第四編『残桜』/第一章「冬眠」
二〇三二年十二月
金なし、友なし、女なし、夢なし、希望なしの自他共に認める人類の底辺を街灯は定期的に照らし、すぐに見逃していく。視界に少々の邪魔をしたのち謝罪もなく消え去っていく白い息は傲慢で、バイトを辞めていよいよ職もなしになってしまったことによる焦りも相まってか、闇の中では苛立ちが膨張しているばかりだった。
バイト先の常連客の一人で、春林さんというロングヘアがよく似合う綺麗な女性のお客さんがいた。名前は同僚らしき人と来ていたときにそう呼ばれていたのでそれで知った。なにもない日々の中では現実に存在しないものばかりが躍動する。彼女なら俺の童貞を颯爽と奪い去ってくれるかもしれないという非現実的妄想もまた同様であった。しかし心のどこかでは「どうせ無理」と吐き捨てる己がいて、彼女に対してなんらかのアピールなどをするという選択肢は浮かぶこともないまま日々は過ぎ、そうしているうちに先日彼女が男と来店した。繋いだ手や身体の密着度からするに彼女とその男はどう見ても恋人かそれに近いなにかのようだった。なんだか現実に苛立って、だからバイトを辞めた。
そうして警察から職務質問を受けないのが不思議なくらい晴れぬ顔をしたまま歩いていると綺麗な女性とすれ違う。良い香りを感じたと同時になにかの音が下で鳴る。音を追いかけて下を見やるとそこには開いた財布が落ちており、「竹野 咲子」という綺麗な名前が記された免許証が見えた。俺は少し迷いながらもそれを拾い、その女性に声をかけてそれを渡すと、彼女は優しい笑みでこちらに礼を言ってそれを受け取り、夜の中へと去っていく。そうして彼女の後ろ姿を眺めていると、彼女の奥にいた身長百八十センチ以上はあるであろう大男がこちらに手を振ってきた。あんなでっかい知り合い俺にいただろうか?そもそも俺に知り合いと呼べる人なんていただろうか?と首を傾げていると、目の前で背を向け歩いている先程の咲子という名のおなごがその男に向けて手を振り返し始め、じきに二人は手を繋いで去っていった。何故幸せな者たちのために俺が動かなければならないのか。それがまた苛立ちを沸騰させ、舌打ちをしながら俺はまた歩き始めた。
思えばもうしばらく人を好きになっていないなと思った。恋愛感情であれなんであれ、本当に人を好きになったことが、高校を卒業して以来、一度もない。春林という常連客に対しての感情も、先程の咲子という名のおなごに一瞬だけ抱いた感情も、それは「好き」などという感情ではまるでなく、いわばただのしょうもない下心であった。上京してきてからずっとこうである。しかもその下心が実際に満たされた例は現在に至るまで一度としてない。時折下心を抱いては全くもってなにもないまま、そもそもなにかをしようとすらしないまま捨てる。そんな日々である。そうして考えてみると、そもそも今の生活の中に「好き」という感情自体がほとんど見当たらなかった。住み慣れた街も、行き慣れたコンビニも、全てが憂鬱の材料だ。
そんなことを考えて憂鬱をさらに膨張させるという自傷行為のようなものを繰り広げながら歩いていると、じきに我がボロアパートに辿り着き、俺はコートを脱ぎ捨て、そのまま倒れ込むように布団に沈んだ。
あの娘の夢を見た。彼女はやはりあの校舎の端で、その綺麗なショートヘアを風に靡かせていた。
目が覚めると窓はまだ色を変えておらず、夜明け前であった。そうして身体を起こす気力もなく、天井の木目と目を合わせているとなにか目が疲れ、もう一度瞼を閉じるとそこは何年も前のあの春だった。
高校に入って二年が経ち、ついに三年生に進級したが、結局恋人どころか友の一人すらできないまま所謂青春時代とやらは終わっていくように思えた。小中学生の頃はごく少数ながら確かにいた友であるが、別々の高校に入ってまで連絡を取り合うような親密な所謂親友とやらは一人としておらず、学校内どころか学校外にすら友がいない始末。孤高と言えば聞こえはいいが、言い方を変えれば正真正銘のぼっちであった。さらに参ったもので家族とも仲が悪く、家にも居場所がなかった。しかしこればかりは家庭内の事情であるからして他人にとやかく言われる筋合いはないなぞと思ったが、とやかく言ってくれるような人間がまわりにいないのだからその心配も要らぬものであった。
休憩時間、いつも通り、二年もの時間を潰してきたあの校舎の端へと向かった。教室などから少し離れた場所にあるそこは基本的に人が訪れることはなく、時折カップルがイチャイチャしに来ることもあったが、毎日気持ちの悪い顔で独り座り込んでいる俺がいたからか、いつの間にか近寄る者はいなくなった。学校に半プライベート空間があるというのは中々素晴らしいことである。馬鹿どもの喧騒も遠く、一人でしっかりと休憩時間を堪能できる。休憩時間というのだから休憩してなんぼ。休憩もせずに騒いでいる馬鹿どもは間違いなく馬鹿であり馬鹿ならぬわけのない馬鹿である。だからまた俺はいつものその校舎の端へと休憩を堪能しに出向いたのだが、なんたることか珍しく先客がいた。いたいけな新入生が春風に乗る桜の花びらを追って、我が縄張りとはつゆ知らずに来てしまったのであろうか、なぞと鼻を鳴らす。その先客はおなごであったからして、あわよくばお近づきになれるかもなどといった間抜けな感情を胸に抱きつつも、無論声をかける勇気が俺にあるわけがなく、少し離れた位置で彼女に背を向け座った。
それから少しして、俯き座る我が面を誰かが覗き見てきていることに気がついた。俺が顔を上げてその失敬者を見やるとそこには「あ」なぞという声を漏らす小柄のえらく可愛らしいおなごがいた。そのショートヘアを見るに彼女は先程の先客であり、そしてここでようやく彼女がクラスメイトの女子生徒であることに気がついた。「藤水くん?」とはじめて俺の名を言う彼女に対して静かに頷くと、彼女は小さく「体育疲れたね」なんて言って笑った。そして彼女は「これいる?」と言ってレモン味のアメを差し出してきて、俺は小さな声で「あ、ありがとう」と言ってそれを受け取った。青春の象徴のような甘酸っぱいその味は、我が青春のはじまりを示すようだった。
少しの沈黙の後、遠くに見える桜の木を見つめ、「もうすぐ全部散っちゃうね」なんてなにか寂しそうに彼女が言って、はじまりを告げるような清らかな春風が俺の前髪を吹き上げていった。
その日から彼女は頻繁にその校舎の端に訪れるようになり、下の名のとおり桜のような彼女、朝川さんとの小さな青春が幕を開けた。
そうしてすぐに最後の春は儚げに散りゆく桜の後を追うように去っていった。彼女のその白い肌は春によく似合っていた。
穏やかさと爽やかさを運ぶ春の中には、春風を操るあの娘がいた。
瞼の裏の春から戻って現実を見つめる。再び目が合った天井の木目が俺を見下しているように見えて、身体を起こして俯いた。
「恋愛感情であれなんであれ、本当に人を好きになったことが、高校を卒業して以来、一度もない。」と昨日の夜道でふと思ったが、思えばそもそも我が人生で本当に人を好きになったのは、あの頃のあの一回きりだったと、改めて今、気がついた。
我が高校時代の思い出の中でいつまでも隣に居続ける、まるでパッと消えていってしまいそうだった桜のようなあの娘は、今頃何処でどのように生きているのだろうか。夜を嫌わずにあの可愛らしい顔で笑っているだろうか。幸せな笑顔に囲まれて生きているだろうか。そんなことを思った。思うだけ思って寂しくなって、それを紛らわせるために携帯を開き、あの娘と真逆のおなごが乱れる映像にて、極小で酷く皮を被っていて使い物にならないくらい早漏な竿を慰めた。
超短期決戦を終え、また陰鬱が立ち込め、ひたすら項垂れているうちに、部屋の窓も白くなっていた。
少しして冬の冷徹な寒さに参り、また毛布に包まって布団に背中を沈めた。楽しいことも面白いことも嬉しいこともなにもない日々の陰鬱さが染みついた薄暗く静寂な部屋でなにもせずにただ虚空をぼんやりと眺める俺に吹く風はなく、冷たい心底では僅かに絶望を孕みながらももはやほぼ無感情な死への望みが澱んでいる。しかしそれでも次のバイトを探さねばと理由もなくぼんやりと思っている己がいて、薄白い溜め息が少し現れてはすぐに消え、さらに孤独を煽るその様に静かな苛立ちのようなものを感じながらもなにか憧れを抱く。嗚呼、冬の空気に私も消えたい。
憂鬱が地に我が背中を縫い付けたようで気力は一向に現れず、なにもしないまま時間はどろどろと流れ、また夜が来て、またあの娘の夢を見た。




