第四十四話「断章」
薬品臭の立ち込める、白く清潔感のある廊下を金髪おかっぱの少女が歩いている。
何もない、殺風景な、ひたすらに真っ直ぐな廊下。
緑豊かな小都『聖府ベルネチア』にある等辺六芒星を象った建物『教皇庁』の南西に配されている尖塔に向かう回廊だ。通称『医務ブロック』――病院と研究所が集約されている区画である。
よれよれの白衣にドレッドヘアー、手にはウオッカの瓶。これでも医者かと思うほど小汚い中年男が、廊下の壁に背を預け、レシアを待っていた。
「かれこれ二週間、眠り続けたままだ」
レシアと肩を並べ、歩き出しながらドレッドの医者は言った。
「オレの見解を述べさせてもらってもいいか?」
レシアはチラッと視線を向けるも、何も言わずすたすたと歩いていく。
「オーケー。じゃあ勝手に話させてもらう。オレが診てるあの患者アクス・フォードについてだが、心臓こそ止まっているが、血流に問題はなく、心臓以外の臓器に異常も認められない。また脳にも損傷はないときた」
アクスは、ユロの死霊術と悪魔の力によって肉体は完全に再生していたが、意識が戻らずにいた。
「この状況で目覚めないのは、複雑に絡み合った複数の魔術による何らかの影響としか言い様がない」
「何らか、ね。つまりは原因はわからない。何も手の施しようがないってことね。大枚はたいて、名医と名高いあなたを呼び寄せたというのに」
レシアは冷ややかに皮肉った。言外に「役立たず」と言われているにもかかわらず、ドレッドはけろっとした顔で、
「最低限の治療はしているつもりだ。それに、オレの専門は生きてる人間だ。死人は専門外だから仕方がない。そもそも医者は、死に抗いこそすれ、死を否定しはしない。死んでしまえばそれまでだ。いわゆる生物にとって死は自然の摂理ってもんだ。むしろそこは侵してはならない神の領域とも認識している。それをアクス・フォードは侵している。医者以前に人として、その存在に恐れを抱かずにはいられない。彼は一体何者なのかと?」
レシアは恐ろしい目付きでドレッドを睨んだ。それはレシアも思っていたが、極力考えないようにしていたことだったからだ。
「死者蘇生はキメラ理論と並び、大陸憲章で禁止されている最大級の禁忌だ。それはなぜか? 死者もキメラも倫理的にその存在の是非を問われるからだが、キメラにもまして、死者蘇生で生き返った死者はヒトであるのか? という疑問に尽きる。そしてまた、その死者は生きていたときと、何ら変わることはないのか? という疑念に直面する」
「……………………」
「簡単に言うとだな――、生き返った死者は、生前と同じ人格を保持しているのか? 今のアクス・フォードは、死ぬ前の、この世界で生きてきたアクス・フォードと、同一人物であると言い切れるのか? ――ってことだ」
レシアは目を見開いたまま、無表情であった。
「……ふぅ」
と、ドレッドは大きな息を吐き出し、
「……レシア、お前の親父さんには随分と世話になったから、忠告しておくぜ。アクス・フォードの身柄を教皇庁に引き渡せ。もしくはこのまま目覚めさせるな。眠らせたままにしておく処置ならオレがしてやる。オレを外部から呼び寄せたのは、教皇庁にアクスの存在を知られたくなかったからだろ? 正常な状態で目覚めたとしても、アクス・フォードの存在はいずれレシア、お前の立場を危うくする。悪いことは言わない。オレの言葉に耳を貸せ」
眠らせたままなら、なんとでも言い訳はきく。ドレッドはレシアのためを思い、そう提案したが、レシアはなんの反応も示さず、再び廊下の先へと歩を進める。
ドレッドが今言ったことなど、端からわかっている。
さらにアクスという存在が抱える別の不安についても、レシアは正しく理解していた。彼女の脳裏には、『神の力』を振るうレイパードの姿が浮かぶ。アクスは絶対あの男のようにはならない。
けれども、アクスはレイパードのようになる可能性を秘めている。人為的な神、もしくは人工の天使となり得る可能性だ。それは、世界的災厄と言っても過言ではないレベルの、人類にとっての脅威足り得る。それを上層部が黙って見逃すとは思えない。バレたらすぐにアクスの身柄は拘束されるだろう。
「あなたさえ黙っていれば問題ない」
アクスの病室の前に立ち、冷たい瞳で振り返り、ただ一言、レシアはぼそりとそう言った。
ドレッドはそれ以上何も言えなかった。否。本能が口を開くのをためらわせた。
ドレッドはぼりぼりと後ろ頭をかきむしり、レシアが病室の中へと消えて行くのを黙って見送った。
レシアは病室に入るなり、訊いた。
「ユロさん、アクスの容態は? 変わりない?」
微風がレースのカーテンを揺らす。窓際にベッドが置かれていた。真っ白なシーツ。ふかふかの清潔感のある布団。そこに、穏やかな顔で目を閉じ、アクスが死んだように静かに横たわる。
ベッド傍らの椅子に腰かけ、ユロはアクスの手を握ったまま、振り返りもせず、首を振った。
「そう。変わりないのね。ところで、ユロさん。あなたはいつまでそうしている気?」
この二週間、ほとんど食事も睡眠もロクに摂らず、ユロはアクスの傍にいた。ずっと手を握り、アクスが目覚めるのを願い続けている。
だけど、このままだと、アクスが目覚める前に、ユロが倒れてしまいそうな調子であった。
「……………………」
ユロはレシアの言葉に反応を示さず、アクスの手をさすり続ける。レシアはできるだけ感情を消して、冷静に告げる。
「アクスの容態は安定している。いつまでもあなたにそうしてもらっていては困るの。アクスだけじゃない。ラキソラさんに、イリメラちゃん、シシリーちゃんも引き取ってるから、経費がかさむの。だから、ユロさん、あなたには働いてもらわないと困る」
廃墟となったシオン修道院にいたラキソラ、イリメラ、シシリーの三人は、レシアに引き取られ、今はロンベルク聖教ロア・パブリック教会に身を寄せていた。またレイパードのようなよからぬ輩に、人質として利用されないためにも、教会の庇護下に入るのは、当然の選択であった。
「わかってる。レシア、アンタに世話になってることくらい。で、私は何をすればいい?」
と、ユロはアクスの手を布団の中に戻し、ゆっくりと立ち上がりながら言った。
絶対に断れない嫌な言い方だと思ったが、こうでもしないと、ユロはアクスの側を離れようとはしないだろう。ユロのためにも、少しアクスの側から離した方がいい。
「アリアたちと共に、二十七番遺跡の再調査に行って。出立は今日中に。詳細はアリアに伝えてあるから、その指示に従って。アリアたちは北西にある厩舎にいるわ」
そんなつもりはないのに、つい矢継ぎ早な、追い立てるような言い方になってしまった。
それでも、「わかった」と、ユロは素直に従い、部屋を出て行く。
その間、一度もユロはレシアと目を合わさなかった。
「損な役回りだな」
部屋の外からドレッドがそう声を掛けた。
「あなた、まだいたの?」
瞬間、冷ややかな視線を廊下にいるドレッドに送るも、さっとレシアは開きっぱなしの扉を閉めた。アクスと二人っきりになって、
「何よ、気持ちよさそうな顔で寝ちゃって。人の気持ちも知らないで。さっさと起きなさいよ。早く起きてよ。早く……、じゃないと私……」
アクスの寝顔を見てると、瞳が潤んできた。それ以上、言葉を続けられなかった。