第四十三話「決着」
「止められるものなら……」
レイパードの声は掠れていた。
かつてアクスと同じ場所に立っていた青年は、どこで道を違えたのだろうか。もはや後戻りのできないところまで来てしまっているのか。
「止めてみるがいいさ。逆に思い知らせてあげるよ。この世界がどんなに無慈悲かっていうことを」
真っ直ぐな、それでいて迷いの無い視線を真っ向から受け止め、レイパードはなおアクスの敵として立ち塞がる道を選んだ。それこそが唯一の救いだと言わんばかりに、右手の灰剣を掲げる。誰も寄せ付けない、孤高と呼ぶにはあまりにもひどく寂しげな青年がそこにはいた。
少なくともアクスにはそう見えた。
ゴゴッ……。先程の翼の暴走であちこち削られ砕かれた階段が、不気味な軋み音を発していた。
ゴドンッ!! 一際大きな石片が転がり落ちた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ! 続いて雪崩のように、聖櫃を安置していた台座ごと、階段が勢いよく崩落するのが合図だった。
両者は同時に駆け出した。
アクスはレイパードとの距離を縮めながら、再び剣に蒼い炎を纏わせた。もうもうと砂煙が立ち昇る中、両者は激突した。
蒼剣と灰剣が激しく打ち合った衝撃で、二人の周囲の砂煙が一瞬にして吹き散らされる。続け様、二合、三合、四合と鋭い斬撃を見舞うも、レイパードは涼しい顔ですべてを受け流す。まるで踊るように流麗な動き。
「相変わらず剣に頼り過ぎ。攻撃がワンパターンだ。進歩がないね。でかい口、叩く割に」
がぎっ。蒼剣はいともたやすく止められた。交差する両者の剣。その向こう側から、顔を近付け、嘲笑を浮かべるレイパードに対して、負けじとアクスも言い返す。
「お前こそ『神の力』はどうした? 聖人を取り込んだクセにこの程度か?」
だが、それはただの強がり。冷たい汗がじとりと一筋、背中を流れていった。
「いくら強力でも不完全な力は、むしろ弱みになることもあるからね。キミごときを黙らせるのに、そんな諸刃は必要じゃない。それにキミにはボクと同じ痛みを味わってもらわないと。それこそきちんと意識ある状態でね。『神の力』ではその加減が難しい。キミを粉々に消し去ってしまい兼ねない」
「お前と同じ痛み……?」
「そう。目の前で守りたかった子が無残にも殺される痛み。果たしてキミは、ボクと同じ目に遭わされても、さっきみたいなキレイ事を吐き続けていられるのか。実験してみようじゃないか。あそこの子をちょっと殺してみて」
ニヤリと裂けるように、闇が口を広げた。
「させるかよ!」
「気勢や意気込みだけじゃどうにもならないよ」
――――と。
どんっ! と、突然アクスは胸に重い一撃を受け、後方に弾き飛ばされた。
「がはっ!?」
衝撃波か。息を詰まらせながら、突き出されたレイパードの左手を見て思った。
「手っ取り早くその首落とさせてもらうよ」
レイパードは追い撃ちをかける。だんっ! と、一足飛びにアクスに迫った。
彼は知っている。首を切断したところで、アクスがそう簡単には死なないことを。
だから、このまま一気呵成に首を刎ね、戦闘不能に追いやる。そうして、動けなくしたところで、彼の目の前でユロを殺してみせ、自身の苦痛を追体験させるつもりだ。それこそ世界はこんなにも無慈悲でどうしようもなく、滅ぶべきものなのだと諭すように。
「どんなに望んでも、どれだけ願っても、報われない思いがあることを知るがいい!」
背後は瓦礫の山だ。突っ込んだら最後、体勢を立て直す前に首を取られる。
万事休す――!?
そのとき、アクスの背をふわりとした風が包み、瓦礫の山との衝突を避けた。
さらにレイパードとアクスを隔てるように、突如床に亀裂が走り、足場が崩された。石の床板がレイパードの行く手を阻むように粉々に砕かれたのだ。レイパードは追撃を諦め、さっと横に飛び退くと同時、邪魔をしたフェイを衝撃波において壁に叩き付け、黙らせた。
「フェイ!」
「アンタ、何やってんのよ!」
と、レシアを介抱していたユロがあわてて駆け寄る。
ただでさえ激闘の繰り返しで、身じろぎ一つするのにしても激しい痛みを伴うであろうに、フェイは残された力を振り絞り、魔装『白断鉄亀』を開錠し、旧友のピンチを救ったのだった。
「げほっげほっ……ど、どや、あ、あのすかしたボ、ボケナスに一杯食わしたったで」
壁に背と首を預け、もはやそこから一歩も動けない、酔っぱらいがだらしなく路上にへたりこんでるみたいな格好だというのに、なぜかフェイの顔はどや顔だった。
「もう全く! 無茶すんじゃないわよ! ……でも、ありがとう。アクスを助けてくれて」
「れ、礼ならあ、あいつにも言うたれ……」
もう一人、アクスの窮地を救った者がいる。レイパードはじろりとそちらに目を向けた。そこには辛うじて立っているという有様のフィガー。ダメージが足にきていた。小刻みに震える両膝を押して彼は風を生み出し、瓦礫の山との衝突からアクスを守った。
「……さ、させませんよ。彼が倒れたら悲しむ人がいるんだ。彼のことは個人的にはどうでもいいんですが、その人の泣き顔だけは絶対に見たくないんです」
誰のことを脳裏に思い浮かべての発言か。言わずともわかるだろう。
「そ、それともう一つ。きみには言っておきたい。報われない思いは残念だけどある。そんなこと、誰でも知っています。そして、たしかに報われるに越したことはありませんけど、相手を思う心にこそ意味があるってことも。それはきみも理解しているはずだ」
フィガーはレイパードに向かい、言わずにはおれなかった。
「黙れ」
「む、報われない思いなんて、大なり小なりみんな抱えている。はぁはぁ……。でも、け、決してそれはつらく悲しいだけじゃない。くっ。思う相手がいるのはとても幸せな事だから。その相手から、きみもいっぱいかけがえのないものをもらったんじゃないんですか」
痛むあばらを左手で押さえつつ、荒く弾む息を抑えながらも、なおも言い連ねる。
「黙れと言っている」
「た、たとえ相手に思いが届かなくても、報われなくとも、かけがえのないものはちゃんと今でもきみの胸の内に残っているのでは? はぁはぁ。だ、だからこそ報われない思いに苦悩もするし、悔いも募る。でも、それでいいんですよ。それは相手のことを忘れていないってことなんだから。今も相手を思ってるってことなんだから。それで十分じゃないですか。きみも本当はとっくに……」
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れっ!!!」
フィガーの言葉を途中で遮り、切り裂くが如く叫んだ。そして、レイパードは乱暴に左腕を突き出した。
「よけろ! フィガー! 衝撃波じゃねぇ!」
叫びながらアクスは、ふと違和感を覚えたが、言ってる場合ではない。
レイパードの右肩から光の翼が再出現し、左の掌に光の集束が起こる。聖光だ。その凄絶な光――聖光がまっすぐフィガーに向けて放たれた。高い殺傷力をもつ聖光の直撃を喰らえば、フィガーの痩身などひとたまりもなく上下分断され、肉片に変えられる。
「フィガー! 伏せて!」
「ぼさっとしてんじゃないよ!」
レシアとアリアの二人がよろめきながらも同時にフィガーに飛びついた。強引にフィガーの体を床に押し倒して、姿勢を低くする。その三人の体すれすれを聖光は行き過ぎた。後方で凄まじい爆音とともに壁が粉々に粉砕されたのを見送って、
「フレーディア卿、ぼくなんかのために……」
「フィガーはこの世でたった一人、代わりになる人なんていないんだから!! 無茶しないでよ。お願いだから」
今にも泣き出しそうに、両目の端いっぱいに涙を溜めてレシアは言った。
こんな愛らしい少女にそうまで言われて、しかも起き上がるのもつらいだろうに、自分のために駆け付けてくれたことに、キュン!? としない男子はいない。まさに、惚れてまうやろぉぉぉぉぉぉっ!!
「もう我慢できない! フレーディア卿っ!! ぼくはあなたのことが……っ!?」
「はいはい。私がいるのもお忘れなく」
思わずレシアを抱きしめにいったフィガーの顔面を無造作にアイアンクローして、思い込みの激しい中性的ロリコンをレシアから引き離し、黙らせるアリア。左腕も骨折し、かなりダメージも蓄積しているだろうに、アリアの握力は相当だった。フィガーのこめかみあたりからミシミシといった妙な音がしていた。
「おおおおおおお」
「アリア、せっかく助けた命が今、散ろうとしてるんだけど……」
「そんなこと気にしてるほど、予断の許す状況じゃないんだよ」
と、アリアは二人の方に視線を移した。もちろんアクスとレイパードの二人の方へ。フィガーのこめかみも予断を許さないことになっていたが、さらりと無視された。
フィガーらの無事を確認したアクスは、さっき感じた違和感の正体について考えていた。レイパードが聖光を放とうとしたときに感じた違和感。
あの違和感は一体……? オレは何に気付いた? ヤツを倒す重要な手掛かりがそこにあるに違いない。思い出せ。考えろ。
考えつつも二撃目を警戒し、庇うようにアクスはフィガーらを後ろに回し、矢面に立った。
「少々熱くなり過ぎたようだ。頭を冷やさないとね」
幸い二撃目の聖光が放たれる様子は無さそうだ。それでも警戒を強め、レイパードの背に翼が戻りつつあるのを油断なく眺めていたら、不意に気付いた。
そうだ! なぜヤツはフィガーを攻撃するのに右手の灰剣――魔装ではなく、『神の力』を使ったんだ? 確かに『神の力』は強力だが、ヤツ自身も言っていたが、翼は弱点になるというのに、わざわざその翼を敵であるオレたちに曝してまで。
それに、だ。ヤツのあの衝撃波。以前戦ったときにはあんな芸当の技は使わなかった。すると、あれは『神の力』に由来するものだと、高い公算で判断できるわけだが、あまりに多用し過ぎている。同じ攻撃を何度も繰り返せば単調にならざるを得ない。人に剣に頼り過ぎだと言って、単調な攻撃を揶揄していた人間が、そんな愚にも付かないことをするだろうか?
いや、しまい。じゃあ、なぜヤツは衝撃波を多用し、翼を曝してまで聖光を放った? フィガーの言葉に逆上したからか? いや、逆上したというのなら、こうもあっさりと矛を納められるはずがない。そんな簡単に感情を制御できるとは思えない。
だとしたら、逆上は聖光を放つための演出に違いない。それなら、『神の力』を使わなければならない理由があったとみるのが順当。
そこまで考えて、アクスははたと思い至った。
力の暴走を恐れてのガス抜きか。ヤツは体内で『神の力』を持て余しているんだ! 大きすぎる力に器がついていっていないため、きっと体外に力を定期的に排出しないと暴発の恐れがあるのだ。
だとすると、ヤツが力を使う際にその吐き出し口を塞いでやれば、力は逆流し、『神の力』を暴発もしくは暴走させられるのではなかろうか。
「試してみる価値はありそうだ」
と、小さくアクスは呟いた。
力のはけ口は左掌だ。レイパードが衝撃波ないしは聖光を放つタイミングで、左掌を魔装で貫いて『神の力』を逆流させられれば、そこに勝機を見出せるかもしれない。
かなり薄い光明だが、見えた気がした矢先、アクスの左腕が脱落した。まるで老朽化した馬車の車輪が小石につまづきあっけなく外れるように。
「魔装の瘴気が限界値を超えたんだね。蓄積された瘴気に耐え切れず、左腕が腐り落ちた。もうその体、限界だよ。チェックメイトは目前だ。死人はおとなしく世界の終りまで絶望を抱え、路傍の石みたく、その辺に転がっておけってことだね。ククククク……」
「……まだ一本ある。剣を握れる腕ならここに。お前を倒すのに一本もあれば十分だ」
強がってみたところで、策など何もない。
何かを言いかけたのをぐっと押し止め、つらそうに眉をひそめるユロの姿がちらっと横目に入った。もうこれ以上、アクスに傷付いてほしくない。アクスが傷付くのを見ていられない。けど、「もういいよ」とは口が裂けても言えない。アクス本人がまだあきらめていない以上、ユロがさじを投げるわけにはいかなかった。
一蓮托生――ユロはアクスにすべてを託したのだ。だから、ぐっと言葉を飲み込むしか、そして、最後まで見届けるしかなかった。それが彼女の役目だ。ユロは、朱に染り、正視するに忍びないアクスの姿を、それでも網膜に焼き付けるかのようにまっすぐ見つめ続ける。ぎゅっと握り締めた拳からは、指の隙間を伝って血が滴っていた。
「アクスはまだ戦うつもりなのかい? あのバケモノ相手にあんなぼろぼろな体で……、もういいだろ。もう戦わさなくても。こんな所でくたばんのは癪だけど、もう見てらんないよ。レシア、もういいよね?」
アリアは堪え切れずに悲痛な思いを吐き出した。
「アリア、ユロさんの左手を見て。あの血が滴る左手を見ても同じことが言える? きっと命をなげうってでも止めたいでしょうね。今すぐ飛んでって抱き締め、もういいよって言ってあげたいでしょうね。今の今も見てるだけで引き裂かれる思いでしょうね。それなのに彼女はああして堪えてる。この絶望的状況でもアクスを信じて。そんな彼女を差し置いて、私たちが止められると思っているの?」
アリアは口を閉ざした。もはや選択肢は、見守ることしかないのだと悟る。
「煉鎖二式、開錠。唸れ、蒼き炎狼シュッテンバイン。魔衛番の蒼炎刃!」
隻腕となったことも一顧だにせず、アクスは再び魔装を開錠した。小手先の策はない。レシアたちももう戦える状態にない。残されたのは隻腕の先に握られた蒼き剣一本のみ。
「見よう見真似だからどこまで通用するか……神頼みよりあんたに頼む方がマシだ。おっさん、オレに力を貸してくれ!」
アクスは喉の奥で呟いた。
思えば、オレが得物に剣を選んだのも、おっさん――いや、世界最強と謳われていた剣士シーゼリアン・グラッテに憧れてのこと。その世界最強の剣士から、何度も修行を付けてやるって言われてたのに、あの頃は素直になれず、その好意を受け入れられなかった。むしろかまってほしいから逆のことをする子供じみた反抗期とでもいうのか、今となれば、ちゃんと手ほどきを受けてりゃよかったと思う。でも、こっそり隠れてオレは、ずっとあんたの真似をしてたんだ。
アクスはぐっと腰を落とすや、ぎりりっとひねって、剣先を背の後ろへと回した。
「あれは、団長の剣技『五光羅閃』の構えのひとつ――『三閃、雪薙』。『五光羅閃』の中でも最も早い斬撃系の技。アクスのヤツ、どないする気や?」
そう。かつてレイパードの頬に傷を付けたシーゼリアンの『三閃、雪薙』の構え。致命傷を受け、精彩を欠いていたとはいえ、あのとき、シーゼリアンが放った一撃は、レイパードには残像すら捉えられていなかった。万全の態勢だったならレイパードの方が倒されていただろう。
「しかし、キミに使えるのかな? それは天賦の剣技だ。凡人であるキミに使いこなせるとは思えない」
「なら試してみるか?」
「クククク。いいよ。やってあげるよ」
と、闇が裂けるように口を開いた。
レイパードは灰剣を構えた。
「オレの剣は速いぜ!」
それはシーゼリアンが戦闘を開始するときの口癖だった。
アクスの身体が弾丸のようにレイパードに向かって射出される。腰のひねりと強靭な脚力から生み出された推力によって。その強靭な脚力を物語るように、アクスがつい今し方まで立っていた場所には、小さなクレーターができていた。
即座、レイパードも応じて、アクスに真っ向から向かっていった。
「囚鎖四式、開錠。尽きろ、廃絶の灰皇ヒュプロボス! 解獄斬魔の覇拙!」
「三閃、雪薙!!」
がぎるぐっ!!
鈍い音と共に、両者の剣が激しくぶつかった。凄まじい斬撃のぶつかり合い。反動で両者の剣は反発し合う磁石のごとく、握る手ごと大きく弾かれ、中空に跳ね上げられた。
レイパードの目が大きく見開かれる。
コイツ、わざと……、最初からボクの剣を狙って――でなければヒュプロボス最速の斬撃系の技『解獄斬魔の覇拙』を止められるわけがない。ボクの狙いは彼の首。自ずと剣の軌道は予測されやすい。そこを衝かれたようだけど、一体どんな狙いがあって、ボクの剣を跳ね上げた? 胴を薙ぐため? 首を落とすため? 確かに攻撃の組み立て方は悪くない。だけど、詰めが甘い。ボクには『神の力』があるのを忘れている。
そこまで咄嗟に考えること一秒。アクスが体勢を立て直し、蒼剣を翻すのが見えた。この状況を見越していたのか、動きに無駄がない。それを目の当たりにしたレイパードに、ふと疑念がよぎる。
もし、彼の行動がボクの『神の力』のことを失念していたのではなく、知った上での行動だったとしたら? 彼はボクが未だ『神の力』を御しきれていないと気付いている!? だとしたらこの一連の攻撃の狙いは、『神の力』を放つときのボクの左手!
「気付いたとしても遅い! 言ったろ。オレの剣は速い、って」
すでにレイパードは後手に回っていた。遅きに失した。過信が生んだわずかな隙。レイパードが見せたほんの一瞬のその隙に、アクスはすべてを賭けていた。全身全霊、命を賭した大勝負でもしないかぎり、すり傷一つ負わせられないほど、レイパードの優位は絶対的なままであったろう。
それを覆す乾坤一擲の一撃。
レイパードとしては、避けるわけにもいかなかった。避ければ、胴か首のどちらかを分かたれる。そうなれば、その後の戦闘は物理的に不可能であろう。また、灰剣を引き戻してアクスの一撃を受け止めるにしても、一拍遅れている時点で結果は目に見えていた。
レイパードに残された選択肢はひとつ――『神の力』を振るうのみ。振るわなければそれまで。アクスの剣が首か胴を切り落とすまでだ。選択権はもはやレイパードの手から完全に移行していた。
このボクが踊らされるとは……!?
苦虫を噛み潰した表情で、レイパードは左掌をかざした。
光の集束はない。ということは『神の力』による衝撃波。見えた!! この一瞬に賭けたアクスの研ぎ澄まされた感覚が、彼に風を見せた。
アクスは渾身の突きを繰り出した! 蒼剣はレイパードの掌をずぶりと貫いた。
「……逃がさないよ」
「がはっ!?」
レイパードの灰剣がアクスの胸板を貫き、彼の身体をその場に縫い止めた。
「だ、誰が逃げるかよ。お前を地獄に叩き落とすまで!」
「キミの思い通りにはならない。これを凌ぎきればボクの勝ち。ぐっ……。おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
白と黒の翼が肉を食い破り、レイパードの背中を引き裂いた。翼はまるで猛り狂う竜の如く、勢いよく鮮血を散らして飛び出す。『神の力』の暴走だ。悪魔をも殺す力を秘めた『神の力』が、内側からレイパードの身体を破壊していく。だが、彼もまた簡単には倒れない。ぎりりっと奥歯を噛みしめ、踏み止まる。
「くたばりやがれっ!! クソ野郎ぉぉぉ!」
と、アクスはグッと蒼剣を押し込む。自らの胸に食い込む灰剣を気にも留めず。
「ごぶっ!? ごほっごほっごほっ」
レイパードはどろりとした赤黒い血を立て続けに吐き出し、激しく咳き込んだ。翼はなおも荒れ狂う。あと少しだ。アクスは握る剣に力を込め、さらに強く押し込んだ。すると、背中からだけでなく、肩からも首からも太ももからも腕からも、翼が肉を破って飛び出す。
「がぁぁぁぁぁぁぁ!!!!! ぐおっ!?」
レイパードは苦悶に表情を歪め、身体を仰け反らせた。全身から血を噴き出す。出血性のショックか、ビクンッ、ビクンと痙攣を起こしていた。そして、全身から力が抜け、レイパードは動きを止めた。それとともに、翼の暴走も止まった。
訪れる静寂。ともすれば絶望に打ちひしがれそうになるくらいの静寂が辺りに下りた。
両者とも動かない。
――永遠にも似た数秒間。
仰け反っていたレイパードの首ががくんと前に倒れた。その口元が薄く微笑んでいる。それを見た瞬間、ゾッとおぞましい寒気が、嫌な気配を伴って、アクスの肺腑を抉るように全身を駆け巡った。
「――ボクの勝ちだ。『神の力』を抑え込んだ、ボクのね。ククククククク……。もうすでに、キミには抗う術は残されてはいまい。正真正銘の終りだよ。やはりこの世界には救いなんてものはないんだと証明された。帰する所、絶望が溢れるこんな世界、滅びるべきなのさ。キミも本当の絶望に触れればわかる」
「まだだ……まだ終わっちゃいない。お前のその翼を傷付けることができれば――」
なんて目をしてるんだ。彼に残された手段は何一つ無いというのに。まだ諦めちゃいない、その目を見ているだけでなぜかイライラとする。
「さっきのはボクの過信からくる油断を衝いたに過ぎない。二度は無い。調子に乗るなよ。この背の翼がボクの体内へ戻りきったとき、キミはボクと同じ絶望を知ることになる。果たして、大切なもののいなくなった世界でなお、キミは変わらずいられるのか! そんなまっすぐな目をしていられるのか!」
と、肩で息をしながら、レイパードは叫ぶように一気にまくしたてた。
レイパードの翼がみるみる体内へと戻りつつあった。
「……そんなの知らねぇよ。まだそうなると決まったわけじゃなし。もし、そうなったとしても、絶対にオレはお前のようにはならない自信ならある。ユロを見てるから。お前のせいで大切なものを失っても、あいつは世界に絶望なんかしなかった。失った大切なものを取り戻そうと、死霊術を究めようとしている。そいつが正しいかどうかは、学の無いオレにはわからないけど、少なくとも、勝手に大切なもんに見切りを付けて、適当に世界に絶望してるお前よりか、あいつはずっと強く前向きだ。そんなユロの強さを見てるから、オレは絶対にお前のようにはならない!!」
ボクは心のどこかで、あの子を失った痛みから逃れようと、世界を憎むことで、問題をすり替えていたのかもしれない。そして、大切なものと言いながらも、あの子を忘れることで見切りを付けて、勝手に一人で絶望していただけなのかも。だとしたら、ボクにはあの子のことを思う資格は、疾うの昔に無くなっていたのかもしれないな。
ふと、そんなことを思った。自分でも驚くほど素直に。
けど、ここまで来てもう止まれない。本当は、アクスが戦闘前に言っていたように、心の奥底では、誰かに止めてもらいたかったのかもしれない。でも、もはや何もかもが遅かった。どういう形にしろ、ここまで来た以上、決着を付けねばならない。
無言で、レイパードは灰剣を引き抜くと、アクスの首を刎ねるべく振り上げた。
絶体絶命。それでもアクスの緑眼は輝きを失わずにいた。
「レイパァァァドォォォォォォォ!!」
そのとき、レキ・グロリアが声を張り上げ、突然広間に現れた。
『合聖神化』前――聖人を取り込む前のレイパードが左腕と引き換えに、ガレキの底に沈めたはずの男。『神の箱庭』のことを知る者を闇から闇へと消す大陸政府軍・元帥府直属の秘密暗殺部隊『夜鷹』のメンバーの一人。死んではいないと思っていたが、よりによってこのタイミングで現れるとは。しかも濃紺の軍服は、土に汚れ、あちこち破れているものの、目立って外傷はないときた。
「チッ。まずいな……」
レイパードは弱点である翼を曝したままだった。
普段なら鉄のように冷たい相貌を怒りの形相に変え、二刀の剣士はレイパードを睨み付ける。彼の黒い瞳には、銀の髪をした青年の姿しか映らない。他者など眼中になかった。
「――貴様の息の根を止めることが、俺に与えられた任務!」
アクスごと吹き飛ばす気か。レキは二刀を顔の前で交差に構えると、
「双鎖二式、開錠! 跳ねろ、連光装鹿バイアノク! 逢魔辻の輝角鋏!」
と、問答無用で魔装をぶっ放した。
悪魔の力が深淵より呼応する。レキはXを描くように一気に空間を切り裂いた。その空間から、鹿の角を模した黄金の鋏が顕現し、レイパードもろともアクスを切り裂こうと襲い来る。
体のどこにそれだけの翼が納められていたのかというほど、レイパードの背や肩などから無作為に生えた膨大な量の翼は、徐々に体内へ戻りつつあったが、まだ四方、広範にわたって高く大きく広がっていた。したがって、レキの攻撃を完全に避けたり、防ぎきるのは至難の技であった。
どうしても翼を傷付けられるのは避けられない。次、『神の力』が暴走したら、体力的にも疲弊しきっている今の状態では、抑え込むことはできまい。
「……まいったな」
レイパードはふっと肩の力を抜いた。
こういう結末がボクには相応しいということか。やっぱり世界は優しくない。レイパードは天井を仰いで思った。寂しげだが、どこか憑き物が落ちた穏やかな顔だった。
「さっさと離れた方がいいよ。次は抑えきれない。ボクの暴走に巻き込まれたくなかったらね」
レイパードはぶっきらぼうに言った。
「お前……」
「別にキミを助けるために言ってるんじゃない。って、いちいち説明してあげる義理もないか」
それきりレイパードは口を閉ざした。意地の悪い笑みを浮かべて。
もう何も語る気は無さそうだった。
黄金の鋏が二人に迫っていた。アクスは黙ってさっと彼から離れた。
記憶の奥底、一番深い場所にさえ、残っていないと思っていた記憶が呼び覚まされる。どうして今の今になってあの子のことを思い出すのか。レイパードの脳裡には、あの子の後ろ姿が浮かんでいた。なぜ、今になって?
「アギレラ……?」
それは彼を庇う一人の少女の後ろ姿と重なった。
レイパードを守ろうとアギレラは、レキが放った巨大な輝く鋏の前に飛び出した。悪魔ベロキアに体を乗っ取られていたとはいえ、レイパードによって壁に叩き付けられ、ひどい仕打ちを受けたというのに、だ。そのときの脳震盪の影響がまだ残っているのか、アギレラの膝は大きく震えていた。いや、それだけではあるまい。
両腕をめいいっぱい広げて、レイパードを庇おうとするアギレラ。死の恐怖をも押して、レイパードを救いたいという気持ちが勝った。自分の命と引き換えにしても。
ただひたすら大切な人を守りたいという純粋な思いしかそこにはなかった。そんな思いが透けて見える彼女の華奢な背中に、レイパードは吐き捨てるように言った。
「ホント、バカだな……」
アギレラを見殺しにして、翼を体内に収納する時間を稼ぐ気か。
彼女は確実に死ぬだろう。けれども、アギレラは何も言わない。彼女はすべてを理解した上で、レイパードの盾になると決めたのだ。見返りなんて求めない。レイパードに拾われなかったら、もともと死ぬ運命だったのだ。アギレラは自分の今の人生を延長戦だと思っている。
その延長したわずかな人生で、彼女は十分に彼から色々なものをもらった。大切な人を思う気持ちであったり。そう。形は無いけど、かけがえのないものを。それだけで十分だった。
だから彼女は、泣き言の一つも文句の一つも、レイパードへの不平も不満も、何も口にしない。別れの言葉でさえも。彼の心にわずかでも、「アギレラを死なせたのは、自分のせいだ」と自責の念が残らぬように。無言のまま逝く。
その姿は、かつてレイパードが救いたくても救えなかったあの子の姿に酷似していた。いつも他人のことばかり考えて、自分のことを顧みない優しいあの子の面影。
鮮血が飛び散った。アギレラの小柄な体が、バラバラに切り刻まれる。腕が足が内臓が周囲に撒き散らされる。苦痛の表情を浮かべたアギレラの頭部が足元に転がる。
レイパードはあの子を失って以来の恐怖を感じた。そんな想像すらしたくなかった。本当にボクはバカだ。二度も同じ過ちを繰り返すつもりか!
「アギレラァァァァァ!!」
叫んでも、もはや間に合わない。どうすることもできない。普通の人ならば。だが、彼には翼がある。翼を使えば、さっきの想像を現実にしなくても済む。だとしたら、何を迷う必要がある。
躊躇することなく、レイパードは翼を広げた。今までの中で、もっとも大きく美しい白と黒の翼であった。
「えっ!? レイパード様?」
レイパードはアギレラを翼で覆うように抱きすくめた。
無防備に背を曝すレイパードに、黄金の鋏が襲いかかった。
翼が無造作に切断される。無数の羽根が舞い散った。
黄金の刃は、レイパードの左の肩口とやや後ろに引いていた右腕に食い込み、なんとか止まるも、ギリギリと万力のごとくレイパードの上半身を斜めに切断しようと締め上げた。鉄錆びた血の臭いが辺りに充満した。
「ぐっ、うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
獣のような唸り声を上げて、レイパードは強引に鋏を跳ねのけた。
バキンッ! と、何かが砕けるけたたましい音とともに、黄金の鋏は霧散した。
ぐるんとレイパードは勢いよく振り向くと、聖光を放った。聖光は有無を言わさず、レキを一瞬にして飲み込んだ。レキは断末魔の叫びすらあげることなく、跡形もなく消し飛んだ。
「ごはっ……!?」
「レイパード様!!」
血の塊を吐き出しながら、崩れるように両膝を着くレイパードに、駆け寄るアギレラ。
「――――――――――――!?」
体内では、翼を傷付けられたことにより、『神の力』の均衡が崩れて、荒れ狂う。まるで内臓の中を火炎球が跳ね回っているようだった。端正な顔が凄まじい苦痛に歪む。血反吐が止まらなかった。
しかし、近くにアギレラがいる。『神の力』の暴走に巻き込むわけにはいかない。
「も、問題ない……」
レイパードはなかば無理矢理に立ち上がった。血に紛れて、嫌な汗が頬を伝う。アクスに攻撃を受けたときとは違って、力のはけ口を塞がれての逆流がない分だけ、今回の暴走は小規模だった。だから、なんとか強引にだが、抑え込むことに成功した。アギレラを巻き込みたくない一心が、『神の力』を封じたのかもしれない。だが、『神の力』を抑え込むだけで手一杯、これ以上の戦闘継続は難しそうだった。
レイパードはアクスの方に視線を向けた。どうやらアクスの側も、戦闘続行は不可能に近い状態だった。
アクスの右足が突然、土や砂のような細かい粒状になって、崩れ去った。まさに崩れ去るという表現が的確な、乾いた泥だんごがひび割れて砕けるように、崩壊したのだ。
「アクス!」
ユロは、片足を失い、倒れ込んだアクスのもとに駆け寄った。レイパードとアギレラを威嚇するようにキッと睨んで言う。
「まだやるようならアタシが相手になるわ!」
「ユロ、オレはまだ戦える……」
「もういいよ。もういいんだよ、アクス」
左腕を失い、右足をも失くしたというのに、それでも剣を杖に立とうとするアクスを、ユロは優しくなだめる。
アクスの右足は、瘴気の蓄積による壊死で崩れたのではない。核石を持たないアンデッド特有の肉体崩壊によるものだ。
もうアクスの身体は戦える状態ではなかった。それどころか、立ち上がろうとすることですら、アンデッドの死――土くれに還るのを早めるだけだった。とっくに限界を超えていた。
右手の小指が崩れ落ちた。剣が手の平から滑り落ち、床に転がった。
死期はもはや間近に迫っていた。
アクスに死霊術を施した術者であるユロには、痛い程そのことがわかっていた。もうアクスの身体は、立ち上がることすらままならないだろう。あとは土に還るだけということが。
それがわかっていたからこそ、この世を去る前の残りわずかな時を、心穏やかに祈る時間として、アクスには残してやりたかった。死を迎える者を前にして、修道女たる彼女にできることはそれくらいだから。
「そうか……。オレの身体は限界なんだな」
右腕をかざして、アクスはポツリと洩らした。崩れゆく自分の手を眺めるアクスの頬には一筋の涙が流れる。
「すまない、ユロ。またオレは、お前を救えなかった……」
「そんなことない! アタシは十分アクスに救われてる! あの竜のときも、あの悪魔のときも、さっきだって! そして、何よりこうしてアクスが来てくれたことが、アタシにとっては一番の救い。こんな自分勝手でわがままなアタシを救いたいって言ってくれたアクスの気持ちがうれしくてうれしくてしょうがなかったんだよ。だから、今度はアタシの番。ちょっとの時間くらいしか稼げないかもしれないけど、せめてアクスが祈る時間くらいは――」
アクスの涙を見ないふりして、彼の剣を拾い上げると、ユロはすっくと立ち上がり、レイパードを真っ向から見据えた。
翼はなんとか体内に納めていたものの、レキの魔装により受けた裂傷からは、未だ血が溢れていた。
「ボクと殺り合おうって言うのかい?」
見かけは平然を装ってはいたが、体内では暴れ回る『神の力』を抑えるのに必死で、回復もままならないほど、レイパードは弱体化していた。もう一度、『神の力』が暴走したとき、抑え込める自信はない。
「アンタがまだアクスやみんなを傷付けると言うのなら、アタシは戦う!」
二人は互いに睨み合う。視線が激しく交差する。ユロの目は覚悟を決めた者の目だ。一歩も退く気はない。
――先に視線を逸らしたのはレイパードであった。
レイパードはアギレラをチラリと見遣り、言った。
「今回はボクの負けだ。おとなしく引き下がろう。だからといって、この世界を認めたわけじゃない。けど、ほんの少し、この優しくもない理不尽な世界も、悪くはないと思わせてもらったよ。だからと言ってはなんだけど、猶予を与えようと思う。この世界にも。キミにも」
と、レイパードは灰剣を鞘に納めるや、何のためらいもなく、自分の胸に手を突っ込み、血に濡れた『緋石』を取り出した。それをユロに向かって無造作に放り投げる。
「『神の力』を帯びた『緋石』だ。彼の核石にも使える。今回、ボクが取り込んだ聖人は不完全体だ。『合聖神化』を完全なものとするためには、再びキミの死霊術とその『緋石』が必要となる時が来よう。だから、それまでキミに『緋石』を預けておこうと思う」
続けて、レイパードはアクスのほうに視線を投げ、
「もし、核石として『緋石』を使い、キミが生き返り、いつか世界に絶望したらいつでもボクのもとにおいで。歓迎するよ。死後と生前の違いはあれど、悪魔に憑りつかれた者同士、『不死なる者』の誼だ」
「悪魔に憑りつかれたって……? どういうこと? 『不死なる者』って? 何を言ってるの?」
「……知らないのかい?」
きょとんとした顔でレイパードは訊き返した。ユロはこくりと頷いた。
「知らずにキミは……。ククク。いいだろう。説明してあげる」
と、レイパードは嬉々とした笑みを浮かべ、話し出した。
「『不死なる者』ってのは、悪魔に憑りつかれ、『神の力』をもってしか、死ぬことを許されなくなった者のことさ。ボクに憑りついた悪魔の持つ知識では、彼に憑りついた悪魔はアゼザル――原罰のもとを作った『始まりの堕天使』だそうだ」
「アゼザル……」
「そして彼の場合、キミが行った死霊術で、死後、悪魔に憑りつかれたので、心臓が再生されないから血流が滞り、肉体の再生がきかないみたいだけど、肉体は滅んでも、意識的精神的には死を迎えることはできず、思念体となって未来永劫この世界を彷徨うことになるだろう。世界が終わるそのときまでね。しかし、心臓の代わりとなるものさえあれば、永遠に肉体の再生はきくよ。つまりは、核石というシステムさえあれば、と、言葉を置き換えても同意だ。でも、このまま肉体を棄て、意識だけにしてあげた方が、彼にとっては幸せかもね」
「どうして……?」
「『神の力』を帯びた『緋石』はそう簡単には壊れない。これから永遠とも思われる長い長い歳月を彼は生きていかねばならない。多くの友や仲間、大切な人の死を、彼は嫌でも看取っていくことになる。長い年月の中で、望まぬ別れに出会うこともあるだろう。なまじ肉体があると、どうにかできるのではないかと運命に抗い、あがき苦しみ、自分を責める。また途方もなく長い時間を生きてると、見ないでいいものまで見えてきてしまう。人間の醜さや愚かさ、世界のくだらなさ。そういう一つ一つが、少しずつだが心に降り積もり、ゆっくりゆっくりと彼の精神を蝕み、本当に緩やかに、真綿で首を絞めるかのように、徐々に心を壊していき、やがては世界すべてに絶望する。かつてのボクがそうであったように。そうして、いずれはキミをも恨む。どうしてオレをあのとき生き返らせたのか。どうしてあのとき肉体を再生したのか。って。だって、どんなにつらいことがあっても、狂いだしたくなるくらいひどい経験をしても、死にたいくらい最悪な絶望を味わっても、死という救いは彼には訪れないのだから。だから、彼はキミを恨むしかない。ひどいよね。残酷だよね。なんせ彼はボクとは違って、自分の意思ではなく、キミによって、救いのない無限の時を生きる『不死なる者』にされてしまったんだから」
「アタシが……、アタシが、アクスを死ねない身体にしてしまった。アタシが……」
「そう。キミが彼を『不死なる者』にした。キミが彼を人の道から踏み外した」
「アタシが……」
「そう。キミが、だよ。その行為がどれほど罪深いことか。よ~く考えて、その『緋石』を使うかどうか、決めるんだね」
レイパードは人の悪い笑みを浮かべ、
「どちらにせよ、彼が救われることはないのだろうけど」
そう言うや、ぷいっとユロから顔を背けると、
「アギレラ、行こう」
と、レイパードはさっさと広間を後にする。
「うん? これはベロキアの記憶か? ああ、そうか。どこかで見たと思えば、この大大陸博物館にもう一つあったっけ。使うかどうかはわからないけど、ついでだから、もう一つの『鍵』はボクが回収しておくか」
広間を出る前に、レイパードはアクスの方を振り返り、ぼそっとそうひとりごちた。
広間には、広い森の中に一人取り残されたかのように途方に暮れ、呆然と立ち尽くすユロだけが取り残された。
今にも泣き出しそうな顔で、アクスの傍にぺたりと座り込む。
「アクス、ごめんね、ごめんね。アタシ、アタシ……」
「……もう何も言わなくていい。オレはお前に出会ったことを、何一つ後悔していない」
「アクス……」
「――お前の決断に全てを委ねる」
アクスはそう静かに目を閉じた。すでに彼の身体の半分は土くれと化していた。
ユロはアクスの胸の上に『緋石』を置いた。
「やっぱりアタシ、アクスがいないとヤだよ」
「お前はそれでいいのか? 死霊術は代償を必要とするんだろ?」
イリメラとシシリーを蘇生するのに、ユロは左腕と右眼を代償に、アクスを蘇生させたときは、片方の肺を代償に死霊術を行使した。
「死霊術を行使する上での代償なら、聖人を蘇らせるのに、この『緋石』を代償にしても、こうして欠けもなく完璧な形で戻ってきたくらいだから、この『緋石』が秘める魔力だけで十分。この『緋石』が核石にも代償にもなるけど……」
「なぁんだ、そうなのか。だったらさっさと死霊術かけてくれ。オレはてっきりお前が傷付くんじゃないかと、変な遠慮しちまったじゃねぇか。マジ、ビビらせんなよ」
と、アクスは明るい声を出し、笑った。
「へっ? いやアンタ、さっきのアイツの話、聞いてた?」
「うん? 聞いてたけど、ナニか。ユロ、お前まさかあの野郎の話真に受けて、死が救いとか思ってんじゃないだろうな。生きてる方がいいに決まってる。一度死んだ人間が言うんだから間違いない」
「そんな軽く簡単に言って……。アンタ、わかってるの!? 永遠を生きるってことがどういうことなのか」
「きっとつらいだろうな。あいつを見てて思ったよ」
ふと真顔になってアクスは答えた。
「だけど、オレにはユロがいる」
「なっ!? アアアアアンタ、いいいきなりななななにいい言ってるのよ!?」
「ユロがオレを人間に戻してくれさえすればいい話。だからオレは不安じゃない。お前を信じてるから。イリメラとシシリーのついででいいからさ」
と、アクスは屈託なく笑った。
「アクス……、うん。私がアンタをちゃんとした人間に戻してあげる。約束する! ……でも、もう一つ心配事がある。アクスのように人格や意思を備えたアンデッドはかなりの異例。もう一度、死霊術を施して、今のままのアンタでいられるか、またちゃんと人格や意思が残るか、保証できない」
「オレはユロを信じてる。オレの意思がたとえ失われようとも、生きてさえいれば、きっとお前が元に戻してくれるだろうと」
ひとつ大きく頷くと、迷いはすべて吹っ切れた。アクスと一緒にいたい――――ただその思いだけを強く込め、ユロは死霊術を行使した。
「闇を魅入るは、群青に制せられし智天の御使い、闇を駆るは、深緑に染められし熾天の御使い、闇を司るは、白銀に侵されし座天の御使い、闇は邪、邪は混沌、混沌は闇、堕天の領域を守護せし汝ら、反天の御使いに乞い願う。『緋石』に眠る秘めたる力を喰らいて、この躯の死杯天秤を逆さにせしことを!!」