第六話「ロア・パブリックの四人」
聖府ベルネチア――正式名称ベルネチア市国は、ロンベルク聖教ロア・パブリック教会最大の庇護者である代々の『統王』が統治するユリティース王国に囲まれ、その南東に位置する。
森の小都と謳われるほど、国土のほとんどは森に覆われる緑豊かな最小国。その国境はすべてユリティース王国に接しており、ユリティース王国の一都市が独立した形の、大陸最小の主権国家であった。
そこは、大陸三千万人の信徒を抱えるロンベルク聖教ロア・パブリック教会の中心地。ロア・パブリック教徒の最高指導者『教皇』ブロプレス一六世が座する教皇庁と、教義の深い歴史を誇る聖リアノ大聖堂がある。
裏を返せば、特にこれといった名産品もなく、大聖堂だけしか観光できるスポットもなく、外貨獲得に強い経済地盤があるわけでもないと言える。またユリティース王国ともども大陸政府に加盟しておらず、人口もわずかに一万人足らずでしかない。しかしながら、聖府ベルネチアには古くより絶大なる力があった。宗教という名の強大な権威そのものの力。
その力の象徴――教皇庁。濃い森の奥深く、国土の中央に建つ等辺六芒星を象った建物。六芒星の各頂点には、一際高い尖塔を配し、それぞれから長い回廊が中心――豪奢な白亜の建物に向かって伸びている。その佇まいはまるで、中世の王侯貴族の居城のようである。
そんな教皇庁のとある一室。
滑らかな光沢ある黒塗りのデスクには、埃一つない。デスク上のペン立ては、立つ向きと角度ともに、筏のようにきっちりと揃えられている。書棚の本は、ジャンル大きさ作者ごとに整然と並べられており、それらからは、この部屋の主の几帳面な性格が垣間見える。
背もたれがやけに長い、高級そうな革張りのアームチェアに、この部屋の主――レシア・フレーディアは埋もれるように腰掛けていた。まさに埋もれるの形容に相応しい、ちっこいレシアにおっきなアームチェアは、まったくもって不似合の一言だった。
しかし、当の本人はそんなことは気にもしていない。一心不乱に手元の書類に目を落としていた。
レシアはしわ一つない緋色の司祭服を着ていた。デスクの脇には、黄色の十字の入った緋色の宝冠が、きちんと畳まれて置かれている。これはタチの悪いイタズラであろうか?
前髪と肩にかかる後ろ髪を、定規で引いたように正確に、真っ直ぐ切り揃えたぱっつんぱっつんの子供が、教皇に次ぐ聖職者である枢機卿にのみ許された、緋色の司祭服を纏っているではないか。彼女はどう見ても十歳前後にしか見えない。なのに枢機卿である。
だが、それには理由がある。それというのも、彼女が世界でも希少な魔導師の一人であると共に、その知識によるところが大きい。
先程からページをめくる音だけが、部屋には響いていた。
しゃーっ、しゃーっ、しゃーっ……。
最後のページをめくり終えたその時、コンコン。ノックがして、ドアが開いた。
「そろそろ呼ばれる頃かと思って、自ら出頭して参りました。てへっ」
レシアはかくんっとその童顔を上げた。
見ると、こめかみを軽く小突く仕草にウィンクをして、首をかしげる巨乳の女が、デスクの前に立っていた。服装には無頓着なのか、紫のシャツにジーンズ、長年履き古した紐靴。抜群のスタイルとシャープに美しい顔立ちには、どこか不釣り合いな感じを受ける服装をした巨乳の女だ。
「……アリア、血迷った?」
しわがれた大人びた声。
「きつねっぽいきつ目の顔した私が、可愛い子ぶりっ子をするというギャップ作戦よ」
「意味がわからない」
「アホは放っておきなはれ。脳に行く前に、栄養が全部、乳に取られとうねん」
フェイ・ラオが口を挟んだ。黒いロングコートに、目を引くホウキのように逆立てた髪。ショルダーベルトを右袈裟に掛けて、背に長槍を背負っている。
「アホにアホって言われたくないわ。あんたこそ栄養が脳ミソ、素通りして毛根に根こそぎ取られてんじゃないの? 髪のボリュームも伸びる早さもおかしいわよ。変よ。近いうちに力尽きてハゲるクチね」
アリア・シュテルは、はちきれんばかりの巨乳をゆっさゆっさと揺らして、一気にまくしたてた。
「ハゲへんわ、アホンダラ!! エターナルふっさふっさや!」
「はんっ。貧弱なボキャブラリーだね」
「なんやとぉ!?」
「まぁまぁ、二人とも落ち着いて下さい。ここは枢機卿のお部屋ですよ」
と、また一人、話に割ってくる。フィガー・フィル・ファディアスだ。長い髪を後ろ手に束ねた、スラリとした美女。なぜか両側にスリットの入った長衣に、ズボンといった男装の麗人だ。
「脳足りん女は黙っとけ!!」
「そうよ。胸もない、中途半端のつるぺた美女のくせに!!」
「………………つるぺた」
ひとりレシアは変なところに反応した。自分の胸とアリアの胸を見比べる。
「脳足りん女だの、美女だの。言っていいことと悪いことがあります……怨鎖三式、開錠」
「ヤッバ……キレちゃった?」
「ちょ、待たんかい?! 教皇庁内での魔装開錠はシャレにならんで!?」
「――どうすんのさぁ? 本気のアホがキレちゃったわよ」
「ほんまシャレにならんって。フィガー、やめんかい!!」
「落ち着いて。とにかく落ち着いて、フィガー」
「そや。落ち着けって。魔装なんて開錠したら、痛い痛いだけやで、なっ。やめとけって」
二人の慌てふためきようを尻目に、
「………………つるぺた」
レシアは抑えたり、持ち上げてみようとしたり、寄せてみたり、執拗に胸を気にしていた。
フィガーの両足から風が巻き起こる。金具の付いた複数の黒いベルトで拘束された尖ったブーツ。それがフィガーの魔装であった。
「翔けろ、双墜の風鷲ダーダネルス!! 魔弾……」
「フィガー、やめて。部屋が散らかるから」
風にたなびく書類を押さえて、レシアは無感情に言った。すると、彼女もとい彼の動きがぴたっと止まる。すぐさま直角に身を折って、フィガーは素直に謝った。
「も、申し訳ありません、フレーディア卿」
「はぁ、助かった」
「やーい、やーい、怒られてやんの」
「まったく。はしゃぎ過ぎなのよ。久しぶりにレシアの顔が見れたからって」
「ぼぼぼぼ、ぼくは別に……」
「真っ赤やでぇ、このロリコンレズが。くぬぉくぬぉ」
「ぼくはレズじゃない! 女の子が大好きな正真正銘の男だ! 脳足りん女だの、美女だの、断じて違う! とにかく、ぼくは男だ!!」
「ロリコンは否定しないのね」
アリアのシュールな突っ込み。
フィガーは絶句した。フェイは思いっきり腹を抱えて大爆笑。
そんな三人の掛け合いを、レシアの大きな真ん丸目玉が、静かに見つめていた。
「もういい? オチも付いたことだし」
「はは……オチって」
乾いたフィガーの笑い声が、なんだか物悲しい。フラれる以前に、相手にもされていない。さすがにこの場面では、笑ってはいけない気がしたが、
「くくく……」
「ぷぷぷ……」
必死に堪えようとアリアとフェイは口を押えるも、指の隙間から笑い声が漏れていた。
――――そうだ。いつかこの二人を八つ裂きにしよう。今の今、フィガーは心の底からそう思った。
「報告書は読ませてもらったわ」
レシアは無表情に三人に告げた。
先程まで彼女が目を通していた書類は、先頃発見されたまだ名も無い二十七番目の遺跡に関する調査報告だった。主たる調査内容は、遺跡から出土した七百点に及ぶ遺物に関するものだ。しかし、内容は空っぽに近い。六百点以上の遺物に関し、外観すらも詳細不明とする報告が上げられていた。
健康的にたわわに実った膨らみの前で腕を組んで、アリアはバツが悪そうに、
「いや、警備が厳重でね、列車に載せるわずかなスキしかなくて。ここまで調べるのが、やっとだったんだ。その、なんだ……うまくいかなかった。ごめん、レシア」
「アリアだけのせいじゃありません」
中性的な整った顔を曇らせて、フィガーが追従した。
「命掛けたらもうちょいは調べられたかもしれんが、ヤバイ橋渡ることなるからやめといた。アリアの判断は悪ないで」
仏頂面でフェイはそう続けた。
レシアはきょとんとした表情を浮かべて、三人の主張を聞いていた。
「なんやその顔。不満か?」
「フェイ、君はフレーディア卿に対して……」
「いえ、報告は十分なのに、アリアに謝られて当惑していたの」
「ぷっ。あははははは。ほんっと感情を表情に出さない子だねぇ。可愛い顔してるのに、可愛げがないよ、我らのお姫様は」
セクシーなスパイシーボブを振り乱して、アリアはハデに笑う。連動して大きな胸もハデに揺れた。
「さて、我らが姫は、そのスカスカの報告から何を読み取ったのかな? 聞かせてもらいましょうか。次に私らがやらなきゃならないことを」
「うん。そうね」
と、コクリと頷いて、レシアは立ち上がった。書棚に向かって歩いていき、うんしょ、うんしょと踏み台を用意する。小さいレシアは台の上でさらに背伸びして、一冊の古びた本を手に取った。それをデスクの上に置いて、また大きなアームチェアへと収まった。
赤茶けた表紙には、トンボのような形をした奇妙な十字架を背負う、へそまである長い顎鬚が印象的な、男の絵が描かれていた。本のタイトルは『使徒録アヌス口伝』。
「聖アヌスの伝承じゃないかい」
本に視線を落としたアリアは、今度は胡乱な視線をレシアに向けて、二の句を継ぐ。
「まさか二十七番遺跡は、聖アヌスの殉教地とでも言うんじゃないだろうねぇ?」
「遅れてきた使徒の……?」
「違う。殉教地じゃない」
と、リトルプリンセスは即座に否定した。
しかし、続けてとんでもないことを言い出した。
「けど――――遺跡で見つかった遺物の中に、聖アヌスの聖骸がある可能性が高い」
「なっ!? アホな……!? なんでやねん!! なんでそないなるねん!!」
フェイはデスクを強く叩き付けた。信じられない。
「はてさて、突拍子もないことを口走ってくれるじゃないのさ、お姫様」
「……あのぅ、聖アヌスの聖骸が見つかったからって、何なんですか?」
と、おずおずと手を挙げて、フィガーは場違いな質問をする。大きなタメ息交じりにフェイは、彼の肩に手を回して、
「おのれの顔は皺一つない綺麗な顔やのぅ」
ぷにぷにとフィガーの頬を、人差し指で突っつきながら、
「ついでに脳ミソにも皺一つないときとる。非常に人としては残念な出来やけど、ある意味、なんかホッとするわぁ」
「どういう意味ですか、それ?」
そこはかとなくムッとして、フィガーは聞き返した。フェイは嬉々として答える。
「だってその容姿で人並みの頭あったら、めっちゃモテモテやん。そんなんごっつはらわた煮えくり返るやん。なのにお前ときたら顔が良くても、超ド級のワールドクラスのアホーやさかいな、出会って三秒でボロ出るからモテん。ある意味、なんかホッとするやろ?」
「しません!!」
「……話の続き」
しょうもないやりとりはさておき、レシアは先を促す。
「そやそや、けどちょっと待ってな。このワールドアホーに説明してやらなアカンさかい」
「そうね。フィガーはレシアが考えてる以上のアホーなのよ。ちゃんと説明しとかないと、聖骸をぶっ壊す恐れもあるからね」
「それは困る。厳重に扱わないと。魔力場が暴走でもしたら大変なことになる」
「むぅ……」
散々に言われて、フィガーは唇を尖らせた。
「まず聖骸ってのは、聖人の遺体、亡骸のことや。もちろん聖人はわかるやんな?」
レシアはデスク上の『使徒録アヌス口伝』――通称『聖アヌスの伝承』を手に取って、パラパラと退屈そうに読むとはなしにめくる。こちらにはまったく興味はなさそうだ。
ちらりとレシアの方に目を向けて、フィガーは答える。
「光の子カペラ・ロンベルクの高弟――名前の前に聖を冠する十三使徒のこと」
「そうや。聖リアノ、聖ロダ、聖アスタロス、聖シュリシュナ、聖ケルブ、聖オルペナ、聖ヨルム、聖ミロクライ、聖イカーテ、聖カカ、聖キキ、聖ゼラフィム、そして、聖アヌスの十三の使徒のことや」
「ちなみに、聖アヌスがどうして、遅れてきた使徒と呼ばれているかというと、聖リアノ大聖堂の天井に描かれている大画『神話後夜の饗宴』において、光の子カペラと共には十二使徒しか描かれておらず、聖アヌスの姿がないことに起因しているわ」
「……で、その聖人の遺体が何なんですか?」
「アホのクセに気の早いやっちゃなぁ。それはな……」
「聖人は皆一様に、竜族をも一撃で滅ぼす力、そして悪魔をも滅する――『神の力』とでも呼ぶべき属性の力を秘めていたの」
フェイの言葉を引き取って、不意にレシアがぼそりとそう説明した。
「レシア、それだけじゃこのアホーには通じないわ」
レシアは目を丸くする。珍しく彼女の表情がわかった。はっきりと驚いている。フィガーのアホさ加減は、彼女の想像のはるか斜め上をいっていたようだった。フィガーはがっくりと肩を落とした。
「まぁ、聖人の力は偉大過ぎるってことよ。そんで、どれだけ偉大かっていうと――触れただけでも色々な物になんらかの力が宿るほど。死してなお、それは有効で、その最たるものは聖骸布とかね。聖リアノ大聖堂に厳重に保管されている聖リアノの聖骸布は、包んだもののいかなる傷をも瞬時に塞ぐ能力を持っている。ついでに言うと、聖人が殉教したとされる地にも、かなり大きな力が宿るわ。ここ、教皇庁の建つこの場所は、聖リアノの殉教地。聖教の洗礼を受けた者がこの地で魔力を振るうとき、魔装も魔術もケタ外れに効果が増幅されるわ。だから、教皇庁内での魔装、魔術の行使は、固く禁じられてるの。つまり聖人に関わるものはみな、そこになんらかの強大な魔術的磁場――いわゆる魔力場を形成する。それは扱いようによっては、非常に危険なもの。この世界をも揺るがしかねないものにもなる。それを考えれば、聖骸の発見がいかに重要な事態か、またどれほどの価値をもたらすことか、あんたでも少しは理解できた?」
「うん。けど、聖リアノの聖骸布や、聖人が触れたことによって力が宿った聖遺物の話は、ぼくでもちょっとは聞いたことあるけど……そしたらさ、聖アヌス以外の他の使徒の聖骸は、今どうなってるの? そんな話、今まで一度も聞いたことないし」
「アホーの分際でええ質問しよるやないか。それはわいが答えたる。
世界に存在する魔術師の数は三百人を切った。魔導師に至っては、世界にたった九人や。魔術っちゅう技術が廃れていく時代の流れにおいて、時代に逆行するような魔術ばりばりの聖人なんちゅういかがわしいもんの亡骸の行方を追うって、それ自体、なんやおかしな滑稽話とちゃうかいなっちゅうことや」
「フェイ、その発言は……」
と、レシアは眉間に皺を刻んだ。フェイの身を案じて。
「安心せい。この場におる連中以外に、こんな話はせぇへんわ。
ま、長い時の中で忘れられていくもん、失われていくもんがある。それはそれでかまへんっちゅうことや」
「要はよくわかってないってこと?」
フェイはどういう真意で、こんなまわりくどい話し方をしたのか? ふと、アリアはひっかかった。
「そういうこと。それじゃあ話を戻すわね」
本を閉じ、再びきっちりデスクに平行に置くレシア。『使徒録アヌス口伝』の表紙に書かれている聖アヌスが、こちらをぎょろりと睨んだ気がして、アリアは不吉なものを覚えた。
「アリア、どうかした?」
「ううん。なんでも」
「そやそや。あの遺物の中になんで聖アヌスの聖骸があるってわかるんや? あの遺跡は、聖アヌスの殉教地でもないんやろ?」
「遺跡と遺物は別物よ。遺物は後から運び込まれたもの。おそらく墓荒らしか何かの理由でね。報告書の品々をざっと見ても、まるで寄せ集めの感じさえする、あまりにも時代背景がバラバラの物ばかりだったし。遺跡の方も、大陸政府の対応から、たいした価値はないと思われるから」
「常時五百人規模の警備。遺跡の再探索には、あの極帝サガ・ローウェインが出張ってるっていうのに?」
「極帝の動きはブラフ。極帝にしては動きが鈍い。それに遺跡内部の構造もある程度、調べがついている。今なお、秘匿され続ける七遺跡に比べると警備が甘いわ。七遺跡のように、壁画や石碑等の動かせない貴重な物があれば、もっと警備は厳重なハズ。その点から遺跡自体には、あまり価値はないと考えられる。なのに、そこから出た遺物をわざわざ大陸政府主央都アーサーベルへと、大掛かりな移送をするなんて、おかしいと思わない? しかも大小合わせて総勢七百点近くもの遺物すべてを。手間がかかり過ぎる。それでも、アーサーベルへと運ばないといけない理由があった。アーサーベルには優秀な研究機関も多数あるし、断然、警備を厚くすることもできる。移送された遺物の中に、かなり重要なものがあると逆説的に考えるのが妥当じゃないかしら? それは遺跡と遺物の価値に、大きな隔たりがあることを暗に示唆しているとも言える。
また、約七百点の遺物のうち、かなりの数の遺物は目くらまし。遺跡もまた同じ。極帝が再探索に乗り出したのも、遺跡に注意を向けさせるため。それでさらに、わざと少しずつ遺物の情報をリークし、攪乱する。一番重要なある物から、わたしたちを含め不特定多数の遺跡を狙う者達の目を逸らそうとして」
いくつもの情報から欠片を拾い集めて、推論を重ね、命題を導く。雄弁に語る小さなレシア。その言はとても理路整然としていた。
「それが聖骸ってわけね」
「いいえ。残念だけど違う。話にはまだ続きがあるの」
「続き?」
「そう。あなたたちが調べてきてくれた品々の中に、聖アヌスを示す遺物がある」
「ちょい、待てや。わいらが調べてきた遺物の中には、聖アヌスを示す固有十字――トンボ十字が刻印された遺物は、一個も無かったハズやでぇ」
十三使徒はそれぞれ、固有十字と呼ばれる個人個人独特の十字架を持っていた。聖アヌスの固有十字は、『使徒録アヌス口伝』の表紙にも描かれているトンボのような形をした、およそ十字架と呼ぶにはあまりに奇抜なものだった。通称トンボ十字。
「この『使徒録アヌス口伝』はだいぶ古い時代に複写されたもの。原典に極めて近しい」
「それがどないしたっちゅうねん?」
レシアの細くて白い指が、表紙の聖アヌスのトンボ十字をなぞる。
「それはこの表紙の絵にも言えること」
「このトンボ十字、普段私たちが目にするのより、ちょっといびつね? 下と上の部分が同じ長さのような気がする」
レシアの意図を察し、アリアがそう指摘した。フェイとフィガーは身を乗り出して、覗き込んだ。話に付いていけてないのか、覗き込んだはいいが、フィガーは不思議そうに首をひねった。
「それじゃあまだ半分。下も上も同じ長さ。それから左右の長さも、全てにおいて等しい」
「――ってことは、等十字?」
通常の十字架は、下方部分が他より長いのが一般的だが、等十字は上下左右ともに全てにおいて等しい十字架。第一使徒聖リアノの固有十字とされている十字架だ。
「つまりトンボ十字は、もともとは等十字が二つ、ズレて重なってるって言いたいわけ?」
「さすがね、アリア。察しがいい」
たしかに等十字の上下がズレて重なると、ちょうど羽が四枚のトンボの形に見えなくもない。
「二つの等十字がトンボ十字の起源やて……?」
「等十字が刻まれたものならいくつかありましたね」
「その中でもこれが問題のモノ」
と報告書を開き、一枚の写真をレシアは三人に提示した。
正方形が二つ斜めに、各々一つの角が重なる箱――角張った『8』の字をした形の箱だ。正方形各々の中心には、菱形のサファイアをあしらった等十字が、一つずつはめ込まれている。重なってはいないものの、合計二つの等十字がある。側面には、人々に祝福をもたらす二人の天使の彫り物が刻まれ、金銀の眩い格子状の装飾が施されていた。
「聖アヌスの聖櫃」
淡々とレシアは言った。
「この中に聖骸があるっちゅうんか? だったら、そんなもん政府側も中身の確認くらいしとるやろうが」
「封印されているとしたら? 何らかの魔術が発動されており、見えず触れられず重さも感じず、それでもそこに何かがあるとしたら?」
「姿を消す術式はもちろん、錬金術の流れを組むメギストフ式に、確か重さを軽減するような術式もあったわよね。あとグダルの古い文献には、感触を阻害するマントの記述も。聖骸クラスの聖遺物なら、あり得なくもないことかも」
真剣な表情で、アリアは写真の聖櫃に目を落とした。
「待て待て。そんな重要なモンなら、こないに簡単に所在や情報が掴めるもんかいな? それにや、二つの等十字が聖アヌスを示唆する固有十字っちゅうんも、わいはいまいち納得できん」
「フレーディア卿がそう言うんだから、いいじゃないですか」
「どアホは黙っとれ! ミジンコが人間の会話に口出しすな。ややこしい」
「ううっ、痛い、ひどい……」
黙っておけば見映えのする超絶美形なのだが、残念なことに彼はアホなのだ。フェイは思いきっりフィガーをど突いた。ミジンコ脳を強引に黙らせておいて、レシアが話し出すのを待った。
「これは私の仮説」
と、前置きして彼女は語り出した。
「聖アヌスは遅れてきた使徒じゃなくて、先駆けの使徒。等十字は聖リアノ――第一使徒の証。二つ重なった等十字のひとつは、聖アヌス自身のものであり、彼自身が第一の使徒であることを指すものではないだろうか。そしてもうひとつは、聖リアノより次世代の第一使徒へと、受け継がれた等十字であるとする考え。『神話後夜の饗宴』に聖アヌスの姿がないのは、そのときまだ彼は、若き門弟の一人に過ぎなかったからではないかと推測する」
「なるほど。筋は通っとる理論やなぁ」
「また、この聖櫃は、第一使徒聖リアノの聖櫃に非常に酷似している」
レシアはデスクの引き出しから、一枚の古びた羊皮紙を取り出して、写真の隣に並べた。
「門外不出の貴重な素描よ。聖リアノの聖櫃レプリカをスケッチしたもの」
三〇〇年ほど前に起きた大聖堂の大火で、レプリカはすでに失われていた。厳重に大聖堂奥深くに保管されていた為、その姿を留めるものは、走り書きのような素描でもかなり貴重なものだった。幸い一緒に保管されていた聖骸布は焼失を免れ、今にも受け継がれている。
レプリカは正方形の箱で、上面中央には菱形細工をあしらった等十字がはめ込まれ、側面には一人の天使が人々に祝福をもたらす絵が彫られ、正方格子の装飾が施されていた。
「確かによう似とるな。こないなモン見せ付けられたら、レシアの説も頷ける。納得するしかないようやな」
「――となると、大陸政府の連中は、何を大事に守ってるのかしら? 聖アヌスの聖櫃には、まったく気付いてないってことよねぇ?」
「わいらでも入手できた情報やさかいな。たぶんリークされたモンやろう。気付いてないんは間違いないな。他の大事なモンから目を逸らさせようとして、これが聖アヌスの聖櫃とは知らず、墓穴を掘ったカタチやな」
と、二人は思案顔で首をひねった。話に付いていけず、別の意味でまたもや首をひねる美形が若干一名。
「そっちは保留ね。聖骸・聖櫃以上に貴重で危険なものは考えにくい。おそらく何らかの聖遺物か、大陸政府のことだから『神の箱庭』に関連するものと思われる」
「そういや『神の箱庭』も箱っていうくらいだから、聖櫃に関係してたり?」
「それはないと思う。まだ仮説も組める段階じゃないけど、ニュアンスが違うように思う」
「じゃあ私らの次の仕事は、この聖アヌスの聖櫃の回収というわけね」
事も無げに、豊満なバストをぶるんと揺らしてアリアは言うが、そう簡単な事ではない。だが、彼女は不敵に微笑む。
「ふんっ。まぁ、しゃあない。やるか」
「そうですね」
フェイもフィガーも彼女と同様の表情だった。
「ケースもケースだから、今回は私も同行します」
レシアがぼそりとそう宣言すると、
『えっ!? ええーっ!!!!!!!!』と、三人の声が見事にハモった。
「ひきこもりで出不精のレシアが自分から外に出るだなんて!?」
「なんや、わいはてっきり完全無欠のヒッキーやとばかり思っとったわ」
「別にぼくはひきこもりでもヲタでも大丈夫ですから!」
「レシア、よく決断したね。あんたがひきこもりから立ち直ってくれて、私は嬉しいよ」
「さらば、ひきこもり生活。『六年の暗黒時代に終止符』を、ってタイトルで自伝の出版準備せなな」
「ぼく、その本、絶対買います。心のバイブルにしますから! フレーディア卿」
言いたい放題の悪乗り三人組がその後、ド派手なハリセンチョップを見舞われたのは、言うまでもなかろう。