プロローグ PECHEという場所
CASE-0 日常
──東京、三鷹。
駅前の路地裏、こじんまりとした飲食店街にそれは存在した。BAR PECHE。フランス語で桃を意味する言葉を看板に掲げたその場所は、三鷹周辺に住む常連客に愛されるバーである。
店主は清野という、眠らない街六本木で修行を積み、やっとの思いで独立したバーテンダーで、本人のふくよかな体型も相まって常連客から愛されていた。常連客はバーを訪れるなり、清野のお腹を突いてみたり、軽口を叩いてみたり、微笑ましいコミュニケーションを楽しんでいる。
清野はグラスを拭き上げ、ボトルを磨き、椅子の位置を整えてバーの開店を待っていた。午後八時になればPECHEの扉が開かれる。この日も、この場所には馴染みの顔ぶれが集まろうとしていた。
「ねえばくさん聞いてよ!推しのイベント落選しちゃったの」
午後八時を半刻程過ぎた頃、バーのカウンターには二十代の常連客の女性と、中年の男性が各々注文した酒を片手に談笑していた。
ばくさん、と呼ばれた彼は馬喰田という名の刑事であるが、職業を公にするリスクを鑑みてバーではしがない窓際サラリーマンを自称していた。そんな馬喰田に思いの丈を吐露している彼女もまた、常連のひとりである。
女性アイドルを追いかけている彼女は、百瀬沙奈という。都内で医療事務として働く、所謂アイドルオタクであった。沙奈は自身もアイドルになれるのではないかと周りの人が思う様な容姿をしていて、バーに通う常連客の一部は沙奈に会う為にPECHEを訪れていた。沙奈はグラスのレゲエパンチを飲み干して、清野を見て言った。
「ロングアイランドアイスティー飲みたい」
「えぇ〜、めんどくさっ」
「うわコイツバーテンの癖にカクテル作るのめんどくさいとか言ってる」
「ちょちょちょ、コイツって言わないで。傷付くから。ロングアイランドアイスティー混ぜるもの多過ぎるんだもん」
「キヨそこはさ、沙奈の為に作ってやってよ。推しのイベント落ちてんだから」
「そーだそーだ!」
キヨ、というのは清野のあだ名である。読みは"せいの"であるが、呂律の鈍った酔っ払いには口にし辛いとの事でいつしかキヨと呼ばれる様になっていた。
清野はやれやれといった表情を隠そうとせずに、ロングアイランドアイスティーに用いるリキュール等を棚からピックアップしていく。ジン、ウォッカ、ラムまでチョイスして、冷凍庫からテキーラを取り出した。沙奈はわぁいなんて気の抜けた声で喜んで清野を見ていた。
「てか沙奈ちゃんこんなもの飲んで酔わないの?」
「私酒強いよ。こないだも旅行で日本酒飲んだし〜、美味しかったから買ってきちゃった」
「やってる事がアイドルの追っかけと飲み歩きでオッサンなんだよな〜」
「ちょっとやめてよかわいい女の子なのに」
沙奈がキッと目を細めて馬喰田を見たが、馬喰田は笑うだけである。これがPECHEの日常であるので、清野は特に気にする事もなくロングアイランドアイスティーを作っていた。紅茶を使用せずともその味を再現するそれは、バーテンダーとしての腕の見せ所でもある。
清野はコーラのボトルを開けた。プシュ、と空気の抜ける音が稍派手に響いて、無言でボトルを見つめる。清野は黙ってコーラを飲んだ。
「え、飲んでる。何してんの」
「炭酸抜けてた。新しいの開けるから待って。てか沙奈ちゃん俺に引き過ぎだからね」
「だからって飲むなよ〜。せめて店終わってからにして」
「いーんすよ、ばくさんと沙奈ちゃんしかいないし」
「そういう問題じゃないと思いますけど〜?」
沙奈が口を尖らせると、清野が沙奈の前に置いてあるコースターの上からグラスを攫って、完成したばかりのロングアイランドアイスティーを置いた。グラスの淵には飾り切りが施されたレモンが鮮やかな黄色に輝いている。沙奈の表情がぱぁ、と華やいだ。
「キヨさんやるじゃん。本業バーテンダーなんだね」
「んん今更?俺ずっと15年間バーテンダーなんだけど今更?」
「へへ知ってるよ」
沙奈がロングアイランドアイスティーをひと口飲んで、美味しいと味を噛み締めていると、バーの扉が開いた。清野がいらっしゃいませ、と声をかけると、顔色の良くない女性がふらふらした足取りでカウンターに近付いた。清野は笑っている。
「ゆなちゃんフラフラじゃん。また昨日ゲームしてあんま寝ずに仕事行ったんでしょ」
「え、わかります?昨日ココで飲んで家帰ってゲームしちゃってあんま寝れてないんですよ」
「俺が言えた事じゃないけどさ、ゆなもちゃんと寝ろよ?」
「あ、ばくさんと沙奈ちゃんだ。お疲れさまです」
ゆなと呼ばれた彼女も、PECHEの常連客である。ゆなが夢を追いかけていた頃アルバイトしていたバーがここPECHEで、就職しアルバイトを辞めた今も客としてちょこちょこ顔を出していた。紗奈もゆなと同じ境遇で、学生時代にアルバイトをしていたのである。現在ゆなはIT企業で調査職に就いていて、連日クライアントから依頼された仕事の調査に追われていた。
「あんま寝てないのによくパソコン仕事が出来るよね。俺ならムリだもん」
「キヨは機械音痴だもんな」
「おん。ドヤる事じゃないけど俺機械触れねぇわ」
清野はロックグラスを用意して、手のひらサイズの氷の角を削り始めた。ゆなが毎度梅酒のロックを注文するので、清野はゆなの姿が見えると、ゆなが何も言わずとも氷を削り始めるのだ。ゆなが馬喰田の隣に座って項垂れる。ゆなはボソボソと小声で喋り始めた。
「……彼氏と別れた」
「別れたの?!あの歳下のヒモ?!あはーー!!」
「キヨ面白がりすぎだろ」
「本当だよ。デリカシーない、さいてー」
馬喰田が些か呆れて、沙奈が顔の筋肉を引き攣らせて清野を見ていた。清野はゆなが失恋した事が面白いのか、満面の笑みでゆなを見ていた。
「え、なんで別れたの?」
「……ウチの鍵失くしたり連絡無視するから耐え切れなくなって振っちゃった」
「鍵失くされたの?ゆなちゃんの家の?あり得ないね」
「ゆなってその手の男に引っかかる女だよなあ」
「わかってる!次はもうヒモ飼わないもん!」
「て言って今回のヒモ確か三人目くらいだよね」
「三人もいないよ……二人目だもん」
「二人も三人も変わんないよ。誤差誤差」
ゆなが前日飲み過ぎた事も、帰宅してゲームに明け暮れた事も失恋が原因であった。ゆなは清野から梅酒の注がれたグラスを受け取って、まろやかな甘さに溺れようとしている。馬喰田はゆなと沙奈を見た。
「ゆなも沙奈も可愛いのに、方やヒモ飼ってたし方や恋愛する気ないとか言ってるし勿体無いな」
「やだばくさんオジサン〜」
「ん、あのえっと、ちゃんとおじさんだわ!」
「二人ともウチのアイドルですから。これからは恋愛禁止でいこう」
「キヨさんに禁止されるのなんかヤダ〜」
「なんでよ!」
ゆなは軽口を叩き合って笑う三人を見て、俄かに笑った。ここ数日の辛さを和らげてくれる場所。ゆなにとってPECHEは心のガス抜きをする所である。
清野はPECHEが、誰かの心の支えであれば良いと。そう、思う。ゆなの様に心が擦り切れた時、沙奈の様に推し活に敗れた時、嬉しい事があった時。どんな理由だって構わない。PECHEに足を運んで、バーを出る時笑顔になれるなら。そんな場所であって欲しいと、思う。