機械油と紙の匂いが混ざった空気が鼻を撫でた。部屋は相変わらず散らかっていた。机の上に積まれた論文、古い学会資料、使い込まれた工具――それらの隙間に、見慣れない装置が置かれていた。

 透明な箱の内部に霜のような模様が走っている。細い光学台の上に固定されたミラーとレンズ、レーザーの発振器があった。ケーブルが蜘蛛の巣みたいに伸び、スピーカーへつながっていた。安っぽい部品と、妙に高価そうな部品が混在していた。寄せ集めのようで、確かな意図がある配置だった。

「これは、先生の実験装置……ですか?」

「そうだ。私の“耳”だ」

 先生は、嬉しそうに笑った。いつもの柔和な顔が、ひどく子どもっぽく見える。

 私は、その笑顔に、少しだけ背中が冷える心地がした。なんとなく、マッドな雰囲気を感じた。

「君の友人も呼んでくれたまえ。キクリン君だ! 彼女のチャンネルの視聴者に見せたい。いや……彼女がここにいれば、もっと揃う」

 揃う、という言葉を先生が使うと、いつも胸のどこかがきしむ。

 私は、一瞬迷ったが、結局、LI○Eで連絡を入れた。キクリンは即レスした。

『行く! 撮るよ! 今すぐ!』

 返信が来た瞬間、喉が乾いた。撮る、という単語に、あの旅館の白い影が重なった。私は、画面を伏せ、先生の説明を待った。

 キクリンが来るまでの間、先生は装置の前で、まるで秘蔵の玩具を見せる前の子どもみたいに、落ち着かない様子で指先を動かした。透明な箱の中、冷やされる氷片を確認し、レーザーの焦点を合わせ、偏光板の角度を微調整していた。微細な作業のはずなのに、指の動きが妙に滑らかだった。長年、それだけをやってきた人の手だ。

「水は、記憶媒体として、実に使い勝手が良い」

 先生は、ふいに言った。独り言のようでいて、私に向けた声だった。

「分子は回転し、配向し、熱揺らぎで状態を変える。しかし、完全なランダムではない。周囲の電磁場、圧力、溶質、触れたもの……そうした要因が、わずかな偏りを作る。偏りは、積み重なる。積み重なったものは、ある条件で“読める形”になる」

「……それが雪の結晶ですか?」

「そうだ。六角形はね、形が美しいだけではない。アンテナのように振る舞うのだ。状態を揃えやすい。揃えば、波形が取れる」

 先生は、透明箱の蓋を少しだけ開け、内部の霜の模様を指した。氷の表面に、薄い六角の連なりが見える。雪の結晶のミニチュアみたいに繊細だ。私は息を止めた。視線が吸い込まれる。あの形は、見慣れているはずなのに、ここでは異物に見える。

「特殊なレーザートラップで、生成を制御した。最近は、ノイズレス面発光レーザーが進歩しているから、簡単な装置でできる。生成過程を制御できれば、任意の時点の状態を“固定”できる。固定できれば、読み出せる」

 先生は、レーザーを弱く発振させ、偏光板と複雑な構造の光学素子を通した。薄い光が氷を舐める。白い反射が、室内の壁にちらつく。

「氷の結晶にレーザーを当て、偏光を測る。偏光の揺らぎは、分子配向の履歴を含む。そこから音声信号を抽出する。……つまり、過去の音を、再生できる」

 私は、冗談だと思いたかった。しかし、先生の声は冗談の調子ではなかった。理屈を組み立てるときの、この人特有の静かな熱があった。

 ……怖いのは、理屈が完全に破綻していないことだった。メジャーな学説とは、相容れない。でも、完全な妄想とも言い切れない――そういう場所にある話ほど、人を引き込む、と思った。

 そこへ、扉が勢いよく開いた。

「やっほー! 先生ぇ! 洋次くん! 撮らせてぇ!」

 キクリンが機材バッグを肩にかけ、金髪を揺らして入ってきた。

 部屋の暗さが一瞬で軽くなった。彼女は空気を変える……良くも悪くも。私は、その影響力を知っているから、余計に神経が尖ったように思った。

「これが例の装置? なにこれ、理科室のラスボスじゃん!」

 彼女は、笑いながらカメラを構え、先生を映し始めた。

 先生は、満足そうに頷き、説明を繰り返した。視聴者に向ける口調になる。少しだけ大げさになる……それが少し怖かった。

「では、まず“安全な再生”を見せよう!」

 先生は、スピーカーのボリュームを上げ、波形解析用のソフトを起動した。モニターに、偏光の変動が波として表示された。

 私は、ごくりと唾を飲んだ。唾の湿り気が、妙に意識に上がった。水。体内の水。外の水……全部が繋がっている気がしてくる。

 先生がスイッチを入れると、最初はノイズが鳴った。ざらざらと乾いた音。古いテレビの砂嵐みたいな音だった。

 キクリンは「なにこれ、滝の音?」と笑っていた。

 私は、笑えなかった。ノイズは、意味がないから安心できる。意味が出てきた瞬間に、逃げ道が消えるのだ。

 やがて、そのノイズの底から、人の声が浮かび上がった。

『……もう無理だって言っただろ……』

 私の声だった。

 次に、女の声。泣き声。怒鳴り声。硝子が机に当たる音。椅子が軋む音。

 空気が刺すように冷たく感じた。

 記憶が一気に蘇った。大学の片隅のこの研究室で、私は、昔の彼女と大喧嘩をしたことがあった――研究に逃げ、映画を諦め、忙しさを言い訳にした私に、彼女は愛想を尽かした。私は、それを正当化しようとして、言葉を投げつけた。修羅場。まさにそれだ。

 顔が熱くなるのを止められなかった。耳まで赤くなっているのが分かる。

 私は、思わず、咳払いをして誤魔化した。

「先生……それ、やめてください」

 キクリンは腹を抱えて笑った。

「え、なにそれ! 洋次くん、めっちゃリア充の修羅場じゃん! 保存しよ! 切り抜き作ろ!」

「作るな!」

 私が、低い声で言うと、彼女は「ごめんごめん」と笑いながらも、目がキラキラしていた。面白がっていた。そこに悪意は少ない……だからこそ、止めにくい。

 先生は、満足そうに頷いた。

「見ただろう! 水は記憶する。少なくとも、こうして“再生”は可能だ」

 私は、言い返せなかった。再生された音が、あまりにも生々しかったからだ。単なる偶然の拾い音ではない。状況の空気まで甦ってくる。ほとんど思いだしてなかった、あのときの怒りと悲しみの感情まで。

 先生は、今度は偏光板の角度を少し変えた。つまみを回す手が、さっきより慎重になる。声も、少しだけ小さくなった。

「ここからが本題だ。変調の仕方を変えると、この世ならぬものの音が……本当に聞こえる」

 キクリンが、息を呑んだ。彼女のカメラがわずかに揺れる。私の背中にも、汗が浮いた。

 研究室は暖房が効いているはずなのに、指先が冷えた。

「どうも、この部屋にいる人間の水分子に関連する故人を呼び出せるようだ」

 先生は、そう言って、私とキクリンの顔を交互に見た。まるで、同意を求めるように。

 私は、首を振りたかった。けれど、口が動かない。

 しかし、キクリンの目は、期待で満ちていた。

「ねえ先生。じゃあさ……」

 彼女は、少しだけ声を落とした。ふざけた口調ではない。素の声だ。

「是非、『ママ』を呼び出してほしい! わたしの師匠!」


 『ママ』――それは、キクリンが師事していた占い師だ。取材のときに、車の中で語っていたが、最近、病気で亡くなった人物で――彼女にとっては、毒親だった母親の代わりのような存在だったそうだ。

 その占い師は、子どもが学校の野外教室で行方不明になってから占いに凝りだし、やがてカリスマになったという話だった――失ったものを埋めるように、人の未来を当て、人の不安を吸い取り、そして自分も救われようとしたのだろう。

 キクリンは、その『ママ』の背中に憧れたのだ――。


 先生は一瞬、迷う顔をした。けれど、その迷いは短かった。好奇心が勝つ。研究者の目が、また冴える。

「……よかろう。君が責任を持つなら」

「持つ! 持つ持つ! ぜんぶ持つ!」

 キクリンは、泣き笑いのまま、カメラを回した。

 私は思わず、装置と彼女の間に立ちたくなった。立っても意味がないのに。何かを守りたかった。

 先生は、調整を始めた。氷の結晶が、レーザーを受けて淡く光った。

 偏光の波形がモニター上で揺れる。ノイズが、さっきより湿っぽい音になった。耳の奥に水が入ったみたいな、鈍い響きだった。

 私は、無意識に唇を舐めた。舌が乾いているのに、空気が湿ってくるように思った。

 そして、スピーカーから、声が聞こえた。

『あら、繋がったのねぇ』

 ハスキーな女の声だった。冗談みたいに自然な調子だ。……死者の声のはずなのに、壁の向こうから話しかけてくるみたいに近かった。

 キクリンが「うわ……」と声を漏らし、目を潤ませた。

「ママ……! 会いたかった……!」

『泣くんじゃないよ。泣くと、その涙で、床が濡れて、滑っちまう』

 冗談めいているのに、その言葉がひどく怖かった。濡れる。滑る。まるで、こちらと向こうの境目が、水の膜でできているみたいだ。

 キクリンは、涙を手の甲でぐいっと拭い、鼻をすすりながらも笑った。笑うことで崩れそうな感情を押し戻しているように見えた。

 ライトの熱と湯気の残り香が混じる研究室で、彼女の声だけが妙に明るく響く。しかし、その明るさの奥に、幼い怯えが薄く貼りついている。

「ママ……ほんとにママ? ねえ、いつもの言い方で言ってよ。ほら、私が遅刻したときのやつ」

 スピーカーの向こうで、低い笑い声が小さく転がった。喉の奥で鳴るような、ハスキーな響きだった。

『もう、あんた。相変わらず手がかかるねぇ。……でも、そこが可愛いんだよ』

 その瞬間、キクリンの肩が、びくっと跳ねた。

「うわ……それ! それそれ! やだ、泣くって……でも、ほんとだ……」

 泣き顔のまま、口元だけが緩んだ。聞き慣れた言葉を、耳が先に抱きしめたのだろう。

『泣くんじゃないよ。泣いたら、顔が崩れる。女はさ、顔で戦うんだから』

「ママ、いまでもそういうこと言うんだ……」

 キクリンが笑って、また涙をこぼした。涙が頬を伝い、顎の先で光る。滴が落ちる前に、彼女は、慌てて袖でぬぐった。

「ねえ、すごい……声、ちゃんと……そのまま。あのさ、私さ、いまでもママの香水、たまに思い出すんだよ。なんか、ここ……あの匂いがする、気がする」

 彼女は、鼻先をひくひくさせ、研究室の空気を確かめるように吸った。

 私は、思わず自分でも鼻から息を吸い込んだ。しかし、機械油と埃の匂いしかしなかった。なのに、キクリンの目は、確信で潤んでいた。

『匂いはね、記憶と結びついてるから。あんたのほうが“思い出して”るんだよ』

「そっか……私が……」

『そう。会いたいって思ったぶんだけ、“あっち”が近くなるのさ』

 その言い方が、優しいのに、妙に怖かった。「近くなる」というのが、距離の話ではなく、境目の薄さの話に聞こえたからだ。

 依田先生は、横で黙ってつまみを見つめ、波形の揺らぎを注視していた。

 私もモニターのラインを目で追った。ノイズが、会話のリズムに合わせるみたいにうねった。

 キクリンは、嬉しさを誤魔化すように、わざと、ふざけた調子に戻そうとした。

「ねえねえ、ママ、見てる? 私さ、いま、けっこう売れてんだよ。テレビにも出てるし、アンチも多いけど、まあ有名税ってやつ? 昔、ママが“名前は呪いだよ”って言ってたけど、今ならちょっと分かる」

『分かるようになったなら、偉いじゃない』

「でしょ? ……でも、ママに見せたかったんだよ。ほら、私さ、ママに“継ぐ”って言ったじゃん。ちゃんと、やれてるよ。ね、褒めて!」

 キクリンが子どもみたいに言うと、向こうの声が少しだけ息を含んだ。笑う寸前の吐息だった。懐かしさと、軽い呆れが混じる。

『褒めてほしいなら、まず髪をちゃんと乾かしな。濡れた髪で寝ると、運が逃げる』

「うわ、懐かしい……。ママ、それ、毎回言っていた……」

『私は、あんたが風邪ひくのが嫌だったんだよ』

 キクリンは一瞬、言葉を失って、唇を噛んだ。そして、ぽつりと聞いた。

「……ねえ。あっち、寒い?」

『寒いかどうかはね、もう違うんだよ』

「違う?」

『寒さを感じる器がない。でも……冷たいものは、分かる』

 その答えは、理屈として意味が分からないのに、妙に身体へ入ってきた。冷たいものが分かる、という言い方が、「触れられる」という意味にも聞こえたからだ。

 キクリンは、会話の流れを変えるように、急に明るく笑った。

「ママさ、いまも占いできる? こっちでさ、番組とか出たら絶対バズるんだけど。ママの“説教占い”さ、好きだったよ」

『あんた、商売っ気が過ぎるねぇ』

「だってさ! もったいないじゃん。ママ、声が出るなら、もう一回――」

『……やめときな』

 声のトーンが、少しだけ低くなった。叱るというより、静かに釘を刺す感じ。キクリンも一瞬で黙る。

『こっちは、“声が出る”んじゃない。“声に乗れる”だけだよ。長くやると、そっちが濡れる』

 濡れる、という言葉が出た瞬間、キクリンが、反射的に自分の頬を触った。涙で濡れている。

 私は、息を止めた。依田先生の指が、つまみの上で固まる。

 キクリンは、怖さを笑いに変える癖が出て、わざと軽く言った。

「えー、濡れたっていいじゃん。私、涙もろいし」

『涙の濡れ方と、境目の濡れ方は違う。……それは、滑る濡れ方だよ』

 スピーカーの向こうの声が、少し笑った。笑っているのに、怖かった。優しいのに、怖い――私は、その矛盾に、胃の奥がひゅっと縮んだ。

 キクリンは、少しだけ間を置き、今度は、本気の声で言った。

「……ねえ、ママ。私、聞きたいことがある」

『なに』

「……あの子」

 その単語が出た瞬間、研究室の空気が一段重くなった気がした。依田先生がほんの少し目を伏せ、私の背中に汗が浮く。

「ママの……子。野外教室でいなくなった子。……ママ、ずっと探してたじゃん」

 キクリンの声は震えていた。視聴者に向けて喋るときの強さがない――素の、弱い声だ。

 スピーカーの向こうで、長い沈黙が落ちた。ノイズが、沈黙の形を埋めるようにざらつく。

『……分かったよ』

 ようやく返ってきた声は、少し掠れていた。ハスキーさとは別の掠れだ。喉が濡れた人の声だった。

『あっちに行ってから、分かった。……全部』

 キクリンが、息を呑んだ。私も、喉が詰まるような感じがした。依田先生の眉が、わずかに寄る。

「……犯人、分かったの?」

『分かったよ』

 声が静かだった。静かすぎて怖い。怒鳴らない怒りが、いちばん重い。

『あんたは知らなくていい。でも……私は、終わらせる』

 キクリンは、唇を震わせて、でも必死に明るく返そうとした。

「終わらせるって……やだよ、ママ。そんなの……」

『終わらせるのは、呪いだよ。呪いを終わらせないと、次に渡る』

 次に渡る。その言葉が――こちら側の誰かへ向けられている気がして、私の背中がまた冷えた。

 キクリンは、それでも、ママの声を引き留めるように、矢継ぎ早に言葉を重ねた。

「でも、ママ、いまこうして喋れてるじゃん。会えてるじゃん。だったらさ、もう一回、普通に――」

『普通は戻らない』

 ぴしゃり、と言い切る声。キクリンが黙り込む。

 その沈黙の間に、私は、違和感を覚えた。

 キクリンの仕草が、さっきから少しずつ変わっている。涙を拭う指先の角度。髪を耳にかける動き。笑うときの目の細め方。いつものキクリンの乱暴な可愛さではなく、もっと落ち着いた、母親のような身振りが混ざってきている。

 そして――彼女の口元が、スピーカーの声と同じタイミングで動く瞬間が増えた。

『……いい子だねぇ』

 言葉が重なった。スピーカーと、キクリンの喉から、ほぼ同じ音が漏れた。キクリン自身は気づいていないみたいに笑っている。

 私は、背筋が凍った。依田先生が、指先でつまみを押さえ、声を潜めて言った。

「……揃い始めている」

 私は、目を逸らしたかった。けれど、逸らせない。目を逸らすと、もっと別の場所で「それ」が始まる気がした。

 キクリンは涙を拭きながら、もう一度だけ、甘えた声で言った。

「ママ、ねえ、好き。会えて嬉しい」

 スピーカーの向こうが、ふっと柔らかく笑った。

『私もだよ。……でも、長くは無理だ。濡れると滑る』

 その言葉が終わる前に、モニターの波形が、ほんの少しだけ鋭く跳ねた。私は胸の奥で、氷が薄く鳴る音を聞いた気がした。

 会話が続くうちに、私ははっきりとした違和感へ名前を付けた。

 これは「会話」ではない。通話でもない。――侵入だ。重なりだ。水の記憶が、形を揃えながら、こちら側へ足場を作っている。

 キクリンが笑っている。スピーカーも笑っている。二つの笑いが、同じ輪郭になりつつある。

 その瞬間、私はもう、背中が冷えたまま、動けなくなっていた。

 先生の顔色が変わった。あの人が怯えるところを、私は初めて見た気がする。

「まずい……状態が揃っている。雪の記録が感染しているのだ」

「感染……?」

 私が呟くと、先生は低い声で答えた。

「分子配向が、彼女の体内の水へ揃えられている。コヒーレントに近い。……つまり、向こうの状態が、こちらに広がっている」

 キクリンは、笑っている。けれど、その笑いが、キクリンのものではない。中年の黒髪美人が、彼女の内側からこちらを覗いているように見える。

『やっと、見つけたのよ』

 声が出た。スピーカーからではない。キクリンの口からだ。ハスキーな声が、直接、部屋に落ちる。空気が震える。私は背中の汗が冷えるのを感じた。

 先生が停止スイッチに手を伸ばし、押した。

 止まらない。

 もう一度押す。

 反応がない。

 先生の指が僅かに震えた。私は思わず、配電盤の位置を頭の中で探した。ブレーカーだ。最悪、落とせば止まる。理屈は単純だ。けれど、今の部屋の空気は、理屈の外側へ滲んでいる。

 床のあたりが白く霞んだ。

 霧だ。

 研究室に霧など出るはずがないのに、低いところから白いものが湧き上がった。水が蒸れたみたいな湿り気だ。

 呼吸すると、喉が濡れる。

「あ……」

 その霧の向こうに、中年の冴えない男が立っていた。

 灰色の顔で、目が泳いでいる。体が縮こまって、逃げようとしているのに足が動かないように見える。

 実在なのか、像なのか分からなかった。

 しかし、その恐怖の表情だけは、確かだった。

『あんた……』

 キクリンの目が細くなる。彼女の顔が、黒髪美人の輪郭に一瞬だけ寄った。中年の儚さ。喪失と怒りで磨かれた目だ。

『あっちに行ってから、全部、分かったのよ。あの子がどこで止まったか。誰が止めたか。……あんたが止めた』

 男が悲鳴を上げた。耳を裂くような声がした。

 私は、反射的に後ずさった。机にぶつかり、試料が転がる音がする。その音が、霧の中へ吸い込まれて消えた。

 霧の中から、黒髪の女が立ち上がった。キクリンではない。けれど、キクリンの上に重なっている。二重写しだ。

 どちらが本体か分からない。分かった瞬間に、こちらの正気が折れそうだった。

 女が、男へ飛びかかった。

 爪を立てるような動きだった。風が巻き、霧が揺れる。男が叫び続けた。

 私は、頭が真っ白になった。これは映像か? 音声か? 再生か? それとも、いま目の前で起きていることなのか?

 先生が、叫んだ。

「洋次くん! ブレーカーだ!」

 私は、弾かれたように走った。廊下へ飛び出し、配電盤の扉を開けた。

 指が滑る。濡れている。いつ濡れたのか分からない。汗か、霧か、涙か。私はその湿り気が怖かった。濡れると、滑る。あの声が頭の中で反響する。

 レバーを落とした。

 ぷつん、と世界が途切れた。

 研究室の明かりが落ちた。

 窓から覗き込むと、レーザーの唸りが消え、スピーカーの音が途絶えていた。

 霧が、嘘みたいに薄くなった。

 私は、息を止め、扉を押し開けて研究室へ戻った。

 そこには、いつもの散らかった部屋があった。霧はほとんど消え、男の姿も消えていた。

 キクリンは床に座り込み、きょとんとしていた。目をぱちぱちさせ、口を開けて、閉じる。今、何が起きたのか分からない顔だ。

「……え? なに? 停電?」

 彼女は、そう言った。声は、いつもの声だった。高く、軽く――さっきのハスキーさが嘘みたいだった。

 先生は、椅子に手をつき、肩で息をしていた。額に汗が滲んでいる。冷や汗だ。

 私は、その汗が、霧より怖いと思った。科学者が「現象」を恐れている。つまり、理屈の外側を見たのだ。

「録画は……」

 私は、震える指でカメラの再生を確認した。

「うーむ……なんだこりゃ?」

 映像は、荒れていた。ノイズが多い。霧のような白い霞は映っているが、女の姿ははっきりしない。男の輪郭も曖昧だ。まるで、カメラが「見てはいけないもの」を避けたみたいに、重要な部分ほど潰れていた。

 けれど、白いものが確かに映っていた。人の形に似た揺れだ。

 雪の結晶のような粒のちらつきがあり、音声には、悲鳴が入っている。

 これは、演技ではなかった。演技にしては生々しすぎる。

 キクリンは、映像を見て、顔を青くした。

「……私、こんなの、やった?」

「覚えていないのか?」

「うん……なんか、途中から、頭がふわってして……」

 彼女は、自分の手を見つめ、指先を擦った。濡れている気がしたのだろう。彼女は怯えた子みたいな顔をした。


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