第四編『残桜』/第六章(最終章)「夜が明けたら、東雲」
いつの間にか寝ており、時計を見るとすっかり深夜で、窓が黒から色を変える気配を僅かに感じた。
あの時、俺はこの思い出を、そしてこの後悔を胸にしっかりと生きていこうと思った。まだ先の見えない未来には様々な色があり、綺麗なカラフルだった。しかし俺は結局どの色にも飛び込まず、いくつかの色に少し足を入れては引っ込めてを繰り返した挙句、その色たちの前であぐらをかきだし、じきにカラフルは混ざり合って暗い色になった。そうして俺は今もずっとこの六畳間の中で死んだように寝転び続けている。あれからもう十二年が経った。
結局俺は、あの娘が死にたかった理由さえ知らない。どんな苦しみを抱えていたのか、本当はどんな人だったのか、なにも知らない。そんななにも知らない人のことを、ずっと思っている。
天井の木目を見つめる。あの娘は卒業した後、進学したんだったか、就職したんだったか、それももう忘れてしまった。その話自体していなかったのかもしれない。思い出はだんだんとぼやけていく。それはいつか、我が部屋の曇りガラスの窓のように、形を判断することすらままならなくなっていくのかもしれない。そんなことを思いながら静かな夜中に沈む。しばらく沈んだまま、またあの娘のことを思っていた。そうしてなんだか誰かに会いたくなった。その誰かは無論あの娘で、でも会えないし合わせる顔もなかった。虚空に溜め息が浮かんで、どうしようもない孤独が襲ってきて、なんだかじっとしていられなくなって、重い身体を起こし、よろめきながら狭い部屋を歩く。そうして玄関のドアを開けて部屋を出た。深く暗い静寂な夜中でまだ少し冷たい春の風がすぐに俺を包む。重い足でだらだらと不安定に歩きながら、俺は考える。
俺は何処へゆくのだろう。それだけのことを回らぬ頭で考えて、死ねばいいと思ったけど、やっぱり一人で死ぬのは怖くて、また考えて、そして重い足に凹んだ空き缶がぶつかり、軽く耳に刺さるような音を鳴らして少し飛んだ。なにかしなければなんて思いながら歩いていたものだから、俺はなんとなくその空き缶を拾って近くにあったゴミ箱に捨てた。でもそんなことをしても無論世界は変わらず、世界どころか俺の人生すらなにも変わらない。ぽつんとした頼りない街灯の光が暗い夜明け前の中で俺を浮き彫りにするばかりで、舌打ちの音がひたすら静夜に響いていた。
そうして悔やみ、寂しくなり、また悔やみ、寂しくなり、そんなどうしようもないループを繰り返しながら歩いていると近所の川へ出た。そうしてその川を前に俺は立ち止まり、少し眉を顰め、また溜め息を吐いた。
本当のことを言うと、自分がどうするべきかなんて、ずっと前からわかっていた。答えなんて、わざわざ探すまでもなく知っていた。我がゆくべき先にはある色がある。それはカラフルなんて綺麗なものではなく、様々な色が混じり合った汚いドブのような混色だ。その先になにがあるのか、それはどれほど考えてもわからない。しかしそれはなにかがあるかもしれないということでもあるのだ。だから俺はそんなあまりに曖昧で馬鹿で根拠のない希望に縋りながら、それでもその先の見えない混色に飛び込まなくてはならないのだ。夢もなにもなくてこの地獄からの脱出方法はわからないけれど、とりあえずなんでもいいんだ。やったことのないことをやってみたり、友達を作ろうとしてみたり、そんな小さなことで、きっといい。なにかをしなければどうにもならないのだから。思い出に縋るだけ縋って、なにもせずに息をしているだけではなにも変わらないのだと、後悔に引き摺られて、飲み込まれて、心を閉ざして過去へと歩き続けてばかりではなにも変わらないのだと、本当はずっとわかっていた。前を向く心とそれによる行動が大事なのだと、本当はずっとわかっていた。そもそも自分が前に進めないでいる理由に、あの娘との間で生まれた後悔はほとんど関係がないのだと、結局は自分自身の問題なのだと、本当はずっとわかっていた。
あの頃、あの青の中で俺はあの娘と二人だった。ゆく先になにがあるかなんてのは考えもしなかった。考えるという考えがなかった。ただ、それで良かったんだ。あの頃と違って隣にあの娘はいないけれど、その先の見えない混色に向かって飛び込まなくてはならないのだ。
あの頃わからなかったあの娘の言葉も今ならわかる。現状を受け入れられなくて、苦しくて、死にたくて、それでも死ねない僕らは生きていかなければならない。納得のいく人生にするために。
ただ、そうわかったうえで、全てわかったうえで、それでも前に進めない俺がいて、失敗が怖くて、挑戦が億劫で、不確定なものに縋る勇気がなくて、それだけの理由で進もうとしない俺がいて、進むべきたる混色の未来を前に、ずっと進めずにいる俺がいた。
そして、今日もまた進めそうにない俺がいた。答えと改めて対峙してもなお、まだ進めそうにない俺がいた。今もまだ、進めそうにない俺がいた。
そうして俺はまた、桜のようなあの娘との、あの暗くも青い思い出の中へと歩いて行きたくなった。そしてそれに触発されてか、どうしようもないいくつかの後悔がまたふつふつと湧き上がる。するとゆく先に広がっていた混色があの青色に変わる。懐かしいその色の中から懐かしい音が聞こえ、俺はまた過去へと歩き始めた。
過去への道すがら、ふと懐かしい香りを感じたときだった。
「夜が明けるよ」
そう告げるあの娘の声が耳もとで聞こえた気がした。
勿論それだけのことで急に状況は好転しないし、過去へと歩きだした足を止めることはできなかったけれど、暗い夜明け前の中ではその言葉だけが唯一信じられるかもしれない根拠のない希望として瞬いていて、だから俺はその光を、ただひたすらに焼き付けた。
そうしてそんなまだ心に刻むことくらいしかできない俺を、じきに懐かしい風が包んだ。
川面に浮かぶ無数の花びらは上流に咲く桜の存在を物語り、僕は少し早歩きになった。




