第四編『残桜』/第三章「秋暮れタイムカプセル」
二月
長く明けぬ冬は憂鬱でしかし迫る春に希望を見出せる心ももうなかった。
古着のジャケットを着込んで部屋を出た。我がボロアパートから徒歩二分程の場所に位置するコンビニで数食分のカップ麺やお菓子を購入して帰路に着く。曇天も見慣れた道もなにもかもが憂鬱へと誘ってきて、すれ違う人全員に当たりたくなる。いつからだろうか、通り魔殺人鬼と自分に重なりを感じるようになったのは。なにもない日々の中ではこの世のほぼ全てのものが敵に思えるが、凶悪であるはずの彼らが敵には思えなかった。勿論彼らの行為が最低最悪で極悪非道だとはわかっているし、当たり前だが、その行為や彼らの存在自体を肯定するつもりなどさらさらなく、筆舌に尽くし難いような深い憎悪や怒りを抱くばかりだ。なにがあっても絶対に許されてはいけない行為且つ者たちであり、そもそも許す許さないの土俵にすら立てないような酷すぎる行為且つ者たちだ。しかし事実として、絶望から無差別に人を殺す者たちと自分の違いは、行動に起こしているかどうか、ただそれだけだった。勿論それが非常に大きな違いであることはわかっているが、それでも彼らとの重なりを感じずにはいられず、そしてその重なりに絶望のようなものを覚え、ひたすらに気持ち悪くなるばかり。
誰も殺さずに帰宅し、『どてら』というインターネット配信者の生配信を見ながらカップそばを食べた。彼の行っている配信の内容は間違っても社会的に正しいとは言えないものが多いが、しかしながら彼のその傍若無人な配信が俺にとって唯一と言ってもいいくらいの娯楽であり気休めであるのもまた事実だった。
そうして彼の配信をおかずのように啜るカップそばの慣れ狂った味に対する感情はもうとっくになく、翌日に控えたバイトへの憂鬱を引き摺りながら黙々と食べた。生配信を見終えると部屋はもう暗くなってきており、窓は雲の鈍色に染まっていた。そのありふれた色がなにか懐かしくて、その既視感の正体に気づいたと同時に時間が巻き戻り、俺はあの秋にいた。
いつもの校舎の端で朝川さんが「もう風が涼しいね」なんて言ってこちらを振り向いて少し微笑み、それを合図にするように最後の秋が始まった。
文化祭の日、体育館にて朝川さんの所属している演劇部の上演があるということで、彼女に誘われたこともあり、一人で見に行った。多くの生徒の喧騒の中で肩を窄めるようにしてパイプ椅子に座り、なにか落ち着かないまま始まりを待つ。じきにアナウンスが流れ、幕が開いた。
ライトで明るく照らされた光る舞台には一人の可愛い少女の姿があった。朝川さんだ。そうして彼女の可愛らしい声が体育館に響く。明るい舞台で主演を務める、その頼もしく美しく生き生きと輝く彼女の姿を見て俺は、どういう感情なのか、なんだか泣きそうになっていた。
そうして物語は進み、ラスト、暗くなった舞台の中央で主演を務める朝川さんが最後の言葉を発する。
「夜が明けるよ」
すると舞台はまた光り輝いた。その言葉は一番後ろの暗がりに座る俺までハッキリと届き、まるで耳もとで、俺に向けて言われたかのようだった。そうしてその言葉が、スッと俺の中に入り込むのがわかった。
その後、俺がいつもの校舎の端でボーっとしていると、少し汗ばんだ朝川さんがやってきた。俺は彼女に「めっちゃ良かった、なんていうか、良かった」と興奮気味に語彙力皆無で感想を言うと彼女はまた可愛らしくいっぱいに笑った。そうして彼女は俺の横に座り、文化祭の喧騒を背に二人、またいつものようにたわいもないことを話していた。俺はなんとなく、こういうのが一生の思い出になるんだろうなと、そう思った。
そうしてしばらく話した後、俺が一応ながら写真部に所属していた関係で、部の展示に写真を出していると話すと、彼女が「見たい」と言ってくれたものだから二人で展示のある教室へと行った。
人気がないのかそこには俺と彼女の二人だけしかいなかった。ちゃんとしたカメラで撮ったであろう他の部員の綺麗な写真が並ぶ中に、俺が春に学校で撮った、鈍色の明かりが差し込む暗く寂しげな教室の写真があった。その携帯で咄嗟に撮っただけの俺の写真はやはり少し浮いており、言ってしまえばチープでショボかった。しかし彼女は俺のその写真を見て、「すごく良い、好き」なんて言って見惚れて動かなくなった。そうして俺はその横顔に見惚れながら、「もう少しでこの横顔も見られなくなるんだもんな」なんて思っていた。すると彼女はその大きな瞳でなおも俺の写真をじっと見ながら、「これって展示終わったらどうするの?」と訊いてきたので、「額縁はどっかに仕舞うと思うけど写真はわかんない。ただの印刷だし捨てるんじゃないかな」と返答する。すると彼女はようやくこちらを見て、「もし捨てたりするなら私が貰っていい?」と言ってきた。「そんなに気に入ったの?」なんて俺が冗談っぽくニヤニヤしながら言うと彼女は少し笑って頷いた。俺はそれがどうしても嬉しくて、ただただ本当に嬉しかった。
そうして文化祭は幕を閉じ、俺はその写真を彼女に渡した。彼女は喜んで、折り畳まないようにとクリアファイルに綺麗に入れ、俺の顔を見ては、まるで欲しかったおもちゃを買ってもらった小さな女の子のように可愛らしく笑った。
校舎の端で晩秋の冷たい風を肌で浴び、今が永遠に続いてくれなんて、そんなありきたりなことを思っていた。そうして色々な思いを胸にしているうちに、寒波に押し出されるように最後の秋は去っていった。彼女のその白い肌は秋によく似合っていた。
終わりの接近を告げる秋の中には、ゆく先を示す彼女がいた。
あの娘は今もあの寂しげな教室の写真を持っているのだろうか。そんな馬鹿馬鹿しいことを思い、やはりなんだかどうしようもなくなってしまった。彼女のあの表情や言葉が嬉しくて、のちにそれだけで「写真家になろう」と夢を決めてこんなところまで来てしまった当時の自分が情けなくて、でもなんだか羨ましくもあった。過去のなにもない自分が、今のなにもない自分からはすごく輝いて見えた。あの日々は鈍色などでなく、間違いなく青色だったと、ひたすらに思う。過去はすごい速さで広がってゆく。俺はそれをただ、眺めることしかできない。
いつの間にか眠り、いつの間にか朝で、いつの間にかバイトへと向かっていた。真冬の朝空と、現れてはすぐに消えてゆく白い息と、そして胸に入る厳冬の冷たい空気は、あの日々を幻のように思わせた。はて、あの日々は本当にあったのだろうか。夢だったのではないか。ひたすらにそんなことを思った。
充満する憂鬱の取り除き方を知らぬまま、時は過ぎ去ってゆく。
鉄塔の向こうからは朝日が差し込み、冬の澄んだ空に小鳥が飛び立つ。その光景に私はいつまで眉を顰め続けるのか。




