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雪霊 ver.2  作者: 謎村ノン


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1/3

(1)

 私こと洋次は、地方都市にある国立大の物理系大学院で、いちおう『量子、統計寄り』の研究をしている。

 いちおう、という言い方になるのは、研究テーマがいまいち定まっていないからだ。周りの同期は論文を読み、学会に顔を出し、指導教員の機嫌を窺いながら、卒業後の進路を計算している。私は、というと、実験装置の調整だとか、後輩の面倒だとか、そういう「研究以外のこと」で一日が過ぎ去る日が多かった。

 院生という立場は、学生と社会人の中間にある、とよく言われる。どちらにもなりきれない曖昧さが、日々の選択を鈍くする。心の奥で何かが燻っていても、実験ノートに数式を書きつければ、その燻りは見ないことにできる。少なくとも、私は、そうやって生きてきた。

 昨日も、講師の実験の手伝いをして、装置のデータ収集用デバイスのハンダ付けで、夜遅くなってしまった。夕食をコンビニに買いに行き、眠気を誤魔化すためにコーヒーを飲んだ。そうしたら、カップの紙が湿って指に貼りついた。指先の水分の感触に、ふと研究室の白い壁が遠く感じられた。

 スマホが震えたのは、深夜一時過ぎだった。高校時代の元同級生――霊能系ユー○ューバーとして成功したキクリンだった。しょぼつく目に、通知の光が眩しかった。昔から友人登録をしてはいたが、連絡があったのは、高校以来、初めてではないだろうか?

 画面のアイコンは、金髪のウィッグみたいに派手な髪色で、濃いめのメイクの顔だった。名前の横には、懐かしいハンドルネームが表示されていた。

『洋次! 生きてる?』

 返事をする前に、二通目がきた。

『君、元、映画研究会だったよね?』

 その文面を見た瞬間、胸の底に冷たいものが落ちた。映画研究会――高校の放課後、教室の隅で三脚を立て、安いビデオカメラで友人の顔を撮り、意味ありげな逆光や、わざとらしいスローモーションを挟んでは喜んでいた時間だった。将来は、映画を撮りたいと、半分本気で思っていた時期だ。それを、私は、いつから「なかったこと」にしていたのだろう?

 私は、画面を見つめ、しばらく指が動かなかった。返事を返したら、何かが変わる気がした。変わることが怖い……しかし、変わらないことにも、もう飽きている。そんな中途半端な感情が喉の奥で絡まって、結局、私は短く打った。

『生きてる。どうした?』

 すぐに既読がつき、続けてメッセージが飛んできた。

『取材、手伝ってほしいんだけど! ガチで!』

『今度、東北の旅館に行くんだべ 幽霊出るって噂のさ!』

『撮影の段取りとか、画づくりとか、なんか助言ほしい! お願い!』

 怒涛の勢いに笑ってしまった。彼女は、昔から、こういうところがあった。机を叩きながら笑い、思い立ったら即行動で、周囲の空気を、全部自分のテンポに引っ張っていく。高校の頃から、誰かの顔色を気にして縮こまるタイプでは、なかった。

 そう考えると、いまの私は、逆だと思った。研究室と指導教員と、将来への不安の間で、常に「まあ無難に」を選んでしまっていた。

 だからこそ、彼女のメッセージは眩しかった――眩すぎて、見続けると自分の薄さが浮き上がってしまうような気がした。

 それでも、私は、断りきれなかった。

『いつ?』

 それだけ返すと、彼女はスタンプを連打してきた。猫が踊っていた。何が、そんなに嬉しいのか分からないほど、跳ねている。

『来週! 土日!』

『ギャラは出せないけど、交通費と飯は出す!』

『あと、温泉!』

 温泉、という単語で、少しだけ心が緩んだ。私の中の疲れが、それを欲しがったのだと思う。

 合理性のない決定だった。けれど、合理性で生きるほど、私の人生はうまく回っていなかった。


 集合場所の駅に着くと、キクリンは、ちょっとぽっちゃりで金髪のヤンキー風だけど、憎めない感じの美人になっていた。ユー○チューブで見るのよりも、造作が整っているように感じた。

 そう、出かける前に、彼女のチャンネルを、いくつか見て「予習」していた。彼女は、派手な服を着て、派手な言葉を使って、視聴者のコメントにわざと煽られるようなやり取りをしながら、怖い場所へ突っ込んでいく。けれど、ただの無鉄砲ではなく、怖がり方が上手かった。怖がっているふりではなく、ちゃんと怖がるのだ。その怖がり方が、見る側の感情を引き出す。

 ……「心霊検証」などと言いつつ、結局は感情の娯楽だ、と私は思った。恐怖は、画面の向こう側で安全に味わうから、面白いのだ。私自身も、それを分かっていた。だけど、引き受けた――自分の中に、映画への想いが、まだあったからかもしれない。

 東北の旅館の取材は、予想よりも厄介だった。雪が深く、道は狭く、周囲は白一色で距離感が狂った。

 借りたSUVから、それなりに本格的な機材を出して――彼女が自前で揃えていたのだ――膝下までの雪をかき分けながら、なんとか、旅館に入った。

 建物は古く、木の匂いが濃く、ロビーの暖かさが、逆に不自然に感じられた。宿泊客は少なく、静けさが空間の端に溜まっていた。

 キクリンは、現地に着くなり興奮した。提灯の光、廊下の暗さ、鏡の配置、古い絵、そして大浴場横の「立ち入り禁止」の扉。どれも「撮れ高」に見えたのだろう。彼女も、カメラを回しながら、わざとらしく囁いた。

「ねえねえ、これヤバくない? 扉、封印っぽいんだけど!」

 私は、苦笑しつつも、背中に薄い寒気を感じた。封印、という言葉が冗談にならない空気があった。なぜか赤いテープが貼られた扉の奥には何があるのか。これまでの様子から、どうせ取材したいと言い出すのだろうなあ、と思った。

 そのとき、新しい宿泊客が入ってきた。若い男女二人だった。その一方の女の人が、彼女のファンだというので、キクリンは、嬉々としてサインを書いていた。


***


 雪の夜は、音を吸う。気配だけが増える。人の声も、床の軋みも、同じ薄い膜の上で滑っていくみたいに聞こえた。

 深夜、キクリンは例の扉の前で立ち止まり、カメラのライトを落とした。暗くして、視聴者を不安にする演出だ。私は「入るなよ」と小声で言った。彼女は「入らないよぉ」と笑って、でも指先だけでテープの端を撫でた。その瞬間、私ははっきりと、空気が一段冷えるのを感じた。

 湯気の向こうの暗がりで、何かが動いた気がした。

 私は、目を凝らした。湯気の揺れだったのかもしれないし、ライトの残像だったのかもしれない。しかし、その『かもしれない』が、妙に重かった。心臓が一拍遅れて鳴った。

 そして、映像は、撮れてしまった。

 廊下の奥、鏡の端、露天へ続く通路の暗がりに、白いものが、すっと現れて消えた。

 人の輪郭に似ていた。髪のような黒い線が揺れ、白い衣が雪みたいに滲んでいた。

 カメラのセンサーが追いつかず、ノイズの粒がざらついて、その輪郭を余計に「それっぽく」見せていた。

 私は、その場では、偶然の映り込みだと思い込もうとした。人間は、意味のないものに意味を与えたがる。暗い場所でライトを振れば、影は変に伸びる。ガラスや鏡があれば、反射は、増える。湯気があれば、像は歪む。説明はいくらでもできる……。

 けれど、キクリンは、説明なんていらない、といった表情をしていた。

「やばい! やばいやばい! 今の見た! 見た? ホンモノじゃん!」

 彼女は、大はしゃぎした。怖がっているというより、宝物を拾った子どもみたいだった。

 私は、その反応に、少しだけ腹が立った。誰かの死や、不幸や、恐怖が、こうして『コンテンツ』になることへの嫌悪だろう。しかし、その嫌悪は、自分にも向いた。私は、それを撮り、編集する側なのだ。結局、同じ沼に片足を突っ込んでいる。


 旅館から戻って映像を確認したとき、私は、さらに嫌なものを見た。

 白い輪郭が現れた瞬間、音声がわずかに乱れていた。マイクのノイズとは違う、もっと湿った、息の混じったような音だった。そして、ほんの短い子どもの声らしきものが入っていた。

「……おいで」

 キクリンは、震えながら笑った。私の方は、笑えなかった。正直、ぞくりとした。映像は、ただのノイズでも、音は人間の感情を直接叩く。言葉の意味が分かると、逃げ道が狭くなるような気がした。

 キクリンは、そこで、急に真面目な顔になった。

「ねえ。これ、ちゃんと解説してくれる人いないかな? 昔のオカルト番組みたいにさ。理屈っぽくて、でも夢がある感じで」

 夢がある、という言葉が、恐ろしいほど軽く感じた。

 それでも、私は、大学の依田(よだ)先生を思い出していた。


 依田先生は、先生といっても定年退官した、嘱託扱いの人だ。廊下の奥の奥、学生の足が、ほとんど向かわない場所に、先生の小さな研究室がある。扉のガラスは曇り、プレートの文字は擦れて読みにくく、中へ入ると、紙と機材と試料の匂いがする部屋だった。研究室というより、倉庫と隠れ家を混ぜたみたいな空間だ。

 私は、たまたま、先生が担当したものの、生徒が一人だけだったクラスの授業を受けたことがあった。講義後、私は、ちょっといたたまれなくなって、「手伝えることありますか」と言ってしまい――それ以来、時々、彼の研究室へ顔を出すようになったのだった。

 先生は、『水は記憶する』という説の持ち主だった――一般的には、個別の原子は区別できないと言われている。酸素も水素も、同じ元素、分子なら同じだ、と。

 しかし、先生は、反応の履歴、周囲との相互作用、熱の揺らぎ――そうした微小な差異が、四次元的に『それぞれ』に蓄積される可能性がある、と考えていたのだ。

 先生と、以前、こんな話をした――


「……君。原子が同一である、というのは、便利な仮定だ。しかし、仮定は現実とは限らない。言い切るのは、傲慢だろう」

 先生はそう言って、透明な容器に入った氷を見せた。結晶の模様が、まるで文字のように見えた。

「水は、相転移しなくても多形であり、構造を変える。変えるたびに、周囲の情報を取り込んでいるのだよ。私は、取り込んだものは、完全には、消えないと考えている。……もし、そこに“人の痕跡”が混じっていたら?」

「はあ……」


 ――彼の話は、学会では、まったくメジャーではない。むしろ、主流派からは、眉をひそめられるタイプの理論だ。証明が難しいし、再現性も取れないだろう。けれど、先生はその不確かさを楽しんでいた。世界の端に触れるような、危うい愉悦を目に宿していた。

 私の方は、その目が苦手だった……自分の中にも、同じ種類の好奇心があると知っていたからだ。

 大学に戻って、依田先生にキクリンのことを話すと、出演を快諾してくれた。

 先生の研修室に機材を持ち込んで、チャンネルの撮影をした。

 先生は、嬉々として解説した。白衣の代わりに古びたセーター、ぼさぼさの髪、眼鏡の奥の目だけが妙に輝いていた。

 彼は、カメラの前で、まるで子どもみたいに語った。

「幽霊というものを、迷信と切り捨てるのは簡単です。しかし、もし“記憶”が水分子に蓄積されるなら、ある条件でそれが結晶化し、可視化することがあり得る。雪は結晶です。霧も水です。湯気もそうだ。つまり――」

 キクリンは、身を乗り出して頷いた。視聴者コメントが流れ、スタンプが飛び、画面の端で「先生かっけえ」「それって量子?」などと騒いでいる。

 先生は、モニターのそれらを気にせず、ゆっくり言った。

「その旅館では、雪が深く、空気が冷え、湯が湧いていた。水の相転移が常に起き、状態が揃いやすかったんですよ。揃えば、記憶は形を取りやすい。……だから、君たちが撮ったものは、偶然のノイズではなく、結晶化した“履歴”かもしれないね」

 履歴……先生はそう言った。幽霊を幽霊と呼ばず、履歴と呼ぶ。その言い換えが、余計に怖かった。だって、履歴なら、そこに『誰かがいた』という事実だけは、否定できないからだ。

 先生は、続けて、まるで自分の研究がいよいよ世に出ることを喜ぶみたいに、少し声を弾ませた。

「しかも、その記憶は、見る者の体内の水と相互作用する。人は、水でできている。だから“共鳴”が起きると、現象が強くなる可能性がある。……つまり、君のチャンネルは、ただの娯楽ではない。実験でもある!」

 キクリンは、拍手した。視聴者も沸いた。

 私は、笑えなかった。実験……そう呼んだ瞬間、私の胸の中の何かがざわついた。

 人間を、視聴者を、そして自分たちを材料にした実験――そこに倫理はあるのか? いや、それよりも、実験なら結果が出る。結果が出れば、次が欲しくなる。次が欲しくなれば、もっと危険な場所へ踏み込む、ことになる。

 そして危険は、いつも「面白そう」の顔をして近づいてくる……。

 あの夜、旅館で見た白い輪郭が、私のまぶたの裏に蘇った。湯気の中で、こちらを見ていた気配、音声に混じった子どもの声、呼ぶような、誘うような一言……。

 私は、高価なモニターの画面を見つめた。先生の解説は、視聴者の心を掴んでいた。キクリンは笑っていた。コメント欄は、熱狂していた。

 その熱の中に、薄い冷気が混じっているように感じた。画面のこちら側の私の指先が、わずかに湿っていた。

 コーヒーの結露かもしれないし、汗かもしれない。しかし、その水分が、何かに触れやすくなっている気がした。

 ――水は、記憶する。

 もし本当にそうなら、いまこの瞬間も、私の体内のそれは、画面の向こうの白い影を、少しずつ写し取っているのだろうか。

 そう思った途端、研究棟の廊下の結露が、やけに生々しく見えた。窓枠に残る水滴が、光を受けてちらりと揺れる。その揺れが、誰かの笑い声みたいに聞こえた気がした。


 私は、その夜、眠れなかった。眠ろうと目を閉じると、雪の白が瞼の裏に広がった。白い闇の中で、子どもの声がする。

「……おいで」

 しかし、私は、思ってしまった。

 次の取材が、少しだけ楽しみだ、と。

 ……こうして、私は、時々、彼女の取材の手伝いをすることになった。

こちら、短編の「雪霊」と同じ名前のメモ書きの別バージョンを、短編の続きとして書き上げたものです。ちょっと長くなりすぎたので、三分割します

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