第四十話「合聖神化」
「闇を魅入るは、群青に制せられし智天の御使い、闇を駆るは、深緑に染められし熾天の御使い、闇を司るは、白銀に侵されし座天の御使い、闇は邪、邪は混沌、混沌は闇、堕天の領域を守護せし汝ら、反天の御使いに乞い願う。『緋石』に眠る秘めたる力を喰らいて、この躯の死杯天秤を逆さにせしことを!!」
ユロの力ある言葉に呼応して、聖櫃から黒いもやが聖骸の発する光を閉ざし、溢れ出した。ちょうど開きっぱなしの蛇口の真下に置いたコップから、水が溢れ出すように広がる。周囲の空気が鉛を含んだように、急に重々しく感じられた。
レキ・グロリアとの戦闘で隻腕となったレイパードが、聖櫃に向かってまっすぐ階段を昇ってくる。
聖人の放つ魔が魔がしい力を目の当たりにしときにはもう、ユロの腹は決まっていた。
――殺す。アタシから二度も大切なものを奪ったあの男を。許せるわけがない。もうこれ以上の悲劇はたくさんだ。ここで終わらせる。
すでに腹はくくった。
干からびた指が聖櫃の縁にかかる。首の無い聖人がむくりと半身を起こした。
殺す力ならここにある。
灰剣を手にした銀髪の青年は、無警戒に聖人に近付いた。今にも崩れそうな枯れ枝のごとき足で、聖人が直立する。呼吸のように黒いもやが聖人の全身から吐き出された。先程まで聖人を覆っていた眩い光は今や闇に閉ざされ、それはまるでユロの心の内を示すようだった。
首の無い聖人がおもむろに腕を上げた。
「目の前のそいつを殺して!!」
「これで最後ならいいんだけど……」
レイパードはあまりに無防備だった。人生に疲れた老人のように小さく呟いた青年の心臓を、光の筋が貫いた。
背へと抜ける光の線。飛び散る鮮血。
アギレラは悲鳴を上げるのも忘れて、コマ送りのようにレイパードが後ろに倒れるのを見送った。
……やった。腰が抜けたのか、ユロはぺたりとその場に座り込んだ。
だが、悪夢はまだ終わっていなかった。
「心臓を貫いたはずなのに……?」
黒いもやを自身の眷属のように従えて、胸を赤黒い血に染め、レイパードはゆらりと立ち上がった。まさに悪夢だ。なぜこの男は死なない? 狙いを外したのか? いや、そんなことはない。確かに心臓を貫いた。
「もうとっくにボクは普通のヒトではないんだよ」
「……アンタ一体何を言ってるの?」
「悪魔と同化した者の末路がここにある」
目の前に立って微笑んでいる青年がひどくやつれて見えた。生きることに飽き、世界に背を向けた、孤独な老人の影をそこに見た気がした。
遠い遠い昔のことだからもう名前も覚えていなかった。ちょうどアギレラのように短い髪の活発な女の子だった。ただレイパードはその子を邪教徒から救い出したかっただけだった。でも当時、彼にはそんな力は無かった。だから悪魔に縋った。それがいけなかった。結局その子を救い出すこともできず、彼はヒーローになることもできず、魔道に堕ちた。そして、その子の後を追うことも許されず、今もなお生かされ続けている。一体何の拷問だろう。この仕打ちは。悪魔に魂を売り、悪魔と同化した哀れな青年の馬鹿げた話。
「もう無駄な邪魔はしないでほしいね」
静かながらも有無を言わさぬ声。冷水を背中に浴びせられたようにぞくりとして、地面に足が縫い付けられたみたく、その場を動けなかった。
レイパードの事情や意図なんてユロは知らない。詳しいことはわからない。知りたいとも思わない。でも、二つはっきりとわかったことがある。
自分では到底敵わないという事実。
と。
どうしようもないという現実、だ。
完全にユロの戦意は砕かれた。絶望が彼女の心にじわりと広がった。
レイパードは朗々と呪を唱える。
「闇に同化するように、暗黒に飲まれる光があるように、混沌は正邪すべてを併せ飲む。そこに善はない。そこに悪はない。そこにあるのは混沌。すべての法則を超越し、同時にすべての定理を併せ持つ。我が血肉を媒介に、混沌よ、飲み込め!」
カチッとスイッチが入るように、事前に腹に刻んであった魔法陣がレイパードの呪を合図に起動する。レイパードから広がる闇が聖人を飲み込んでゆくのを、ユロはただ呆然と見ているしかなかった。そこには深い深い闇が口を開けていた。
術式の名は『合聖神化』――――
不死なる男は、自らを殺すため、また世界を終わらせるために、人の道すら踏み外す。死ねないというのがどれほどの地獄か。助けたかった女の子の名さえ忘れなければならず、きっとその顔を名を覚えていたら彼女を恨んでいたに違いないと断言できるほど、気の遠くなる時間を彼は生きてきた。狂うことも許されず。
いずれ千切れた腕も、貫かれた胸も、何事もなかったように元通りになる。不思議と頬の傷だけはそのままだが。そうしたら、生きる意味も価値ももう見出せないのに、また生きていかねばならない。果たしてあと何百年、大切な人のいない世界を自分は生きねばならないのかと考えたとき、それが偏に恐ろしかった。彼にとって死とは救いなのだ。
彼は知っている。悪魔を完全に殺す法が無いことを。悪魔と同化した自分もまた完全には死ねないということを。
余談だが、魔法というモノが廃れていく時代の流れで、魔装といういかがわしいものは消える気配もなく、世界に溢れているのはなぜか、ということを考えたことはあるだろうか。それは悪魔を殺すことのできない証拠。封じることしかできなかったから、魔装というものが生み出されたのだ。魔装は連綿と古くから今も受け継がれ続け、世界に確認されているだけでも一万を超す。それを壊すことも、それが壊れることもなく、持ち主を変え、長きにわたり、悠久の時を生き続ける。
悪魔自身も自分たちがこの世の終りが訪れるまで死ねないのを知っている。それは天上に住む世界を統べるものによって与えられた『原罰』であり、天上を追放されたものに押された烙印。だからその烙印を消そうと、ある悪魔は塔を築き天上へと攻め上がろうとした。またある悪魔は考えることを放棄し、世界が終わるのをひたすら待つ道を選んだ。
レイパードに不死を与えた悪魔も、途方もない時間の流れに考えるのをやめたクチだ。だが、同化したからといって狡猾な彼らがその力のすべてを委ねるわけもなく、不幸にもレイパードは不死のみを押し付けられたのだった。
「やっとここまで辿り着いた……」
それゆえ彼は魔装を手にしていた。悪魔であるとはいえ、力は非力な人でしかない彼が、どれほどの時間を費やして力を付け、ここまで来たのか。言語に絶する苦難の道だったのは想像に難くない。
人ならざる悪魔である彼が、ほぼ存在上同価値と言える聖人を取り込むことは、すなわち生命の樹を逸脱した超越者となることを指す。天上に住む世界を統べるものが決めたルールを無視する存在となること――いわば別世界の神となるのだ。そうすれば、彼の望みは叶えられる。レシアの言を借りるならば、存在法則を無視した人工天使もしくは人為的な神と、それはイコール。またレシアは『世界の均衡、いわゆる法則性が崩されるのは必至。つまりそれは世界の終焉を意味する』とも言った。例えるなら一つの国に二人の王がいるのと同じ状態になる。トップが二人いて、国という組織が正しく機能するわけがない。それは世界も同じだ。自然、崩壊するのは必定。それこそがレイパードの望み。大切なものを守らせない、くだらないこの世界に終わりを告げ、自身も死ぬことこそが唯一の目的。
「さぁ、すべてを終わらせよう」
レイパードの身体から発する深い闇が、悪魔に匹敵する力――『神の力』とでも言うべき力――を内包したミイラを、喰らい尽くすかのように取り込んでいく。
「キ、キミは……こんなところで、がっ――ああああああああああああああああああっ!!」
「レイパード様っ!?」
何が起きたのか、突如レイパードの身体が小刻みに震え出した。明らかに苦しんでいる様子。しかし、膨れ上がる闇は止まる気配を知らない。むしろ勢いを増して、レイパードの身体すら喰らうように、周囲へと広がる。
ユロには目の前で何が起こっているのか、全く理解できなかった。けど、彼女の本能は告げていた。是が非でも止めなければ取り返しのつかないことになると。
術式は着々と進行している。『合聖神化』が止まったわけではない。
左腕が左足が闇に喰われた。聖人の左半身はもはや見えなくなっていた。闇は深さを増して、獰猛に全てを喰らい尽くそうと、何もかもを覆い、闇色に染め上げるその魔手を止めることはない。
手遅れになる前に……
「眼前の敵を破砕しなさい!!」
ユロの命に従って、聖人の右腕がぎこちなく動いて、邪悪を灼き祓う聖光を手の平に宿した。
「おおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
レイパードは狂ったように咆哮を上げた。額や右腕に血管が浮き上がり、黒目がせわしなく動き――白目をむいた。そして、首ががくんと落ちた。レイパードの動きが完全に止まった。
今しかない。聖人の右腕が、聖光を宿す手の平が、レイパードの顔を灼き払うべく向けられた。が!? 唐突に聖人の右手がぐるんと翻り、ユロの方へとその牙を剥いた。
レイパードは顔を起こした。銀だった髪が白に、青かった瞳が赤に変わっている。
「……オレは手に入れた。クソ忌々しい天界の豚どもを引き裂く力を。これで心置きなく『降魔塔』を創出できる。邪魔すんじゃねぇよ、人間風情が……」
さっきまでの口調が一変、まるで別人のようだ。
気付けば、聖人は右手を残し、ほとんどが闇に飲まれていた。レイパードも顔半分を残して、闇に溶け込むように覆われていた。その闇に翳る顔が最後に裂けるようにニヤリと笑った。
そのとき、聖光がユロに向かって放たれた。さっきレイパードの心臓をぶち抜いた凶悪な光だ。喰らえばユロなど跡形もないだろう。
けど、もはや彼女にはどうすることもできなかった。
「アクス…………」
ユロは最後にその名を呟いた。
ほぼ同時にレイパードは聖人を取り込んで、その姿を一時、濃い闇の中へと消したのだった。