プロローグ ―凛花―
「はい、こんにちは!今回も始まりました、自然探訪ねいちゃんねる!今日は蒼森県氷露咲市の、巌鬼山をのぞむ自然公園に来ています!」
「いえーい」
スマートフォンの画面の向こうで、二〇代の女性配信者二人が、爽やかな笑顔を向けている。周囲には森に囲まれた縄文時代の立石遺構が点々と並び、二人の後ろには美しい巌鬼山の青いシルエットと、その裾野に広がる深い森が広がっていた。
右の、ロングヘアを後ろで結った眼鏡の女性が、背後の雄大な自然に驚嘆するジェスチャーをしてみせた。
「ここは来るの初めてなんですが、なんというか、他の都道府県のどこの自然とも違う、不思議な印象ですね!」
「そうですね、何とも言えない静けさといいますか。この、縄文時代の列石が、その雰囲気をさらに倍増させています」
左のミディアムヘアの女性が、腰まである高さの立石に手を触れた。やや丸みと膨らみのある、方形の立石だ。遺跡の年代は、およそ三〇〇〇年前と推定されている。
「きのう行った、鬼を祀っているという神社からそんなに遠くないんですね」
「そうですね、ただ道がわりと不規則で、ナビを使っても微妙にわかりづらいので、これから訪ねてみようという方は事前にルートを確かめておく方が良いかと思います」
二人は日本全国の自然の名所レポートが好評を博している、四三万の登録者数を抱える千葉県在住の動画配信者だった。撮影担当と三人組で活動し、北陸と東北の残り数県を廻れば全都道府県コンプリートとなる。
今回は本州最北の蒼森県ということで、地元を舞台とした有名な漫画の聖地めぐりも予定されており、前回配信時の予告から話題になっていた。
「いつも言っている事ですが、このチャンネルでご紹介したスポットを訪れて、ごみを捨てて行ったりだとかは絶対にしないようにお願いします!」
チャンネル登録者数が増えてから、最後にかならず添えている注意を述べ、巌鬼山周辺の全三回のレポート動画は終わった。
だがその後このチャンネルは、奇妙な事態に見舞われる。今回の配信に前後して、チャンネルの公式SNSの更新が止まってしまったのだ。動画は各県を回るため、ふだんから更新の間隔は長めだったが、動画とは関係なく日常的に投稿されているSNSが停止した事、それも三人いるメンバーの全員が沈黙している事は、ネット上で様々な憶測を招くことになった。
その内容は事故に遭ったとする説、事件に巻き込まれた説、もともと不仲だったメンバーが何かのきっかけで決裂した説、ほぼゴシップの域を出ないものがほとんどで、中には遺跡の何かを動かして祟りに遭った、あるいは巌鬼山の麓の森に棲息するUMAに襲われた、などという荒唐無稽な説まで飛び出した。
後日、地元である氷露咲市在住のチャンネルフォロワーが、最後に収録した現場の遺跡を確認に訪れて、その様子をSNSにショート動画で投稿した。だが現場の映像には、特に異変を感じさせるものは見当たらなかった。景色に唯一変化があったといえば、チャンネルの動画投稿時には咲いていなかった遺跡付近の桜が、満開になっている事ぐらいだった。
動画には何か不規則な打音が響いており、心霊現象、ラップ音ではないかというコメントもあったが、それは遺跡の駐車場から一五〇メートルほど離れた所にある、二か月前の豪雪で傾いた古い木造建築を解体する、重機の音だった。
結局チャンネル配信者三人の行方はわからず、それぞれの家族が警察に捜索願いを届け出る。だがそれは、続く出来事の発端でしかなかった。
◇
白山姫凛花一五歳は、本来の希望であれば、ふたつ隣の市にある商業高校の、グラフィックデザイン科に通っているはずだった。
「なんで私が進学校なんかに」
大学受験を目指し勉学に励む生徒達から、石もて追われかねない独り言を呟きつつ、凛花はホームルームが終わると、長い髪を後ろで結い直し、そそくさと帰り支度を整えた。進学校でありながら部活にも励む猛者、さっさと帰宅してまた教科書を開く猛者たちを奇異と尊敬の眼差しで見送りつつ、悠然と席を立つ。
すると眼の前に突然、真っ白な不織布マスクに広い黒縁眼鏡をかけた、ツインテールの少女の頭部が現れた。
「わあ!」
「白山姫さん、お時間よろしいかしら」
花粉症持ちの漫画研究部員、外崎舞菜さんは至近距離の鼻声で迫ってきた。
「なっ、な、何?」
「つい今しがた、あなたを見た、という目撃証言があったの」
突然始まった、嫌疑も何もわからない取り調べに凛花は狼狽えた。いったい自分は何か、罪を犯しただろうか。外崎さんはおもむろにスマートフォンを取り出すと、ひとつのアプリを立ち上げた。青い画面の、ショップのポイントアプリだ。
「このアプリに見覚えがあるわね」
「そっ、それは……」
「あなたは昨日アニメグッズ専門店『アニメイズ』氷露咲店で、B4の漫画原稿用紙を購入している。うちの部員の目撃証言」
外崎さんはさらに迫ってきた。眼鏡の奥の瞳は意外なくらい綺麗だ。
「アニメグッズならまだしも、漫画原稿用紙、しかも厚さ一三五キログラムの紙をわざわざ選ぶなんて、一般人の買い物ではないわね」
紙の厚さの規格、単位まで指摘してくるあたりは、さすが漫研だ。もういちいち取り繕ったところで仕方ないので、凛花は先日の放課後の行動を認めた。
「はい。たしかに私は、アニメイズで漫画原稿用紙を購入しました」
それが何か、じゃあさようなら、月曜日にまた会いましょうねと立ち去ろうとした凛花を、外崎さんは犯人を確保する要領でホールドしてきた。
「いだだだだ!」
「つまりあなたは漫画を描いているということね!?」
「ギブ! わかった! 離しなさい!」
そう、この白山姫凛花は漫画を描いている。将来の夢も漫画家だ。進学校ではなく商業高校のデザイン科に行きたかったのは、何かを公然と描ける環境が欲しかったからだ。
ところがその商業高校は、凛花が中学校の時に廃校になってしまう。そんな馬鹿な話があるか、と憤慨したところで、地方も地方、しかも少子化のご時世では、一人の女学生が地団駄を踏んでもどうにもならない。両親は進学校に行けとうるさいので、楽に入れる今の高校を仕方なく選んだのだ。ワンランク上の高校にもどうにか入れたとは思うが、自分より頭のいい人達に囲まれて、泣きを見るのは御免だった。
部活には入っていない。漫画を描いているなら漫研に入ればいいではないか、と言われそうだが、そもそも一人が性に合う凛花にとっては、部活はさほど必要には思えない。が、外崎さんはそんな凛花の思惑など無視して凄んできた。
「どういう作品を描いているの!? B4ということは、雑誌に投稿しているの!?」
「顔が近い! 両腕で壁ドンするな!」
もう仕方がないので、明日うちに来れば今進めているネームと原稿を見せてあげる、ということで話がまとまった。教室の隅で密着状態で問答している二人を、他の生徒が奇異の目で眺めていると、突然ドアが開いて、ホイッスルを下げたポロシャツの体育教師が顔を覗かせた。
「部活や委員会など用事がない生徒は、さっさと退校するように。今しがた警察から、注意喚起の連絡が入った」
「注意喚起?」
この隙に外崎さんを押しのけて身支度を整えると、凛花は訊ねた。
「ニュースを見ているかも知れないが、最近市内で、人が行方不明になる事件が数件発生している。当面、部活動も中止になるかも知れん。さあ、わかったら帰れ。できるかぎり独りにはならないようにな。迎えを呼べる生徒は、極力徒歩を避けるように。不審人物には絶対に近付かないこと」
パンパンと手を叩いて、ぶっきらぼうに急かしつつ、となりのクラスに向かう。同じ内容の校内放送が流れると、教室の他の面々は肩をすくめながら教室を出て行った。
外崎さんは数秒思案したのち、それこそ漫画のようにポンと手を叩いて、凛花の手を取った。
「独りで帰るのは危険よ。うちの部員達と一緒に帰りましょう」
黒縁眼鏡の奥の瞳は、あきらかに漫研に凛花を引き込む意図が透けて見えた。市民の危機を私益のために利用してくる、その図々しさは尊敬すべきか否か。
凛花が通う桜堀高等学校は、すぐ近くに氷露咲城を囲む広大な公園がある。今年は四月半ばを過ぎると、例年より早く桜が開花し、通学・退校時に日本一の桜(異論は全て却下)を拝めるという、ぜいたくな環境である。事件が起きている事など嘘のように、公園内は観光客でごった返していた。
凛花は一人で帰る予定だったのが、どういうわけか外崎さんを含む、漫研の一年生四人と一緒に、公園を通り抜けて花見をしつつ帰路につく事になった。漫画を描いているということは、好きな漫画家は誰なんだと質問攻めに遭い、清水玲子、山本まゆり、といった名前を挙げると「渋すぎる」と四人揃って唸られた。もちろんアニメとかゲームも好きだ。
「要するに白山姫さんもオタク仲間って事でしょ」
パッと見はオタクになど見えないシュッとした切れ長の目の、ショートカットの佐藤さんは、快刀で乱麻をバッサリ断ってみせた。オタク。今まで自分でそうハッキリ自覚した事はなかったが、第三者から言われると、自覚せざるを得ない。
「白山姫凛花、か。それこそ少女漫画みたいな名前よね」
「聞いたことないけど、何か由緒正しいお家なの?」
そう言われて、凛花はふと桜の向こうの、霊峰・巌鬼山を見た。山頂が三つに分かれた、美しい山だ。
「ルーツが巌鬼山の麓にある、とかいう話は聞いたことがある」
「おおー」
漫研の四人にどよめきが起きるものの、凛花は苦笑した。
「そんなこと言ったら、ここいらへんの家のほとんどが、巌鬼山の麓に親戚なり何なりいるでしょうよ」
「いいや、何か特別な力を持った血筋の一族の末裔かも知れない。巌鬼山に封印された邪神を見張っているの」
「私のお父さん、製粉業者の営業マンだけど」
いちおう、外崎さんの妄想にツッコミを入れておく。巌鬼山に封印された邪神を見張る一族。今どきそんな安っぽい設定の漫画、編集者なら下読みの時点でゴミ箱に放り投げるだろう。
「そうね、仮にそういう一族だとしても、うちはもう本家から遠すぎて関係ないと思うわ。漫画の主人公には出来なさそうね」
凛花は、丸めて串にさしたソーセージを食べ終えると、巨大なごみ箱に串を放り投げた。
「それで、いま描いてる作品はどういうお話なの!?」
外崎さんは、リンゴ飴をレポーターのマイクよろしく突き出してきた。スルーして欲しかったが、どのみちネームは明日見せる事になっている。凛花は仕方なく、簡潔に答えた。
「SF」
「はい?」
「だから、SF」
すると、またしても四人は「うおー」と唸った。まあ、言いたい事はわかる。SF。目の肥えた読者が一番多い、危険なジャンルである。
「あなた達はどんなのを描いてるの?」
こっちが答えたのだから、訊ねる権利はあるだろう。ボブカットに眼鏡の乳井さんが答えてくれた所によると、いま四人でオリジナルの、伝奇系の少しだけBLっぽい短編を進めているらしい。凛花には少し意外だった。
「てっきり二次創作かと思ってた。私にもネーム、見せてくれる?」
「それは、漫研に入る意志があるということ?」
まっすぐに下ろした黒髪と黒い目が不気味な、薬師堂さんの視線が凛花に向けられた。外崎さんといい、この押しの強さは何なんだ。
「そうは言ってないでしょ!」
「この話の流れで、入部しないのはあり得ない。物語の導入としては」
「なんでもストーリー構成に結びつけようとするな!」
もう、このまま既成事実で、月曜日には入部させられていそうな気配だ。断固として阻止しなくてはならない。
「えっくし!うー」
外崎さんは相変わらず鼻水と格闘している。さっさと耳鼻科に行って、自宅でおとなしくしてろ。そんなことを考えながら、ふと並木の間から遠く巌鬼山を見た、その時だった。
凜花の意識が、巌鬼山の山頂に吸い寄せられた。まるで、強烈な磁力で吸い付けられているようで、凜花は必死でそれを振りほどいて周囲を見た。そこで凜花は、起きている異変に気がついた。
観光客の喧騒が、まるで動画再生アプリのミュートをかけたように消え去り、真空の中にいるような感覚になった。景色はモノクロームになり、人々の動きはカタツムリよりスローになった。というより、停まっているように思えた。
なにか、神経系とかのまずい病気でも突発したのか、と凜花は不安になった。だが、自分自身の感覚は至って普通だ。自分だけ、世界から隔絶されたようだ。一体何なんだ、と思って、もういちど巌鬼山を見る。すると、巌鬼山の山頂から、空に向かって真っ直ぐ伸びる、白い光の筋が見えた。
よく見ると、それは蛇のように波打つていた。光の蛇? 否、違う。
龍だ。光の龍が、巌鬼山の山頂から天に向かって飛び立っている。
そのとき凜花が感じたのは、「見てはいけないものを見てしまった」という感覚だった。まずい。なんだか知らないが、これはまずい。どうにかして、見たという事実を無かった事にしなくてはならない。
そう思った次の瞬間、凜花は頭上に底知れない圧力を感じて、恐る恐る顔を上げ、そこにあるものを見て絶句した。
口を開けた、巨大な白い龍の頭が真っ直ぐに凜花を向き、赤い目をこちらに向けている。それは、なんだか古くさいアニメに出て来るような印象のデザインの龍だった。
「 」
龍の口は一切動いていないが、「言葉」がたしかに、凜花に届いた。それは、ある場所に行け、という指示だった。言葉ではない言葉、とでも言えばいいだろうか。そうとしか表現できない。とにかく、言葉は言葉だ。龍の意思が、凜花の言葉を借りて伝わってきた。
そして再び、べつの言葉が響いてきた。今度は間違えようのない、はっきりとした言葉、日本語だった。
「このことは誰にも話さず、絶対に独りで行くこと」
それはどういう意味か、と訪ねようとして、口を開きかけた次の瞬間、龍は凜花を飲み込むように、真っ直ぐに口を開けて降下してきた。思わず凜花は両腕を頭上に上げ、叫んだ。
「うわ―――っ!」
気がつくと、公園の桜祭りの喧騒と色彩は元に戻っていた。そして、漫研の四人は凜花を置いて、八メートルほど先に進んでしまっていた。凜花がいないことに気付いた外崎さんが、振り向いて駆け寄ってきた。
「白山姫さん、どうしたの?」
身をかがめて、いま体験した出来事に表情を強張らせた凜花を、心配そうに見つめる。
「具合悪いの? 大丈夫?」
どう考えても自分の方が具合が悪そうな鼻声で、外崎さんは顔を覗き込んできた。そこで、いま起こったことを話そうと思った瞬間、凜花はあの白い龍の「誰にも話すな」という言葉を思い出した。そこで、とっさに場を取り繕うための出任せを、凜花は捻り出した。
「いっ、いま上からカラスかトンビみたいなのが向かってきて」
「まじで?」
「ほら、観光客とかの持ち物を狙う話、よく聞くじゃない。あれかと思って、身構えてたの」
それっぽい出任せを、外崎さんは案外すんなり信じてくれたようだった。ほかの三人が駆け寄ってくると、鳥に気をつけよう、と言ってくれたので、その場はとりあえず誤魔化せた。だが、そこで凜花はひとつの事実に気がついた。どうやら、あの白い龍の声を聞いたのは、自分だけであるらしい。外崎さん達も、周りの観光客たちも、誰一人として気づいている様子はない。自分だけが、あの時が停まったような空間で、龍の姿を見、声を聞いていたのだ。
そのあと、取り留めのない会話をしながら、桜を眺めつつ五人で公園を出た。それは楽しい時間だったし、入学して初めての、はっきりとした友達付き合いができた事を、凜花は素直に喜んだ。
だが、その最中にも凜花の心から、つい十数分前の奇怪な出来事の記憶は離れなかった。巌鬼山から立ち昇るように現れた、あの雪のように真っ白な龍と、龍が語った内容。
あの声が幻聴だとすれば、それはそれで自分の精神状態が不安だし、幻聴でないのなら、やっぱりそれはそれで不気味な話だ。そして後者であるなら、龍の声に従うべきなのか。従ったらどうなるというのか。凜花の思考を遮るように風が吹いて、桜の花びらが舞った。