第四編『残桜』/第四章「生きて」
春
冬は憂鬱の充満した地底で時折俺に寄り添いながらも、最後にはいつも俺を置いて消え、なにか急かすばかりのありがた迷惑な春と化す。始まりを思わせるこの暖かな季節になにか僅かに憧れのようなものを感じながらも同時に強い劣等感を抱き、背を向けるようになってもう久しい。
俺は三十歳になったが、それでもやっぱりなにも変わっておらず、休憩中の男子大学生に呆れのような目で見られながら廃棄を漁り、コバエとパンを取り合う生活が続く。ボロアパートでは春の訪れを喜んでか、今年初のゴキブリが姿を現し、殺したそのゴキブリに対する負の感情の正体はもはや同族嫌悪であった。
部屋でテレビをつけると再放送のドラマがやっており、ボーっと見ていたのだが、ちょっとした役で出演していた俳優で見覚えのある男がいた。その後エンドロールに表示された名前を見てその男の正体がわかった。その俳優は高校三年生の頃のクラスメイトだった。そしてその偶然に驚きとなにか苛立ちのようなものを感じながらも俺はあの教室を思い出す。
三年生のいつだったか、五分休憩のときに俺に珍しく話しかけてきたクラスメイトがいた。その芝という名の男子生徒は俺に中身のない話をだらだらとしてはなにかヘラヘラしており、結局なにも生まれないまま去っていった。なんだったんだあいつは、なんて思うだけで、結局それ以降喋ることもなかった。
今思えば、友達の多そうな芝という男がわざわざ俺なんかに話しかけてくれたことはありがたいことだったのかもしれない。もしかしたら仲良くなりたいと思ってくれて話しかけてくれたのかもしれない。俺はすごく勿体無いことしてしまったのかもしれない。
その後、携帯で彼の名前を調べてみると、事務所のホームページなどは出てこなかったが、SNSアカウントが出てきた。少し前から更新されていないようだったが、投稿の内容を見るに、どうやら既に役者はやっていないようで、地元で誰かと結婚しているらしかった。そうしてそのアカウントの投稿を少し遡ってみると、そこにはなにか見覚えのあるまんまるとした男の写真があり、その男の正体は当時から芝と仲良さげだった金沢という男だった。あの当時、このなにか面白そうな男に話しかけていれば、俺のこの現状も少しはマシに、そして楽しくなっていたのかもしれない。
そしてさらに思い出す。その二人と仲良さげだった、西森という男を。印象は薄いがなにか俺とよく似ており、俺と同じでいかにも短小包茎早漏の三拍子が揃っていそうな面をしていたあの男を。そうして出てくるかなと思い、ネットで彼の名前を検索してみると、福後という記者が書いた彼のインタビュー記事が出てきた。どうやら西森という俺とよく似た男はデビューを目指して小説を書いているとのことだった。彼はインタビューの中で、「結局多くの物事の答えというのは拍子抜けしてしまうくらいに単純で、本当はずっと前から持っているものだったりするんですよ。ただそれでも、どうしても前に進めない人もいて、実際僕もそんな人間で、だからそんな僕と同じような人たちを、救うって言ったら大袈裟ですけど、そういう人たちに寄り添ったり、そういう人たちの背中を押したり、そんな文章を書いていけたらなと思っています」と語っていた。俺とよく似ていたけれど、俺と違ってしっかりと信念を持ち、努力をしているようだった。
結局この暗闇に進むことを選んだのは、間違いなく俺自身だった。黒く染まりゆく心は自業自得でもうどうすることもできなかった。高校卒業と同時にちゃんとした覚悟もなく夢を追って上京し、二年程だらだらと夢を見続けた挙句、大して追うこともしないまま生活の中で情熱は消え去り、じきに夢はゴミになった。以降十年間、なにをするでもなく、あぐらをかき続けるばかりで、友も女もできることはなく、まず積極的に作ろうともせず、バイトを繰り返すだけで独り生きている。こんなことならば...。そうして身体が黒に覆われ項垂れていると、テレビからニュースが聞こえてきた。
「◯月◯日、◯◯夕方ネット、今日のニュースです。
今朝、◯◯◯、◯◯◯の雑居ビル脇で高校生の男女2人が死亡しているのが発見されました。
警察によると、今日午前6時30分ごろ、ビル脇の路地で男女2人が血を流して倒れているところを通行人の男性が発見し、119番通報。病院に搬送されましたが、共に全身を強く打っており、その後死亡が確認されました。
2人は他県の高校に通う同級生とみられ、数日前から◯◯◯に訪れていたとみられます。
遺書などは見つかっておらず、警察は事件の可能性も視野に、2人がビルの屋上から飛び降りたとみて捜査を進めています。」
まるであの時の僕らみたいだった。あの時上手く死ねていれば、こうしたニュースが流れていたのかもなと思った。やっぱり、やっぱり俺はあの時死んでおけばよかった。それが一番幸せだった。
身体が沈み、気づけばあの冬のあの雪国だった。
丸襟の赤いコートを着込んだ少女が前をゆく。少女と言えど歳はもう十八で、ただその様はあまりにも少女であった。
駅を出ると銀世界であった。
厳冬の冷たい風を浴び、肩まで伸びたその真っ黒な髪を靡かせ、寒さに震えながら彼女はこちらを振り返り、その大きく真っ黒な瞳で僕の目を見て「さっむいねえ」なんて可愛らしく微笑んだ。そうして小さな手ですぐに折れてしまいそうな細い首にマフラーを巻き、白い息を吐いた。
僕が震えながら「じゃあ行こう」と言うと、彼女は大きく頷いて勢いよく僕の腕にしがみつく。彼女の控えめな胸が当たり、腕だけに暖かさを感じながら、笑顔の彼女と二人、冬の中をゆく。
彼女、朝川さんは、いままででも一番楽しそうに笑っていた。
朝川さんはクレーンゲームで小さな熊のぬいぐるみのキーホルダーを二つ取ってきて、「おそろいにしよ」と、その一つを僕に差し出してきた。
僕らは共に息を呑み、顔を見合わせて笑った。そしてどちらからともなく、揃って大きなベッドに飛び込んだ。雲を想起させるようなその色と感触に顔をうずめていると横から子供のような無邪気な笑い声が聞こえ、その声の方を向くと声の通りの少女が笑顔でこちらを見ていた。
二人で勢いよくカーテンを開くとそこには星空のような街の姿があり、しばらく共に見惚れていた。
耳にはずっと朝川さんの浴びるシャワーの音が流れ込んできて、また軽いめまいを覚えながらも、一人、ソファに座って色々なことに思いを巡らせた。彼女は今なにを考えているのだろうか。どのような表情で、どのような思いを抱いているのだろうか。考えてもわからなくて、諦めてソファに寝転び、ひたすらに天井を見つめた。
湿り気を纏った朝川さんは綺麗な白い部屋着に身を包んでおり、大袈裟でもなく、天使が舞い降りたようであった。
横になった僕らは同じ毛布に包まれ、我が鼓動は生まれてはじめての状況に速まる。でも隣で寝転ぶ彼女はいつものように笑っていて、それを見ていると少しずつそれも気にならなくなった。そうしてふかふかの毛布に包まれながら二人でまたなんともない話をした。彼女は楽しそうに、学校での話や友達と遊んだときの話をしていた。
楽しい夜もすぐに更けて僕らは言葉を忘れた。朝川さんは先程までとは打って変わってなにか少し寂しそうな表情をしており、だから僕ははじめて人を抱きしめた。僕の腕に包まれながら彼女は「名前を呼んで」と言う。だから僕が「朝川さん」と呼ぶと、彼女は「下の名前で呼んで。今だけでいいから」と高い声で言う。だから僕が「さくら」と名を呼ぶと彼女はこちらを見上げて少し微笑んだ。彼女の肋の感触が布越しに馴染んでいった。
無邪気な幼女のように可愛らしく眠る彼女を抱きしめ、その白く小さな顔を見つめながら、なんだかずいぶん遠いところまで来たな、なんて思った。
夢を見た。真っ暗で短いその髪を、最後の春風に靡かせる彼女がいた。
濁雲の合間からは朝日が差し込み、冬の冷たい空に小鳥が飛び立つ。その光景は僕と彼女の門出を祝うようだった。
雪合戦をした。彼女は執拗に僕の顔面を狙い、見事に当てるたび、無邪気に笑った。ひたすらに楽しく、僕らは二人して幼少期の自分に戻っているようだった。幼少の頃に実際僕らが出会っていたらどうなっていたのだろう。少しだけそんなことに思いを馳せていた。
二人で雪だるまを作った。底冷えを煽る冷たすぎる空気と雪との対峙の結果、さすが小さめのものしかできなかったが、えらく可愛らしい雪だるまができた。
彼女は本当に楽しそうで、そして勿論僕も楽しかった。
大きな水槽で光を放ちながら優雅に泳ぐ魚は美しく、それに目を輝かせる彼女もまた、なによりも美しかった。
周りは家族連れやカップルが多く、全体が笑顔で包まれていた。でも誰よりも僕らが楽しんでいた。
何気なくピアノのイスに座っては、華麗な指さばきで遊ぶようにピアノを鳴らす。その彼女の様が美しかった。
こんなにずっと楽しくて笑っているのはいつぶりか、もしかしたらはじめてかもしれない。そうしてふいにまた、彼女とずっとこうして生きられたら、なんて思った。
なにも知らない純粋な小動物のように車窓を見つめる彼女の横で、なにも知らない純粋な大動物のように車窓を見つめる僕がいた。
都会のど真ん中にある観覧車に乗った。まもなく夕日が向かい合って座る僕らを見て、彼女の顔の半分が明るいオレンジ色に染まった。まっすぐな夕日に照らされて、ゴンドラの中はドラマのようだった。彼女は窓外の夕日を見やってはそのまま見惚れ、僕はオレンジ色の彼女の横顔に見惚れたのち、同じく窓外の夕日に目をやる。果てのような夕焼けはひたすらに僕らを包んでいた。そしてゴンドラが丁度てっぺんに到達したとき、同時に夕日が消えてゆく。そうして夕焼けもまた夕日の後を追って消えてゆく。太陽を見届けて彼女の方へと向き直ると彼女もこちらを見つめており、直後、彼女は僕の胸に飛び込んできた。彼女がどんな表情をしていたのか、僕には見えなかった。
どうやら僕たちは旅が下手らしかった。あまり調べることもなくこんな遠くまで来たものだから、行きたい場所もあまりわからず、時間もなかった。そうしてそれを彼女に言うと彼女もまた気づいていたらしく、二人で顔を合わせて笑った。ただそれでも、ひたすらに楽しかった。そしてやはりそれが全てなのだと思った。
そうしてその後はひたすらに冬の知らぬ都会の街を歩き回り、面白いものを見つけては二人で笑ってはしゃいだ。
冬の知らぬ都会の街で、僕たちはどこまでも小さかった。ただ、その冬の知らぬ都会の街で、僕たちはどこまでも二人だった。
いつの間にか深い夜に包まれた雪降る厳冬の中を、二人、死に場所を求めひたすらに歩いた。都会の中心部からは少し離れ、もう僕ら以外に人はいなかった。そうして歩きながら二人で一つのイヤホンを片耳につけ、モノクロの道を歩きながらお互いの好きな音楽を順番に聴いては、時折顔を見合わせて笑った。それは永遠のようで、でも夜がもう長くないことも事実だった。
僕らは死に場所を見つけた。それは大きな古びた雑居ビルで、開きっぱなしの錆びた外階段の扉は僕らを死へと誘導するようであった。そうして二人でその長い階段を上ってゆく。先程まで朝川さんは少し疲れた様子だったが、すっかりまた元気になっており、それは死とは程遠い姿に思えた。僕は様々な感情の渦に呑まれながらも、重い足を少しずつ上げていった。階段は思っていたよりも長く、疲れて中々足が上がらなくなった僕に、朝川さんが階段の上から優しく微笑みかけながら手を差し伸べてくる。僕はその強く握ればぼろぼろと崩れ落ちてしまいそうな小さく細い彼女の手を掴む。そうして二人を感じるうちに、渦はなくなっていく。僕はただひたすらに彼女と一緒にいたかった。死んででも彼女と一緒にいたかった。もしかしたらそれは一時の感情なのかもしれない。でもそれもじきに一生になる。そう思った。
上り切った先にある屋上へと続く扉に鍵がかかっていたりするのではないか、もしそれで屋上に入れないようなことがあれば、もう疲労と寒さで変な死に方をしてしまうぞ、という考えは杞憂で、触れると指が凍ってしまうのではないかというくらい冷たくなっていそうなこれまた錆びた鉄扉は、地上の入口同様に開きっぱなしで、死を望む僕らを歓迎しているようだった。
広く暗い雑居ビルの屋上では雪を背に乗せた北風が吹き荒れていたが、そんなもの、もう僕らの敵ではなかった。
そうして僕らは手を繋いで屋上のふちに立つ。そこから二人で地上を見下ろし、思わず二人同時に「たっか」と声を漏らした。そうしてまた顔を見合わせて笑った。目を閉じて大きく息を吸う。厳冬の空気はえらく冷たく、吸うと肺は凍るようであった。そうしてその冷たい空気を吐いて、朝川さんの方を見やる。すると彼女もまた目を閉じて深呼吸をしていた。
不揃いな瑞雪に降られながら、真っ暗な髪を冬夜の冷たい風に靡かせ、すぐに消えてしまう白い息を吐く儚げな彼女のその横顔がひたすらに美しかった。
僕はこの瞬間のために、ここまで生きてきたのかもしれないなと思った。
「夜が明けるよ」
そう言って彼女は僕に微笑んだ。
僕の中に生まれた僅かな躊躇が、僕らを厳冬の中に閉じ込めた。
「やめよっか」
いざ飛び降りようと、消えようと、二人で幸せに死のうとしていたその時、僕のその僅かな躊躇を読み取った彼女がそう言った。暗い寒空の下で彼女は微笑んでいたけれど、すごく悲しそうにも見えた。
僕のせいで、死ねなかった。
迎えるはずのなかった朝が来て、帰りの電車の中で朝川さんは、消え入りそうな声で何度も何度も謝っていた。ずっとずっと、「ごめん」と、「ごめんね」と、泣きそうな声で謝っていた。返す言葉がわからなくて、自分の感情が難しくて、僕も彼女に謝っていた。
もう何度目だろうか、この時を思い出すのは。
もう何度目だろうか、「あの時死んでおけばよかった」と思うのは。
感情から逃げたくて、「あの時あのホテルでヤっとけばなあ」なんて心中で悪態をついてみたけれど、結局自分をさらに嫌いになるだけで、言い表せない感情はそのままだった。
「あの時ああしていれば」
そういう後悔こそが、青春の象徴なのかもしれない。でも青春という言葉で消化できないものもあって、それはもうどうすることもできないんだ。
押し入れを開け、宝箱を開ける。そこにはあの時彼女がくれた、おそろいの小さな熊のぬいぐるみのキーホルダーが入っている。宝と言うにはあまりに複雑なそれをゴミ箱に捨てようとしたけれど、本心では捨てる気など全くなかった。結局俺には捨てられないんだ。
彼女に伝えられなかったことがある。伝えるべきなのかわからなかったし、伝えるべきではないとも思ったし、それは今でもわからないし、それでも伝えたいとも思ったことがある。
あの時、俺が死ぬのを躊躇した理由を、伝えたかった。
俺は結局死にたい理由なんて大してなかったし、漠然とそう思うことはあっても、それ以上に思ったことなんてなかった。ただ大して生きる理由がなかった。それだけだった。でもそれだけの理由でも青春時代特有の幼い衝動さえあれば死を選ぶには充分で、だから本当にちゃんと二人で死のうと思っていた。真剣に死のうと思っていた。だからあの時、まさに飛び降りようとしていたあの時、俺は、やっぱり死にたくないとか、やっぱり死ぬのが怖いとか、生きていたいとか、そんなことを思ったんじゃないんだ。
それは極悪非道な考えで、無責任で、君を深く傷つけるようなことだったのかもしれない。きっとそうだった。期待させるだけさせて地獄に落とすようなものだ。でもそれが俺の中にあった一番の感情だったんだ。
どうすればよかったのか。どうするべきだったのか。今でもわからない。ひたすらに申し訳なくて、でもひたすらに本当の感情で、わからない。いつかまた君に会えたら、伝えていいのだろうか。それもわからない。なにもわからないけれど、その思いが、いざ死のうとした時に気づいた、俺の本心だったんだ。
俺はただ、やっぱり君に生きていてほしいと、そう思ったんだ。




