第四十二話「嘘偽りない気持ち」
白世界の牢獄。白濁した意識の奥底にあるレイパードの精神世界――――。
「……小僧、悪魔を殺す法は見つかったか? ……」
「ベロキア……」
銀の髪に青い瞳のレイパードの前に、顔の造作は全く同じだが、白い髪に赤い瞳のレイパード――いや、悪魔ベロキアと呼ぶべきか――が白い闇から現れ、からかうように言った。
「……生命の樹を逸脱しようなど所詮世迷いごと。しかもあんな不良品ではな……」
「不良品……だと?」
「……だが、貴様には感謝せねばな。不良品――不完全体とはいえ、聖人の力は聖人の力。『神の力』を内包している。いわゆる神と同じ属性の力。神を殺すには神と同じ属性の力が必要だからな。天界を追われ、力を剥奪されたオレだが、貴様が聖人を取り込んでくれたおかげで、再びその力を得ることに成功した。これで天界でのうのうとしている豚どもをこの手で引き裂ける。貴様には礼を言わねばな。ははははは!! ……」
「ベロキア、キミは神を殺す力を得るために、ボクの中に今まで巣食って、時を待っていたというのか。ボクはキミに利用されるだけのただの器だったというのか」
数百年も生かされ続けた理由が、そんなことでしかないのか?
「……そうだが。それが何か? 貴様が今までやってきたことも、オレとさして変わりあるまい。力無き者が力ある者に蹂躙されるのは当然の理。何を今更……」
『砕百の白王』と謳われる悪魔は傲然と言い放つと、ふてぶてしく笑った。レイパードはじっと黙って聞いていた。
「……不満ではないのか? ……」
静かすぎるレイパードの様子を不審に思ったのか、ベロキアは尋ねた。
「何もかもキミの言う通りだからね。不満はないさ」
「……ああ、そうかい。まったくもってつまらん小僧だ。まぁ、いいさ。そこでゆっくりこのオレが、天界の豚どもを引き裂き続ける愉快な様子を、とくと見てるがいい……」
と、ベロキアはレイパードに背を向ける。そして、果てしなく白い世界をまっすぐ歩き出した。
「ベロキア」
名前を呼ばれて白い髪に紅い瞳のレイパードが振り返った。
ベロキアの目的は神を殺し、天界に返り咲くこと。レイパードの目的は世界を終わらせ、自身を完全に殺すこと。二人の目的は相反する。
「いずれわからせてあげるよ」
裂けるように口角を上げて、銀の髪に青い瞳のレイパードは言った。
「キミが誰に喧嘩を売ったのか。この身体が誰のものなのかを」
「……人間風情がよくほざく。ああ、期待せずに待ってるよ……」
歩き出したベロキアは後ろ手に右手を軽く振って、白い闇に溶けるように消えていった。
ベロキアに身体を預けておけば、レイパードの目的は果たされない。そのためには、ベロキアから身体の自由を奪い返すしかなかった。さて、どうするか? 白世界の牢獄に幽閉された銀髪のレイパードは、白く続く世界をぼんやりと眺めた。
――――黒い霧が晴れると、そこには無傷のレイパードが立っていた。
白い髪に赤い瞳。頬の刀傷はそのままに、左腕は完全に再生している。しかし、そんなことはどうでもいい。アクスとユロ、二人の目を釘付けにしたのは――――背に生えた黒と白の左右色の違う大きな翼だ。魔が魔がしくも神々しい翼を前に、まだ終わってはいないのだと改めて気付かされた。
息苦しくなるほどの強烈な存在感。台座にいる規格外の存在を見上げ、アクスはすっくと立ち上がった。ユロの手をするりと抜いて。
「アクス、どうする気?」
「あいつがいれば、またお前が苦しめられるかもしれない。それに団長のこともある。これ以上、団長やイリメラ・シシリーのような悲劇が繰り返されないためにも、ヤツはここで止めなければならない」
拳を強く握り、アクスは白髪赤瞳のレイパードを見上げた。
「あと少ししか残されていない貴重な時間なのに。またアタシや他のみんなのために……」
ユロは包帯にくるまれたアクスの拳を優しく両手で包むと、今まで言えずにいた、言うのを憚っていた思いをはっきりと口にした。
「アクスに出会えて、アタシ本当に良かった。アンタがアタシのアンデッドで、本当に良かった。アタシなんかのために来てくれてありがとう。もう迷わない。アクスにならアタシの命、預けられる。なんせアンタとアタシは一蓮托生だもんね」
ユロはにっこりと微笑んだ。たとえアクスが負けることになっても後悔しない。共に死ぬ覚悟を決めたから言えたユロの素直な気持ち。
「ああ!」
アクスは短く、しかし力強く答えると、最後の戦場へと向かうべく、相棒シュッテンバインを強く握り直した。
力が湧いた。一度死して再びこの世界で目覚めた理由――それは今このとき、ユロを守るためだったのかもしれない。そんなことを思い、アクスは無謀ともいえる相手に向けて、臆することもなく駆け出した。先手必勝だ。
このまま何事もなかったかのように、見逃してくれるような相手ではない。たとえこの場は見逃してくれたとしても、将来に禍根を残す。アクスに残された時間はあとわずかだ。これから先、ユロの傍で彼女を守ってやることは彼にはできない。ここで禍根を断っておかないと、死ぬにも死にきれない。
「煉鎖二式、開錠。唸れ、蒼き炎狼シュッテンバイン。魔衛番の蒼炎刃!」
剣刃が蒼炎を纏う。ここまでくるのに三度の魔装開錠をしているアクス。腕や首に巻いている包帯にじわりと血が滲んだが、体中には力が漲っていた。オレには守るべき大切なものがある!
台座から、愚民を見下ろす暴君のごとく、退屈そうにレイパードは赤い瞳を動かした。
「……人間風情が愚かな。瞬殺でこの世から消してくれる……」
狂暴な笑みを浮かべ、駆け出そうとしたレイパードだったが、
「……ふむ、待てよ。どうせ殺すなら、『神の力』を試してみるか……」
ふと考えなおして、ゆるりと左手をアクスに向けた。掌に聖光が宿る。先程とは比べ物にならない光の集束。今度は到底蒼炎刃で受けきれるクラスのものではない。背中に生えた白き光の右の翼が輝きを増した。
「アクス、無茶よ!?」
ユロの声を無視して、台座へと駆け上がり、真っ向から突っ込むアクス。不思議とあの聖光は放たれないような気がした。
その予想は違わず、集まった光がたちまち弾けた。レイパードの手首が突如として吹き飛んだ。真っ赤な血が辺りに飛び散る。暴発だ。レイパードは不可解そうに首をひねり、自分の失われた手首の先を見つめた。
「……人の身体とはこれほどに脆いのか。これしきの負荷にも耐えられないとは。出力の仕方が今後の課題だな……」
目前にアクスが迫っていた。アクスは勇躍、台座へと躍り出る。レイパードは羽虫を追うように、無造作に手首の無い左腕をかざした。そこにアクスの蒼剣が振り下ろされた。刃が腕にわずかに触れた瞬間、言い知れぬ悪寒を感じて、レイパードは左腕を捨て、後方に飛び退った。左腕が肘先から切断された。しかし、そんなこと意にも介さず、
「……てめぇ、何者だ? ……」
「そういうお前こそ。レイパードじゃねぇだろ。そして、普通の人でも。二重人格かなんかは知らねぇけど、まぁ、こっちには好都合だ。事情はよくわからんが、お前ならなんとかなりそうだからな。あいつが出てくるまでにケリ付けさせてもらうぜ」
「……くっはっはっはっはっ。人間ごときと比べられ、しかもこのオレの方が与し易しと思われるなんてな。言うだけあって、貴様も面白いモン、体内に飼ってるようだが、そいつの力をあてにしても無駄だぜ。そいつはオレと同じで、きっと狡猾だろうからな……」
「お前、アゼザルのことを知っているのか?」
「……ほぅ、アザゼルとな。そういえばこの気配、ヤツか。しかし、相も変わらず変わっているようだな。死人に憑りつくなど。おかげで死臭が鼻について、この距離まで忌々しいヤツの存在に気付かなかったとは。随分とオレも鈍ったもんだ……
……小僧、気が変わった。全力で潰してやる。本気でかかってきな……」
白い悪魔は心底楽しそうにに破顔した。
「……さぁ、堕天使狩りのはじまりだ。天界の豚どもを引き裂く前哨戦だ……」
言うや、背の闇色の翼から黒いもやが発生し、左腕の切断面にまとわりつき、腕の形を成した。右腕には一応灰剣が握られているが、それを使いこなせはしないだろうとアクスは踏んで、一気に懐に飛び込むべく、真正面から仕掛けた。
「……なんの策もなしにまた正面突破? 早や果てるか、死人の小僧よ。もう少し楽しませてくれると思ったんだが……」
レイパードの闇色の左腕が蛸の足のように複数に分かれて伸び、鋭くしなる鞭となってアクスに襲い掛かった。が、以前まみえた影王シドンの疾黒帯に比べれば単調で遅いし、何より数が少ない。卓抜したアクスの技量の前では敵ではない。
「三下ほどよくしゃべる」
「……なんだと!? ……」
アクスの蒼剣が次々と闇色の触手を切り裂いて、一気にレイパードの懐に飛び込んだ。
アクスは容赦をしない。今のレイパードが正常な状態になくとも、手を緩める理由にはならない。どんな汚い手を使っても、ユロの禍根となるこの男だけは必ず排除する。
柄を握る両手に力を籠めた。腰を落とすや、アクスは鋭く蒼剣を突き出した。
「……チッ……」
蒼剣がレイパードの胸板を貫いた。鮮血が飛び散るも、当の本人は軽く顔をしかめ、舌打ちするだけで、さっさと距離を取る。狭いと動きが制限されると判断したか、台座へと伸びる階段を一足飛びに飛び降り、広間へと戦いの場を移す。追撃を警戒して、抜かりなく右の白翼から、ダーツで使われる手投げ矢のような羽の矢を無数に放ちながら。
一閃!! アクスは羽の矢を焼き払うと、剣を深々と大地に突き立てた。
「煉鎖一式、開錠。唸れ、蒼き炎狼シュッテンバイン。魔堂門の三叉火柱!!」
出し惜しみはなしだ。枷を解かれ、解放された悪魔の力――蒼き炎狼が地中を駆ける。真下、地中より出現した蒼き業火が、階下に着地したてのレイパードを瞬時に天へと焼き払う。派手に三本の火柱が上がった。まだだ。この程度でくたばる野郎じゃない。アクスは蒼き業火へと跳躍した。
「――来るよ。押されてるようだね。変わろうか、ベロキア?」
レイパードは白黒両翼で蒼き火柱をガード。
「……黙れ!! 人間風情が。おとなしくしていろっ!! オレが押されているなど。人間の身体に慣れておらぬだけ。余計な口を挟むな!! ……」
脳内のみで聞こえる残響のような声に、白髪赤目のレイパードは苛立たしげに右腕を振った。その瞬間、蒼き業火を割って現れ出でた影ひとつ。赤髪の少年は蒼き炎狼宿る剣を大上段から振り抜いた!
強暴なまでの斬撃が、レイパードの肩口から左腕及び背の闇色の翼をも破断した。
「……クソがぁ。舐めた真似をぉぉぉー!! ……」
もつれるように交差する二人。
アクスはすぐさま振り返る。それはレイパードも一緒だった。
「はぁはぁはぁはぁはぁ……」
立て続けに魔装開錠した結果、瘴気の蓄積が限界を超えた。両腕・脇腹から包帯を通し、大量の血が溢れるも、アクスは痛みすら無視し、眼前の敵に意識を集中させる。
だが、そんなアクスの姿を見守るユロは今、どういう気持ちでいるだろう。
「アクス……」
「来んじゃねぇぞ、ユロ。最期くらいはオレにもカッコ付けさせろよ」
アクスの思いを知るからこそ、ユロには彼を止めることはできない。ならせめて。
「……うん。アクス、がんばれ!!」
ユロの声援が力になる。まだオレは戦える。
「三下、どうした? 来いよ。ぶっ飛ばしてやるよ。今のオレは止めらんねぇぜ!」
「……図に乗るなよ、ドクズがぁ。ぶっつぶ……がっ。ごおっ――ぐおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!! ……」
異変が起こった。レイパードの背が突如裂けたのだ。
白い光と黒い闇の混ざり合ったマーブル模様の翼が、クリスタルの原石が屹立する様さながらに、無数に彼の背中を突き破り立った。
てらてらと血に濡れた翼を無数に生やし、額から脂汗を流す。両手両膝を着いたレイパードは四つん這いとなって、苦しげに「ぜぇぜぇ」と荒く呼吸していた。
敵は完全に無防備だった。何が起きたのか? わからぬがこの好機を逃す手はない。
「煉鎖二式、開錠。唸れ、蒼き炎狼シュッテンバイン。魔衛番の蒼炎刃!」
アクスは再び剣に蒼炎を纏わせると、レイパードを仕留めにいった。
無防備な相手に斬りかかるなんて趣味じゃないが、言ってられない。わずかにそんなことを思考していた隙に、誰かが二人の間に割り込んだ。
アクスの身体はすでに剣を振り下ろすモーションに入っていた。止められない。
ぎぅんっ!! 剣が金属の悲鳴を上げる。アクスの蒼剣は、刺突用の細身の剣の根元でがっちりと受け止められていた。根元でなく剣の半ばで受け止めていたら、彼女の剣は折られていただろう。そう。アクスの剣を受け止めたのはアギレラだった。
「あんたは……?」
「レイパード様をお守りする」
十年近く前、出会いはラムザック内戦。アギレラは戦場で泣いているところを拾われた。それはレイパードのきまぐれだった。それから今まで、剣を生き方を強さをレイパードの背から学んできた。彼は何一つ語らない。ただアギレラがレイパードの背を勝手に追いかけ続けてきただけ。それでも彼女にとってレイパードは恩人であり、大切な人であった。レイパードのためならなんでもする。変わり果てた姿になろうとも、目の前で殺されるとわかって、放っておけるはずがないではないか。咄嗟、アギレラは剣を掴んで、アクスの前に飛び出していた。大切なものを守るため。
「剣を引いてくれ。あんたには何の恨みもない」
「レイパード様に仇なすものはみな敵。お前はれっきとした私の敵だ。敵を前にして引く剣など私は持ち合わせてはいない」
アクスは戸惑う。目の前にいる短髪の女とは初対面だし、特に敵意はない。だが、相手は違う。レイパードに剣を向けるとしたら、きっと彼女はアクスの前に立ち塞がるだろう。どうすべきか? 剣を合わせながらアクスは困った。
「ベロキア、無様だね。人間風情に庇われて」
脳裏にまた残響のような声が響いた。歯噛みするように白い悪魔は低く唸る。額に大粒の汗が浮かんでいた。
「平常心を見失い、怒りに駆られるから。悪魔の力と『神の力』、相反する二つの力の均衡を保てなくなったみたいだね。今はなんとか抑え込んでいるようだけど」
「……………………………」
「合聖神化で取り込んだのは、不完全体とはいえ聖人だ。そして、その属性は『神の力』。『神の力』は神を屠る力であるとともに、唯一悪魔をも殺す力を兼ね備えている。『神の力』が暴走したら、それこそその力によってキミ自身も食い殺されかねない」
「……何が言いたい? このオレ、ベロキアでは抑えられぬとでも言いたいのか! このオレでは『神の力』を制御するのに役不足とでも言いたいのか!! ふざけるな!!……」
血走った赤い瞳。目の前のアギレラを無造作に右腕で押し退ける。アギレラの華奢な身体がノーバウンドで十メートルほど真横にすっ飛ばされ、石の壁に激突した。肺から強制的に空気が押し出される。アギレラは息を詰まらせ苦しげに喘いだ。
「くっ……う、あっ……」
アクスはあわててその場を飛び退いた。アギレラを払いのけた右手には灰剣が握られていたからだ。たまたま握られていたその剣が、アギレラを払うついでに、その辺りを無作為に薙いだ。
アクスはちらりとアギレラの方を見た。
「……このオレが役不足でないと、証明してやる! 『神の力』を抑え込み、見事制御し、この場の全員を皆殺しにしてな!! ……」
レイパードの赤い瞳に狂気が宿る。さっきまで多弁だったもう一つの意識は、再び白世界の牢獄へと沈められ、沈黙を余儀なくされた。代わりにアクスが吠えた。
「何やってんだ! お前は何、味方、吹っ飛ばして平然としてんだよ!! お前の窮地を救った仲間だろうが!」
はげしい憤りを覚える。アクスは仲間の助けを得て、仲間に支えられて、ここまで来たのだ。そして、死にゆくことを理解しながらも、ユロを救おうとしている彼の行動原理からすれば、レイパードの所業は到底許容できるものではなかった。
だが、当の本人がそこまで考えていたかどうか。ただ理由なんてない。直感的に許せないと思い、またレイパードのその行動にただただムカついたというのが本音だろう。ユロのために剣を取るのは変わらない。けど、そこに――アクスが剣を取る理由に――多少そんな気持ちが上乗せされてもいいはずだ。
アクスは剣を握る拳にギュッと力を込めた。握る剣の重みが僅かだが増したから。
「……あん? 仲間? さっきの虫けらのことか? 人間なんて全部虫けら。その虫けらがオレの仲間など笑止。そもそもそんなクソみてぇなもんを必要とするのは弱者だ。このオレに仲間など必要あるか! あの虫けらもてめぇも、目に入る虫けら全部、今からキレイにきっちり一掃してやるからよぉ。泣いて許しを乞うても、この空間にいるヤツぁ全員死刑確定だぁ。喜べ、ドクズども。このオレ、『砕百の白王』ベロキア様が振るう『神の力』によって殺される栄誉を……」
悪魔が振るう『神の力』なんざ超レアもんだぜ、などとほざきながら、レイパードという『人間』の器の中で、悪魔ベロキアは狂気を解放する。
背に生えた無数の白黒マーブル模様の翼が、ゴキゴキと骨の折れるような不気味な音をさせ、交互に色違いの三対の翼へと形態を変化させる。また鮫の背びれに似たマーブル模様の一枚の翼が背中を裂き、背骨に沿うように出現した。併せて七枚の翼が出現。
強引に『神の力』を捻じ伏せる。
空気が凍るのではないかと思われるほど、魔が魔がしい気配が辺り一帯を支配した。
「……とことん死にやがれ!! 全員死にさらすがいい!! 圧倒的一方的虐殺だぜ、これ。くっはっはっはっはっは……」
恍惚の表情を浮かべるレイパード。目が完全にイッてる。背に生えた七翼の内、白く輝く光の翼から、聖光ばりの威力の光線が放射状に全方位に向けて放たれた。
それはまさにアーチ状に四方に広がる光の傘。
「まずいっ!? ユロ!!」
光の傘を見上げ、困ったようにユロを一瞥すると、アクスはすぐさまアギレラの方に目を遣った。二人を同時に守るのは難しい。どちらかを選ばなければならなかった。かといってアクスに選べるはずもない。
「だぁー、アンタってば! アタシを助けに来といて優柔不断!? アタシは自分でなんとかするからっ!! そのクソ女、助けなさいよ。もうバカーッ!!」
ユロは叫んでとにかく遮蔽物を探した。大理石でできた柱くらいで凌げるかわからなかったが、一も二もなくその影に飛び込むしか手は無かった。
口ではバカなどと悪態を吐きながらも、当然そうするだろうアクスがユロにはたまらなく彼らしく思えて、ちょっぴり誇らしかったりもする。けど同時に「アタシだけじゃなく、他の子にも優しいんだ」と思うと、なんだか憎らしかったりもする。それが嫉妬だということに、当の本人は気付いているのか、いないのか……。
「わりぃ、ユロ」
そのとき、光の傘がバッと開いた。
すると緩やかな放物線を描いて、光線が雨あられのように降り注ぐ。光線は空気を引き裂き、壁を容赦なく破壊し、柱を仮借なく粉砕し、床をことごとく破砕していく。凶悪なまでに破壊を撒き散らす無数の光線。大理石の柱も光線の直撃を受け、砕かれるも、辛うじて貫通は免れた。ユロはその裏で猫のように丸まりながら、降ってくる大小無数の破片から頭を庇い、瓦礫の暴風雨が過ぎるのをひたすら待った。
ユロのおかげでアクスは迷わなかった。背を壁にしたたかに打ち付け、動けないでいるアギレラの前に立ち、
「煉鎖一式、二式、三式、四式、同時開錠。唸れ、蒼き炎狼シュッテンバイン。蒼炎の魔天狼!!」
剣から凄絶であり、奇しくも美しい巨大な狼を象った蒼炎を迸らせ、アクスは一帯に降り注いだ、いかつい光線群を一気に薙ぎ払った。
効果は絶大だが、その代償は決して安くはない。もうすでに幾度も魔装開錠しているアクスの身体は、紫瘴痕の紫と鮮血の赤に染まり、もはや限界寸前だった。
そのうえ四連同時開錠である。両腕が、両足が、左脇腹が、右肩が、背中が、右のこめかみが、左の鎖骨辺りが、貯め込んだ瘴気に耐えられなくなったのか、石榴の実のように赤い肉をはみ出して鮮血と共に弾けた。
周囲に鉄錆びた臭いが広がった。包帯の白も紫瘴痕の紫も見えなくなるほど、全身を真紅に染めるアクス。それでも肩で息をしながらも、彼は倒れない。
「なぜそうまでして私を助ける? 私はお前にとって敵のはず。見捨てればいいものを」
「はぁはぁ……あんたに恨みはない。けど、あんたの大切なモンを今から潰す。その引け目みたいなもんだよ。はぁはぁ……」
白黒七翼を背に持つ白き悪魔を真っ向から見据えて、アクスは言う。
彼の背中はガラ空きだ。傍らの刺突用の愛剣を取れば、その背を衝くのはたやすい。だが、アギレラは脳震盪を起こしていて、体の自由が利かず、立ち上がることすらできなかった。動けていたら命の恩人といえど、レイパードに害成す目の前のこの男を放っておくわけはなかった。
敵意に満ちた目を向けて、アギレラは言った。
「甘いな。もし、私が動けたならその甘さ、背中をざっくりと貫き、どれほど甘いか教えてやったのに」
「あんたには無理だよ。そんな気がする」
「………………、」
「……てめぇは毎度毎度オレの邪魔をしてくれる。真っ先にてめぇからぶっ潰さねぇといけないようだな。だが、単純にはすり潰さねぇ……」
舌舐めずりに似た笑み。轟ッ!! と七翼が羽ばたいた。一瞬で距離を詰められた。闇色の左腕が無造作に振るわれる。
咄嗟、両腕で顔をガードするアクス。体はゴムボールのように何度か床を跳ねて、十メートル以上吹っ飛ばされた。壁に激突寸前、水平移動するアクスに追いすがり、
「……こんなもんで終わるなよ……」
と、レイパードは垂直に強烈な蹴りを叩き込んだ。すさまじい威力のかかと落としだ。
「がはっ」
石の床が崩落した。隕石が落ちたみたいに、蹴りのインパクトをまともに受けたアクスの体を中心に、クレーターができる。半径五メートル近く、周囲との落差が一メートル以上もの衝撃だった。
内臓は破裂。口からどろりとした粘着質の血が溢れた。さらに背骨を砕くつもりか、レイパードは踵を振り上げた。
間一髪、無様に転がって、アクスはなんとかその一撃を回避。全体重を乗せたレイパードの踵が地面を踏み抜くと、ガレキが粉々に砕かれて宙を舞った。
普通の人間なら最初の打撃でも致命傷、次のかかと落としに至ってはもはや致死打といっても過言でない。戦闘不能に陥って、立ち上がることすらできなくてもおかしくない。
が、アクスはよろよろと立ち上がり、剣を構えた。それはアクスが普通の人間じゃなく、死にぞこないだから。そして、守るべきものがあるからだ。
「……くっはっはっ。そうでなくちゃ潰し甲斐がねぇ……」
戦闘続行。いや、これは戦闘と呼べるのか。完全にワンサイドゲーム。三枚の光の翼を鞭のように形状変化させ、アクスを乱打する。まさしく一方的に振るわれる暴力。アクスに成す術はない。血飛沫が煙る。
「……おらおらおら。簡単にくたばんじゃねぇぞ。足んねぇよ、潰し足んねぇよ。くっはっはっはっ……」
ボロ雑巾のようにアクスの体が宙に舞い上げられた。振り下ろされた光の翼が強烈なバレーのスパイクさながら、アクスを地面に叩き伏せた。呼吸が止まり、背骨が軋んだ。
もはやどこから出てるのかわからぬほどの大量出血。全身血みどろ。それでも彼はまた起き上がろうとする。どこにそんな力が残されているのか。
だが立ち上がっても、反撃の糸口が見つからない。出血が思考を阻害する。また考えている暇がないぐらいの連撃が襲い来る。乱暴に振るわれる光の翼がアクスの腹に食い込み、肋骨を砕いた。
「ぐはっ」
その反動でアクスはボールのように何度かバウンドして地面に転がる。お次は光り輝く白い翼が、アクスの体をシャベルの如く掬い上げ、床ごと削り飛ばしながら跳ね上げた。空中にガレキごと舞い上げられながら、
「――ヤツの、ヤツの……ち、力を暴走させ……られれば」
外的要因で『神の力』とやら――おそらく取り込んだ聖人の力――が容易に暴走するのは実証済みだ。
さっき左腕と背の黒い翼を切り裂かれたとき、ヤツは一時的だが力の制御を失った。
「……このオレが役不足でないと、証明してやる! 『神の力』を抑え込み、見事制御し、この場の全員を皆殺しにしてな!! ……」
などと血走った目をして吠えていたくらいだ。
胸や左腕を斬り付けたときはどうもなかったが、翼を切り裂かれたときに異変が起きた。となればあの翼を傷付けることができたなら、微妙なバランスの上で成り立つその力を暴走させることができるのではなかろうか。とアクスは考えていた。
鋭い槍状に形状変化させた光の翼がアクスの腹を貫いた。
「がっ………げぼっ、」
反撃方針は思い付いても、具体的な反撃の行動が起こせなかった。
「い、一瞬……でも、隙があれば…………す、隙を、作り出せたなら……」
どうにかなるだろうか? わからない。でも、わずかなりとも希望はあるはずだ。ここまで、ユロのもとまで来れたんだ。ここまで来てぬか喜びのバッドエンディングなんて受け入れられるか!!
「せめて守らせろよっ! 命を賭して一個くらいっ!!」
アクスは歯を食いしばり、また起き上がった。血の池から上がってきたような、全身を鮮血に染め抜いて。しかし、まだ彼の牙は完全には折られていない。
「れ、煉鎖二式、開…錠。……う、唸れ、蒼き炎狼シュッテンバイン。魔衛番の蒼炎刃!」
再び剣に勇ましい蒼炎が燈った。アクスの闘志が飛び火したみたいに。
「……今更そんなもんでどうすんだ? ああ? ドクズが。これでも、なぶり殺しにするために、手加減をしてやってたってことを理解してないようだな。わかったよ。さっさとすり潰されたいなら、お望み通り瞬殺でミンチにしてやるよ……」
凶悪な笑みを浮かべる白髪赤瞳のレイパード。七翼が羽ばたいた。光の白翼からは黄金の光線が、闇の黒翼からは漆黒の光線が、先程の光の傘とは違い、指向性をもってアクスただひとりに向かい、一斉射で放たれたのだった。
一発一発が聖光クラスの黄金と漆黒の光線が入り乱れて波となり、瞬刻瞬きする間も与えずにアクスを飲み込んだ。
建物が揺れた。瞬間、世界から音がなくなった。
遅れて耳をつんざく爆音の余韻が、痛みを伴うほどに聴覚を激しく刺激した。もうもうと立ち上る砂煙。避ける暇など一瞬たりとも無かった。アクスが助かる見込みなど皆無であった。
「そんな……、アクス……」
アクスはさほど強くない。むしろ弱い。サガ・ローウェインには一刀のもとに斬殺されるし、影王シドンには両腕を斬り落とされて敗北しかけるも、アゼザルの力を借りてなんとか勝ちを拾い、風の広場ではレイパードに完敗という有様だった。そんなアクスがあの絶望的破壊の波の中で生き残れるはずがない。
「……終わったか……」
「アクスっ!!」
「……なんだと!? ……」
でも、彼はそこにまだ立っていた。剣に燈った蒼炎は消えず、緑眼に宿った闘志の炎をより強く燃やして。
「……な、なぜだ? どうして立っていられる? フル解放のあの破壊の波だぞ……」
「オレ一人ならそうだろうな。一片の肉片も残さず、消し飛んでいただろうな。けど、オレには仲間がいる。お前が否定した仲間がな!」
彼の傍らには、ボロボロだが、彼の脇をしっかりと固める頼もしい仲間たちがいた。
「どうしてアンタたちが……?」
「貧乳のあんたを助けにきたわけじゃないよ。あんたはおまけよ、おまけ」
と、アリア・シュテルが言う。
「待たせたな、アクス。にしてもひどいざまやな」
と、フェイ・ラオが拳をかざす。
「防御はフレーディア卿とフェイに。足止めはぼくとアリアが担当します」
と、フィガー・フィルファディアスがしぶしぶといった感じで頷きかける。
「ギリギリ間に合ったかな?」
と、レシア・フレーディアがアクスを見つめる。
「どうやら合聖神化は行われてしまったようだけど、まだ完全ではなさそうね。今ならまだ最悪の事態は防げそう。でも、『神の力』はすでに取り込まれてしまっているようね。そして、悪魔の力も。悪魔召還の形跡が窺えないことからして、彼自身が悪魔にでも憑りつかれていたと考えるのが妥当かしら?」
さすが魔導師と謳われるだけのことはある。レシアはレイパードの姿を一見しただけで、だいたいの状況を理解した。そして、その脅威についても正確に。
「アクス、力を貸して。不完全とはいえ、あんな怪物を野放しにはできない。今ここでカタを付けるべき!」
「レシア、そいつはオレのセリフだ。みんな、オレに力を貸してくれ!」
と、アクスはレイパードに向かい、一気に駆け出した。
「オレは弱い。正直オレ一人じゃどうにもならなかったろう。でも、オレには仲間がいる!すがれる仲間がいる!! 仲間がオレの強がりを叶える手助けをしてくれる!!」
「……わらわらドクズが増えたところで大勢は変わらぬわ!! すべて消し炭と化してくれる! ……」
「頼む! 守らせてくれ!! オレにもう一度生きるチャンスを与えてくれたユロを!! 後悔のどん底で、絶望の内に死ぬしかなかったオレに、手を差し伸べてくれたあいつを!!」
七翼が展開しかけるも、右羽の一枚にアリアの流星錘がからまる。
「怨鎖三式、開錠。翔けろ、双墜の風鷲ダーダネルス!! 魔弾蜂起の六射手!!」
空気をねじり、白い六つの弾道が強烈な風の魔弾を吐き出した。その魔弾がアリアが押さえる右羽を捉えた。わずかにバランスが崩れた。ほんの少しだがレイパードの攻撃タイミングをずらすことに成功した。誤差にして五秒程。
が、それくらいで七翼の展開を止められないのは承知済みだ。目的はレシアの詠唱時間を稼ぐことだ。本人も言っていたが、フィガーとアリアの目的はあくまで足止め。レシアの詠唱が終わるまでの。
「千年王土を構築する黒鋼翅の八支柱、それは天嶮の麗姿にして無謀の障壁、如何な光も阻む盾。それは無形の刃金にして屹立する絶峰、如何な闇も閉ざす盾。盾よ、守護せよ。汝が守護する領域こそが絶対王土なり!!」
前面に黒く強靭な巨大な盾が生み出された。さらにレシアはあの強烈な光と闇の光線群を詠唱だけで相殺するには強度不十分と、指で印を結ぶことで空中に魔法陣を描き、術の補強も忘れてはいない。
「浸鎖一式、開錠。拉け、白断鉄亀アイトロール! 羽砕き魔鐘鉄槌!!」
その強化版『不可侵王土』の盾を白く輝くフェイの拳が内側から打ち抜き、レイパード目掛けてすっ飛ばした。アクスのすぐ横を巨大な盾が轟然とすごい勢いで滑っていった。
ちょうど展開し終えた七翼から、そのとき無数の黄金と漆黒の光線群が一斉に放たれた。
「……しまった……」
白き悪魔は喉の奥で唸った。
射線が広がる前――光線群が拡散する直前――束のままの光線群が、強靭な黒き盾に洩らさず直撃し、全て相殺される。
先程アクスが助かったのも、フェイが白断鉄亀で黄金と漆黒の光線群の間に割り込ませた、このレシアの盾があったおかげである。
存分に役割を果たした魔法の盾と共に、無力化された黄金と漆黒の光線群は、無害なオーロラのような光と黒いもやとなり、空気に溶けるように霧散していく。
それを縦に引き裂いて、
「先に逝ってろぉぉぉぉぉぉ!!」
ぶんっ!! と、アクスは蒼炎を纏う剣刃を思いっきり振り抜いた。
ぎぅんっ!!
咄嗟、白い悪魔は手にしていた灰剣を真横に掲げた。アクスの蒼剣は蒼い火花を散らして、灰剣の刃面を斜めに滑り、大きく軌道を外した。それでも左側の三枚の翼を勢いよく灼き斬った。軌道をずらしたことにより、体を真っ二つにされずに済んだものの――――、
「……がっ、はぁぁぁぁぁっ!? ぐえ、すっ……、ぐぅおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!! ……」
暴走する内なる力が、レイパードという人間の殻を突き破って荒れ狂った。
所詮人間ごときの器で悪魔の力を御し、あまつさえ同時に真逆の属性『神の力』をも制御しようとするなど、もっともできるはずがなかったのだ。極めて微妙なバランスの上に均衡を保っていた相反する二つの力は、ちょっとした亀裂で自己崩壊する。
一度突き崩された反発し合う属性の力は、その持ち主にさえ制御することは難しく、如何な歯止めもきかない。荒れ狂うにまかせる他なかった。
噴水のように鮮血が飛び散った。
レイパードの背中を突き破って、短いもの、長いもの、折れ曲がったもの、ねじれたもの、開ききったもの、などなど。血に濡れた無数の歪な翼が不規則に乱れ生え、さながら触手のごとき動きで、切断されたミミズさながら苦しげにのたうつ。
アクスはその翼の狂走に巻き込まれぬよう後方に飛びすさった。
「……悪魔であるこのベロキアが人間ごときに……、お、お前はっ!? やめろ。イヤだ! 消えたくない、消えたくない、消えたくない……」
四つん這いでただでさえ白い顔を蒼白にし、レイパードは焦点の定まらぬ目で朦朧と繰り返し呟いていた。その間にも翼は、石床を跳ね上げ、階段を削り、大理石の柱を砕いて暴れ回るため、誰も彼には近付けなかった。
「……イヤだイヤだイヤだ! 喰われる!? やめろ。やめてくれ。来るな。来るな!! あああああああぁぁぁぁぁ!! ……」
何かに怯えるレイパード。異変は彼の内部で起こっていた。どこからともなく声が響いた。声はベロキアの意識に直接語りかけてくる。
「『神の力』を制御しきれないのは、人間の器ゆえじゃない。キミが抱える原罰のせいだ」
原罰とは、天界を追放された者に与えられた罰のこと。
「原罰には、不死と『神の力』の剥奪とがある。『神の力』の剥奪、すなわち『神の力』に対する拒絶反応が、悪魔であるキミは人より強いんだ。しかし、原罪は抱えていても、原罰を持たない人間であるボクなら制御しきれる。悪魔であり、人間であるボクならね。そして、ついに賽は投げられた。白き世界の牢獄は壊された。外の連中がキミの力をも暴走させてくれたおかげで」
悪魔ですらゾッとする冷たい声音が後を引き取る。
「――この身体が誰のものなのか。教えてあげるって以前言ったよね。この身体の中ではキミは異物。体内に入った雑菌が免疫作用によって殺滅されて中和・吸収されるのと同じ原理で、キミを殺すことなどもともと造作もないこと。ただ今までキミという異物の潜伏先が特定できなかっただけ。殺そうと思えばいつでも殺せたんだよ」
「……ままま、まさか合聖神化は、聖人を取り込んだのは、こ、このオオオ、オレを体内の奥底から引きずり出して、こ、こ、殺し取り込むためだったとでも言うのか……」
「さぁて、どうだろう? キミさえおとなしくしてれば、こうはならなかったかも」
「……まま、待ってくれ!! ……」
「待たないよ」
冷厳な声は命乞いすら許さなかった。
歪な翼の暴走が止まった。俯いた顔の口元がふと緩んだ。笑っている。その口から言葉が洩れる。
「この世界はキミが思うほどに優しくはない。不条理で、理不尽で……救いなんてものはないんだよ」
広間の空気ががらりと変わった。
「だから、ボクがこの世界を終わらせてあげるって言ってるのに。この不条理で理不尽な世界から、人類すべてを解放するため、ボクはそのための力を求めているだけ」
まるで桜吹雪。黄金と漆黒の羽根が突如、大量に宙を舞った。血に汚れたレイパードを隠すかのように。羽の幕に覆われる寸前、レイパードはふと腕を突き出した。
すると、見えない何かが、レシアたちを一瞬のうちに後方へと吹っ飛ばした。防御する間も無かった。本当の一瞬。
「レシア!! アリア!! フェイ!! フィガー!!」
レイパードから目を離せない。その場を動くことのできないアクスに代わって、ユロは叫ぶより早く、実際の行動を起こしていた。すなわち四人のもとへ駆け寄ること。
「アクス、大丈夫! 心配しないで。みんな、生きてる」
四人を襲ったのは衝撃波であった。紙切れみたいに飛ばされ、したたかに壁に叩き付けられた四人。ただでさボロボロだった四人は、くぐもった苦悶の声を洩らすのが限界だった。もはや立ち上がる気力も残されてはいない。だが、幸い四人とも生きている。それが救いだ。
「たしかに出力調整が難しいな。殺すつもりだったんだけど。暴発を危惧して力をセーブし過ぎたかな?」
羽の幕が晴れた。そこには、白かった髪が銀に、赤かった瞳が青に戻った無傷のレイパード・フォン・エルファレオが、灰剣を片手に、虚無的に頬を緩めて立っていた。
油断なくレイパードを視界に捉え、アクスは呟いた。
「……出て来やがったか」
ふと、自分の背へと向けられている視線に気付いてか、レイパードは口を開いた。
「ああ、翼か。大きな力を振るうにはいいんだけど、案外脆いようで。弱点をさらしておくわけにもいかないだろ」
背から生えていた翼はすっかり消えていた。
「ついでにまた完全回復かよ。キリがねぇな、ったく。こっちはもう虫の息だってのに。
――でも、捨てたモンじゃねぇな」
「何が?」
不遜な笑みを引っ込め、レイパードは聞き返した。逆にアクスは不敵に微笑み、
「殺すつもりだったんだろ? なのにレシアたちは死んじゃいない。お前が暴発なんか恐れるもんか。お前は無意識に力をセーブしたんだ。つまるところお前も心の奥底では、まだこの世界に絶望なんかしていないんだってわかったことがだよ」
レイパードの顔から完全に表情が消えた。まるで鋼鉄の仮面を被ったように。
「殺さなかったのは助けてほしかったから。誰かに止めてほしかったからじゃないのか?」
「キミにボクの何がわかるって言うんだ。力もないくせに驕るなよ」
レイパードの目がみるみる吊り上がり、刺すように鋭くなる。
「そういうお前は力があるのに、ただ逃げてるだけじゃないのか? この世界から。この不条理で、理不尽な世界を終わらせて、人類すべてを解放してやるって? 驕ってるのはどっちだ!! それっていわば、ただ単にスケールのでかい手前勝手な自殺じゃねぇか! この世界から逃げてる以外のなにもんでもねぇだろうが。ふざけんな! そんなもんに人類すべてを巻き込むんじゃねぇよ!!」
「ボクが逃げてるだって!? キミは何も知らないからそんな風に言えるんだ! ボクはただただあの子を救いたかっただけなんだ! でも、救えなかった。それなのに、あの子のいなくなった世界で、こうして今もボクは生かされ続けている。死ぬことも、狂うことも許されず……。それがどれだけ苦痛か。キミごときにわかってたまるか!」
「だから、こんな馬鹿げた世界なんて、滅ぶべきだって論理か?」
レイパードはキッとアクスを睨み付け、押し黙った。
名前も顔すらも長い年月で忘れてしまった――忘れざるを得なかった――少女のことを思い、レイパードは世界を呪う。救えなかった少女への自責の念を抱えたまま、少女を恨むこともできない心優しかった青年は、代わりに世界を呪い、救いとしての死を求めた。
「それこそ逃げてるってんだ! 思い返せよ。当時のお前はなんもかんもかなぐり捨てても、あの子ってのを救いたかったんだろ。すべてをなげうってでも、助けたかったんだろ。でも結果、救えなかった。じゃあ何か? 何もしなければよかったなんて後悔してるのか? 違うだろ。あの子なんて関係ない。あの子の気持ちなんて知ったこっちゃねぇ! お前が、お前自身が救いたい、助けたいと思ったんだろうが!! その気持ちに嘘偽りはなかったはず。全部お前が望んだことだろうが! 自分の気持ちからも逃げるなよ。そんときの思いを否定してんじゃねぇよ! せめて自分の気持ちくらいは責任持てよ」
いつになく熱く語るアクス。アクスはレイパードの姿に、自分の姿を重ねて見ていたのかもしれない。ちょうどユロを救いにやって来たアクスと、数百年前にあの子を救おうとしていたレイパードの姿は重なる。
血にまみれ、瘴気に蝕まれながらもそれでもガレキの中に凛と立つ赤髪緑眼の少年を、レイパードは胸中に広がる苦いものを噛みしめながら、複雑な思いで見つめる。
「…………………、」
「しかし、だ。たとえお前にどんな事情があろうと、止むに止まれぬ事情があったとしても、お前がユロから大切な人たちを奪った事実は変わらないし、誰かを傷付けたり、悲しませてもいいという理由にはならない。これ以上の悲劇を生み出さないためにも、ここでオレがお前を止めてやる!」