いらない聖女
首都圏から電車で二時間程の距離にある地方都市、そこには仲の良い夫婦が営む人気の家庭料理店があった。 福永裕香はその家に生まれ育った現在二十歳の娘である。とはいえ彼女は地元の高校を卒業した後に東京の調理専門学校へと進学し、そのまま都会での就職も決まっている。幼い頃から店の手伝いをしていたことから、彼女の夢は小学生の頃から一度も揺らぐことなく「実家の店を継ぐこと」であった。
誕生日やクリスマス等イベントの度に父親はテーブルに乗り切らない程のご馳走を作り、人懐っこい笑顔の母親は常連客にも人気で、明るい笑い声がいつも店中に響いていた。
学校卒業後にそのまま実家へ帰ると伝えた裕香に対し、「若いうちに広い世界を見て色々な経験を積んで来なさい」と諭したのは母親であった。まだ両親は十分に若く健康であったし、他の店で修行を積むことはいずれ実家の店を盛り立てる役にも立つだろうと裕香も納得をした。優秀な成績を収めていた彼女を学校側も推薦し、三つ星を頂くレストランでの就職が内定した。
卒業式を終え、裕香は一度実家へ帰り、両親と祝いの食事会をする予定であった。父親の誕生日も近い為、贈り物には奮発して名入れを頼んだ包丁も用意してある。大きな荷物を両手に抱え、しかしその顔には楽しそうな笑顔を浮かべてターミナル駅へと向かうその道中。
裕香の足元の地面が眩しく光り、膝が抜けたようにぐにゃりとしゃがみ込んだ彼女は、そのまま霧散するように──この世界から、消えた。
「──ですから聖女様。聖女様がこちらの世界で生涯を全うされた後には、きちんと元の世界にお返し致しますので」
「私が死ぬまでってことでしょう?! おばあちゃんになる頃には何もかも忘れてるかもしれないじゃない! それじゃ意味ないのよ!!」
「問題ないよ〜聖女様。ちゃんと時間も元の位置に戻すからさ!」
「じゃあ私がここで暮らした記憶は消えるの? なかったことになるの?」
「……それはおそらく、消えないのではないかな。正確なことは言えないけれど」
「……常連さんの顔も忘れてるかもしれないわ。お父さんの塩加減も、先生たちから学んだ知識や技術も。それじゃ……それじゃ、意味ないのよ」
「……聖女様……」
眩しい光に包まれて咄嗟に目を閉じ頭を抱えた私が、再びそっと目を開いてみたら──もうそこは全く知らない場所であった。
石造りの冷たい床に座り込む私の周りには、金髪碧眼の細身で格好良い王子様に、銀の長髪で神秘的な紫の目をした神官長。青い髪を後ろで一つに括り、金色の目を猫のように細めて笑う魔術師長が並んで立っている。
彼らは揃って私を歓迎する言葉を紡ぎ、驚くべきことに魔法を使って私をこの世界へ召喚したのだと言う。そしてにこにこと笑いながら告げたのだ。「聖女様はこの世界で幸せに暮らしてくれたらそれだけで良い」のだと。
召喚された私は、身一つの状態であった。両手に抱えていたはずの荷物も、父への贈り物も、スマートフォンも何もかも消えてなくなっていて。唯一身に着けていたスーツでさえ、こんなに足を出すのはこの世界でははしたないのでと早々に取り上げられてしまった。
与えられた広く豪奢な部屋の中、私はひたすらに泣いた。目が腫れても、喉が枯れても、悔しくて悲しくて寂しくて泣き続けた。
王太子や神官長、魔術師長達はしばしば部屋を訪れては、何やら言葉をかけてくる。
「うるさいっ、出て行ってよこの誘拐犯!!」
見舞いの花はサイドテーブルに飾られて、そして乾いてぱらぱらと朽ちた。
何度か花の色が入れ替えられた頃。泣き疲れて頭もぼーっとする中でぼんやりと周囲を見渡すと、お手伝いの女性がワゴンを押して近付いて来ている。
「聖女様、お食事をお持ちしました」
クロッシュを外した中には、ほかほかと湯気を立てる白くとろりとしたスープのようなものが入っていて。
「……お母さんのお粥……」
我が家では父がプロの料理人であることもあり、ほとんどの食事を父が用意していたのだけれど。病気の時のお粥だけは、母が作ってくれたのだ。私はそれがとても好きだった。
『美味しいものは心も身体も癒すのよ。貴女も愛を込めて、誰かの気持ちに届くような、温かい料理を作れるようになると良いわね』
早く治すのよ、と撫でてくれる母の柔らかな手が好きだった。
久しぶりに意思を持ってスプーンを手にし、差し出されたその料理を掬い口元へ運ぶ。
掬った感触でも、顔に近づけた時の匂いでも薄々勘付いていた。そして口に含んで、思う。
なんて不味いのだろうか──と。見た目はこんなに似ているのに……。
そもそもこの世界の食事は私の口に合わなかった。材料はほとんど違わないのに、スパイスの使い方なのか出汁の種類なのか、どうにも美味しいと思えないのだ。食事の概念も違っているのか、いかに少量で必要な栄養を摂取できるかといった生命維持的な意図が強いように思う。
「私がこの世界で、温かくて美味しい料理を作れるかな……?」
いつかもう一度実家へ帰り、両親に会っても誇れるような。
涙はもう枯れてしまった。世界を安定させるために、聖女は幸せに暮らさなければならないらしい。それならば、私はこの世界でも料理を作りたいと思った。
「あの、王太子殿下達に会えますか?」
「え……と、しばらくは、難しいかと……」
お手伝いの女性は視線を逸らしながら言った。そういえば前回の花が枯れ落ちてから、しばらく彼らの姿を見かけていなかった。
◇
いい加減に凝り固まった身体をほぐす為、城内をそぞろ歩く。そんな私に気付くことなく、忙しそうに働く使用人の女性達が囁く噂話が聞こえてきた。
──新しい聖女様がもう一人現れた、と。
初めて見た庭園は豪華で、華やかだった。中心にはテーブルが据えられ、久しぶりに見る金髪碧眼の王子様と、銀髪の神官長と青髪の魔術師長が座っている。そしてもうひとり、ピンク色のドレスを着た小柄で可愛らしい黒髪黒目の女の子も。
声は聞こえない。少女の大きな身振り手振りに、皆が楽しそうに笑っている。何の話の流れか、王太子が彼女の手を優しく捕まえると軽く口付けた。
俯き自分の手のひらを広げてみる。酷かったあかぎれは数ヶ月の間にだいぶ良くなっているけれど、度重なる火傷でついた痣や切り傷はこれ以上癒えることはないだろう。
「……っ」
この手を。温かい料理を生み出すこの手を、他でもない自分自身が恥じたことに、心が悲鳴を上げた。
『生涯を全うされた後には、きちんと元の世界にお返し致します』
ではもう、いらないのではないか。
果物に添えられた小さなナイフ。窓の下に見える遠い地面。用意されたドレスの腰に巻かれた長いリボン。それらを見つめる私を、使用人達は気味悪そうに遠巻きにして見ていた。
自分のことは自分で出来るからと彼女達の手伝いを断り、最低限の出入りしか無くなった頃。どうやら食事を持ってくるのも忘れられたようで、流石にお腹が減った私はふらふらと厨房へ向かった。
時間は外れており、中に人の気配はない。そっと踏み込めば、見慣れた食材と調理器具が並んでいる。
怒られるかもしれないが、食事を忘れたそちらも悪いだろう。私はここに召喚されてから初めて、久しぶりに料理を作った。
「──はっ、ふ、あつ……おいし……」
涙が流れた。
材料は同じなのだ。調味料は多少心許ないが、それでも不味いものにはならなかった。温かくて、懐かしくて。やっぱり私は料理を作るのが好きなのだと思う。手が荒れても、もう決して恥じたりしない。
夢中で食べ進めていた私の背後で、かたりと音が鳴った。振り返ると、そこにいたのは。
「──あっ、ごめんなさい! すごく美味しそうな匂いがして、つい見に来ちゃいました!」
新しい聖女様だった。
「この世界のご飯って私がいたところのとは全然違って、正直あまり口に合わなくて! 久しぶりに私の世界のご飯と似たものに会えました!」
美味しい美味しいと笑いながら、私が作ったご飯を食べる聖女様は、とても可愛らしい。
屈託なく自分のことを話す彼女はどうやらネグレクトに近い扱いを受けてきたらしく、日本ではもっぱら食事は買い食いだったのだという。
「こんなに温かくて優しい味のご飯、初めて食べました!」
「……それは、良かったです」
私に出来ることがあって。
◇
「聖女様方っていつの間に仲良くなってたんだろうねー?」
「こっちの聖女様なんて、ずっと引きこもってたのにねえ」
掃除用の道具を抱えて、使用人の女性達が貴賓室の扉を叩く。返事がないのでまた寝室で篭っているのかと、静かに扉を開けた。
「──失礼致します、聖女様。お掃除に参りました──聖女、様?」
そこにあったのは、血まみれになった床と、空っぽの部屋で。急ぎ上司に報告を上げると、しばらくして王太子殿下達が駆け込んで来た。
「これは──」
「……聖女様、帰っちゃったの、かな?」
「生涯を、終えられたのか……」
主人のいなくなった部屋を見渡すと、机の上に一冊のノートが残されていた。
どうやら聖女様の国の言葉らしく、内容は分からない。几帳面に詰められた文字と、所々に挿絵も入っている。その様子からして、どうやら料理のレシピのようだ。
「なぜ、こんなものを……」
どちらにしても、この国の者にこれを読み解くことは出来ない。
最近急に知り合い、親しくしていたと言う新しい聖女様にノートを託す。「彼女は急遽他国へ行くことになりました」と偽って。
それ以降、新しい聖女様は慣れない手つきで厨房に立ち、ノートを大事そうにめくりながらせっせと料理を作っている。最初の頃のような、朗らかな笑い声は上げなくなってしまった。
あのノートの中に何か書いてあったのだろうか? 最初の聖女様は、召喚時からずっと不満げであったから。こんなことならあのノートも渡さなければ良かったのかもしれない。
「無理しなくてもいいんだよ〜? 食事なんて、使用人が作るんだからさ〜」
「そうですよ。聖女様は不慣れなようですし」
「…………とも」
「ん? なんだい?」
「あの人も、聖女だったじゃない……」
新しい聖女様は、下唇を噛み締めて俯いていた。
◇
知らなかったのだ。華やかなドレスを与えられた自分とは違い、地味な服を着て厨房にいた女性も、召喚された聖女だったなんて。
日本での悲惨な暮らしの話をすれば、大変だったんですねと眉を下げて。こちらに呼ばれてからの幸せな暮らしの話をすれば、良かったですねと口角を上げて。そのどちらの時も、何故か少しだけ悲しそうな人だった。
渡されたノートには、素人でも作りやすく材料も揃いやすいレシピが丁寧に纏められていた。
『美味しい料理は心も身体も癒すものですから』
私の心を癒してくれた彼女の心は、今他国で癒されているのだろうか。
私が来たから、居場所を失ったであろう聖女様。
いつか再び帰る時、このノートは持って行けないだろう。だからこそ、この身に覚えておきたいと願う。
「もし私がここに来なかったら……」
──彼女は今でも聖女としてこの国に残っていたのだろうか。