天国
夕方の風が少しだけ冷たくなってきて、街の匂いが秋に変わったことに気づいた。
誰かが夕飯を作っている匂いと、どこかの家の窓から流れてくるテレビの音が混ざって、少し懐かしいような、少し寂しいような気分になる。
こういう時間が一番いけない。思い出したくないことばかりが、ちゃんと順番を守って浮かんでくる。
駅前のコンビニの隣に、小さな花屋がある。
通りがかるたび、つい覗いてしまう。
店先に並んだ花の中に、あの人が好きだった種類があるかどうか、無意識に探してしまうからだ。
今日も同じ場所に、黄色いガーベラが束になって置かれていた。
ガーベラなんてどこにでもある花なのに、見つけるたび、胸の奥で小さな音がする。
それは懐かしいとか悲しいとか、そんな簡単な言葉で片付けられない音だ。
ひとりで歩く帰り道にも、いまだに並んで歩く癖が抜けない。
電柱と電柱の間を過ぎるたび、もう片方の歩道に視線を向ける。
ほんの一瞬、そこに誰かの影を探してしまう。
当たり前のように、いない。
でも、いないことが当たり前になるまでに、ずいぶん時間がかかった。
「最近どうしてる?」って、誰かに聞かれるたび、少しだけ喉が詰まる。
その問いの奥には、いつも言葉にできないものが潜んでいる気がして。
大丈夫だよって答えるのも、もう慣れたけれど、本当はあの人にしか言えなかった「大丈夫」は、ずっと喉の奥に置きっぱなしのままだ。
他の誰に話しても、同じ響きにはならない。
それはたぶん、声の届く先が違うからだと思う。
この間、久しぶりに古いアルバムを開いた。
写真の中で笑っている自分の隣に、その人がいた。
どんな会話をしていたかまでは思い出せないけれど、確かにあの時は楽しかった。
笑いすぎて目が細くなっていて、画面の中の空はやけに青かった。
そのページを閉じるとき、ほんの少しだけ指先が震えた。
思い出すことは簡単なのに、触れることはもうできないんだと、身体が知っているみたいだった。
夜になると、無性に話がしたくなる。
何を話すわけでもなくていい。
ただ、他愛もないことを聞いてくれて、くだらないことで笑ってくれたら、それでよかったのに。
もうそんな時間は戻ってこないことを分かっていながら、寝る前の静けさの中で、つい口が動いてしまう。
聞こえない相手に向かって話しかけるなんて、滑稽だと思う。
でも、そうしていないと、どこかで自分が消えてしまいそうで。
時々、夢に出てくる。
何も言わず、ただそこにいるだけで、目が覚めた瞬間に胸の奥が痛む。
夢の中ではいつも季節が曖昧で、春のようでもあり、秋のようでもある。
それが余計に現実味を奪って、起きたあともぼんやりと続いてしまう。
夢の中の君は、相変わらず無防備に笑っている。
その笑顔を見るたび、心のどこかが静かに鳴る。
何かを信じるとか、そういうことは昔から得意じゃない。
でも、それでもどこかで思っている。
もし、どこかに「もう痛くない場所」があるのなら、きっとそこにいるのだろうと。
風がやさしい日にそう思うと、少しだけ息が楽になる。
誰にも言わないけれど、あの日から世界の見え方が少しだけ変わった。
空の青さも、風の匂いも、人の笑い声も、全部どこか遠くから聴こえるみたいで。
でも、それでもちゃんと今日を生きている。
コンビニでガーベラを見かけるたびに思う。
今もどこかで、あの人が笑っていればいいなって。
言葉にしなくても、伝わる気がする。
それくらいで、今はちょうどいい。
たぶん、あの人ならわかってくれるだろう。
相変わらず僕は、元気じゃないけど、なんとかやってるよ。
そして、相変わらず君のことを思い出してる。




