第九話「フラッシュバック」
襲撃から一日――アクスのアンデッド・ライフが始まってからは、三日が経っていた。
そして、ユロが眠っていた日数が二日。昨日気付くまでまるまる二日間、眠っていたことを話したら、ユロは理不尽にぶち切れた。
「どうして、起こしてくれなかったワケ?」
オレはお前のお母さんか? 寝坊じゃないんだから。
「二日も損したじゃない。アンタ、バカなの? 乙女の二日は、アンタの一生より貴重なんだから。乙女二日会わざれば斜め四五度から見よ、――って昔から言うじゃない。ホント役に立たないわねっ!!」
まったく意味不明だし、そんな格言、聞いたこともない。
見た目はダントツに可愛いのだが、気が強くてわがままで自己中だ。世話がやける。
子供の頃、オレを見るとやたらと無意味に吠える犬が近所にいた。オレ以外には、人懐こく尻尾と愛想を振っていたが、オレにだけは牙をむいて、無意味に吠えまくる。その小憎たらしい犬はパピヨンで、ツインテールをしたユロを見てると、どうでもいいのだが、そいつを思い出す。
今朝も早くから、無意味にキャンキャンと吠えている。
「何、ムダなことしてんのよ? ナンセンスよ、絶対ナンセンスだわ」
黒い地味なローブ。ツインテール。左腕には相変わらずぐるぐる巻きの包帯。
「腹が減ってんだから、仕方ないだろ」
朝食くらいゆっくりと摂らせてもらいたいものだ。
ここはサラテール・シティのとある宿屋のとある食堂。客は隅っこに、朝からイチャつくうっとおしいバカップルが一組と、黙々と新聞を読み耽りながら、スクランブルエッグをフォークでつつく男性客が一人いるだけだった。
アクスはカゴのパンをひっつかんで、千切って口に放り込んだ。二人のテーブルには、バターロールを入れたカゴと、牛乳、目玉焼きとベーコンを乗せた皿が置かれていた。バターロールは食べ放題。スクランブルエッグか目玉焼きかは、選べるサービスだった。アクスもユロもスクランブルエッグは、あのなんとも言えないぐちゅぐちゅ感が好きになれなかった。当然、目玉焼きもカリカリ焼き過ぎがちょうどいい。半熟なんてあり得ない派だ。その点では、二人は気が合っていた。
「アンタ、死んでんのよ。食べなくったって平気なんだから。もったいないでしょうが」
また無茶苦茶なことを言ってくる。
「そういう問題じゃない。死んでても、本能的欲求は我慢できないもんなの」
カリカリベーコンをしゃくしゃくと咀嚼しつつ、心持ち満足気なアクス。
「顔がムカツク。理由は幸せそうだから」
「からむなよ」
と、アクスはフォークを振った。指先はまだ紫瘴化の影響を残し変色していた。しかし、肩口、頬、左腕、脇腹の傷は、きれいさっぱり跡も残らず、すっかり癒えていた。
それというのも昨日――――
サラテール・シティに入る前のことだ。遠くに肉眼でも、街並みが見えるようになってきたときのことだった。
「追手の気配もない。ここまで来れば一安心だろう」
閑散とした街道脇に、大きな楢の木があった。
引き寄せられるように、アクスはその楢の木の前に腰を下ろした。ユロも近くの切株にちょこんと座った。
アクスは立てた膝の上に両腕を投げ出し、うな垂れる。刺さったままのナイフが痛々しかった。
青々と茂った緑の枝葉。その隙間から、穏やかな木漏れ日が射す。心地いい春の風が吹いていた。
しばらくアクスはうな垂れたまま、動かなかった。
ユロはつと不安になって、声を掛けた。
「アゼザル……?」
「アクスだ」
無愛想な声が返ってきたのに、なぜかほっとした。自分でもよくわからないが、それがなんだかムカついた。
「ああ、もう!! アンタはその格好で街に入る気?」
いつもの居丈高な調子で、腰に手を当ててユロが喚いた。髪をばっさばっさ掻き上げて。
街とは、サラテール・シティのことだ。サラテール・シティは、優雅にたゆたう二本の大河、セーズとレーヌを東西に、豊かなアリアド山系を北に抱え、上質な木材が採れる林業が盛んな街だ。かつては東西に伸びる二本の川の便を活かして、古くから上質なオーク材を、大陸の各地へと供給し、発展してきた。現在では専ら水路より、鉄道による陸路輸送が主流であるが。サラテール・オークと言えば、高級酒の樽や嫁入り箪笥に広く利用され、木材の高級ブランドとして有名だった。人口は四十五万人を超えるレアオーン公国第五の都市だ。アリアド山系の端っこにあったあんなしょぼい村とは訳が違う。司法機関も各所に備え、警察組織も大規模で、非常に治安がいい。今朝のようなあんなハデな騒ぎを起こせば、間違いなくすぐに警察が飛んでくる。それは襲撃者側も望むところではないだろう。そう考え、二人は一旦サラテール・シティに行くことに決めた。
が、ナイフが突き刺さり、血まみれなアクスの格好を見れば、これはこれで警察の方々が早速飛んできて、速攻で迷惑ごとに巻き込まれるのは必至である。
「そう大声出すなって……傷に響く。人目に付かないようにすぐに医者を探す」
煩わしそうに、アクスはうな垂れたまま、そう答えた。
「バカじゃないの。死人が医者に掛かってどうすんのよ?」
人の痛みも知らないで。誰のためにこの痛みに耐えてると思ってるんだ。ちょっとムッときて、何か言ってやろうと、重たい頭を上げると、ちょうどはにかんだ様子のユロが、
「みみ、見せてみなさいよ。ア、アタシが治してあげるわよ。勘違いしないでよ。医者に行ったらお金がかかるから。路銀少ないんでしょ?」
アクスは苦笑する。まったく素直じゃない。
「な、なに笑ってんのよ!」
「いや。じゃあ、頼むわ」
「まかせて」
とびっきりの笑顔を見せて、ユロはアクスの傍に駆け寄った。
「いてぇ! もっと優しく」
ものすごく雑に刺さったナイフを抜去するユロ。まずは左腕の治療に取り掛かった。
「これくらいアンデッドなら我慢しなさい」
傷口に手の平をかざし、呪文を唱え始めた。低くぼそぼそと何かを呟いている。可愛く動くその唇の方が気になって、内容はちっとも耳に入ってこなかった。
けど、効果てき面である。見る見るうちに傷は塞がり、完全に痛みも消えたのだった。同様に他の傷も次々と治していった。
「紫瘴化は治せないみたい」
「こいつは放っといても半日もありゃあ治る。十分だ。助かった」
「静かなトコで落ち着いてやれば、これくらいはね」
「すげぇな。自分の膝も治しとけよ」
ガラスで切ったのか、ユロの膝には五センチほどの裂傷があった。ユロはあわてて、ローブの裾で膝を隠した。
「アタシはいいの」
「いいわけないだろ。さっさと治せよ」
「いいったら、いいの!」
「なにムキになってんだよ。バカなこと言ってないで」
「ほっといて」
「ほっとけるかよ」
「だって……治せないんだから。自分は」
「そうなのか。だったら早く言えよ。ほら、さっさと足出せ」
「えっ?」
「えっ、じゃねぇよ。止血すっから」
と、アクスはシャツの割りあい綺麗な部分を破って、ユロの足を取り、傷口の汚れを丁寧に拭ってやる。
「あ、ありがと」
「お互い様だろ。うん? どうかしたか? 痛かったか?」
不意に黙りこくって俯いたユロに声を掛けると、
「……本当は、アタシってば、………………魔術師としてもかなり非力なんだ」
思いがけずそんなことを言い出した。アクスは彼女の太ももを、さらに裂いたシャツで強く縛りながら、黙って耳を傾ける。
「自分も治すこともできなくてね。……まして、あんなヤツらに襲われても、ロクに戦う魔術ひとつ持ってないのよ、コレが。軽く死霊術が使える程度。ま、それも授かり物の力なんだけど。自分じゃ何一つどうすることもできないのよね。笑っちゃうでしょ?
あの子たちを、イリメラとシシリーを救うと約束したのに……」
ぎゅっと握り締めている小さな手。太ももの上に置いたその甲に、涙の雫がこぼれた。
あえてアクスは顔を上げず、黙々と彼女の膝に包帯代わりの布を巻いていく。
今まで堪えてきたものが、堰を切ったように溢れ出した。
「助ける……っことができ……なかった……どうする……ことも……っ」
左頬を涙が伝う。声がうわずる。
しゃくりあげる小さな嗚咽がしばらく続いて――
「今もまだあの子たちは苦しんでるのに。暗い闇の中で、アタシが助けに来るのをずっとずっと待ってるのに。なのにアタシは何もしてあげられない。
っ……ホント、アタシは無力……ひとりじゃ何もできない……どうしようもない……だけど! それでも!! イリメラとシシリーを助けたいのよ……っ!!」
狂おしいまでに純粋な願いに、釣り合わない己の無力さを嘆く。それでも、這うようにでも、前へ進もうとしてるからこそ、彼女は苦悩するのだ。
「どうして、アタシはこんなにも無力なのっ!!」
ドクンッ!! 激しくアクスの胸が波打った。心臓は止まってるはずなのに。前にもこの感覚には覚えがあった。
意識、感情、記憶、想い。そうか。オレのじゃなく、これはユロの……
核石を透過して、アクスの心にユロの想いが直接流れ込む。そして、脳には過去の記憶が映し出される。まさにフラッシュバックのように。