第三十九話「魔法使いのフィールド」
古い羊皮紙、今にも崩れそうなひび割れた杯、欠けた石版、歴史を感じさせる赤銅色に錆びた短刀、鈍く今も光る首飾り、不気味な石人形など多数のそれらしい遺物が納められたガラスケースが、一階の特設展示場にはずらりと並んでいた。ちょうど四竜によって破壊された入口の内側。これらにさしたる歴史的価値はないが、大陸一の博物館の展示品としては、それなりに体裁を保ち、十分に客寄せとしての役目は果たせる。
が、衆人の目に触れぬのならば、それらになんの価値があろうか。
『一〇〇年ぶり、世紀の発見!! 二十七番目の遺跡展』という垂れ幕も同様に、吹き抜けのロビー天井でむなしく揺れていた。
「気配が濃くなってきた。でも……」
無人の展示場――ショーケースの間を縫うように駆けながら、レシアは素早く周囲に目を配る。誰もいない博物館。ふと、レシアは急に足を止めた。
「どうした?」
アクスが怪訝そうに振り返る。左腕の先が青紫に染まっていた。先程の空中での摩装開錠の影響だ。
レシアはぐるりと辺りを見回した。
「さっきからずっと同じ所を走らされてるような」
「そうか?」
「しーっ」
と、レシアは人差し指を唇に当てた。
「……静か過ぎない?」
言われてみれば、なんの物音ひとつしない。四竜はどうしたのだろう? 外からの音がしないのは不思議だった。そういえばこういう雰囲気には心当たりがある。
「もしかして閉鎖空間か?」
「それもかなり広範囲に複雑に入り組んだ、ね。いつこの空間に巻き込まれたのかもわからなかったほど。現実との区別もつけにくい精巧さね。相当な術者の仕業と思われる」
魔導師レシアが顔を出す。いきなり水平に広げた両腕を直角に折って、レシアはその腕を胸の前で組んだ。
「でも内側からなら干渉できる」
と言うと、術式の詠唱に入った。
「大いなる翼に抱かれし無垢なる月よ、汝は夜を灯す光にして夜に影を産むもの。闇なる地に光明を、そして二なる闇を、すべて汝がもたらす。月影すらも汝の前では、寂寞たる白光の内にて閉ざされる。其を星々は偽光の闇と呼ぶ」
レシアが垂直に腕を突き出すと、目映い光が溢れ出した。月の光が天使の翼の隙間から漏れるようなイメージがふと浮かんだ。アクスははじける光に一瞬目を瞑った。
光が去り、目を開くと、錫杖を手にした青い司祭服の男が眼前に立っていた。どこにでもいる平凡な顔の男。まったく特徴がないところが特徴だといえる顔つきの男だった。
「閉鎖空間に閉鎖空間をぶつけて相殺するとは。いやはや驚きです。燃えてる火を大量の油で窒息させて消すような無茶なやり方だ。場合によっては空間の崩壊に巻き込まれ、一生この空間に閉じ込められるトコですよ」
レシアはそんな危なっかしいことをしてたのかと、隣の可愛らしい少女を見る目が変わる。肝が据わってる。逆にアクスは頼もしいと思った。
「これくらいしないとあなたの創り出した閉鎖空間からは抜け出せない」
「さすがは白亜聖女と謳われるレシア・フレーディア卿だ」
ニコやかな笑顔を見せながらも、ゼノンはレシアの動きから一切目を離さない。それはレシアも同じだ。完全にアクスは蚊帳の外。
「アクスは先に行って」
「しかし……」
逡巡するアクスにレシアは冷たく言い放った。
「ここは私たち魔法使いのフィールド。アクスがいるべきフィールドじゃない」
言下に足手まとい扱いされながらも、なおも逡巡するアクスに、今度はレシアは噛んで含めるような言い方をした。
「アクスはユロさんを助けたいんでしょ? そのためにここまで来たんでしょ。じゃあ取るべき行動はひとつじゃない。私は大丈夫。こう見えても世界に九人しかいない魔導師なんだから」
にっこりと笑ってレシアは言った――はずだったのに。別れを予感したのか、笑顔に涙がこぼれた。
「あれ? おかしいな。なんでだろう。変だね、私。でも、大丈夫だから」
必死に涙を拭いて言う姿が健気だった。
アクスは優しくレシアの頭を撫で、頬を伝うなみだを指で拭った。
「待ってるから。レシアが来るまでオレ、死なずに待ってっから」
核石を砕かれたアクスが唯一できる最低限の約束。
「うん」
レシアは泣き笑いの顔で、大きく頷いた。
言うと、アクスは二、三秒レシアの瞳を見つめて、すっと踵を返し、その場を後にした。
「ひどいね。小さな女の子を残して、自分だけさっさと逃げるなんて」
「くだらない挑発ね。アクスは私を信じてここをまかせたのよ。あなたこそこの場をまかせられたのなら、アクスを追うべきじゃなかったの?」
金髪おかっぱの可憐な少女は、試すように眼前の平凡な顔の男を見据えた。
「さほど攻撃魔法――黒系に特化していない白系とはいえ、魔導師に背を向けるほど私は軽々しくはありませんよ」
「さすが鏡幻透と謳われるゼノン・ガーレスト――とでもいうべきかしら?」
シニカルに微笑み、相手を挑発する。魔術師の中でも五本の指に入る、最も魔導師の位に近いと言われるほどの男が、そんなやすい挑発にのるわけがなかった。冷静さを失えば集中が阻害され、術の精度が落ちる。魔術師・魔導師という人種は、特に術を発動する前後では、氷のように感情を凍てつかせ、機械のように冷静無比であらねばならない、と教え込まれている。
ゼノンは優雅な所作で腕を胸の前へと回して目礼をした。
「光栄です。わたしのことをご存知とは」
しゃあしゃあと言った。
レシアは挑発の無駄を悟り、話題を変える。
「竜祭司だけじゃ飽き足らず、幹部であるあなたまで派遣されていることからして、異端審問局は完全にイーア・メノスと袂を分かち、混沌教団に与する方向に舵を切ったようね」
「買い被り過ぎですよ。私ごときが出張ってるくらいで」
ニコやかに応じるゼノンに、レシアは単刀直入に切り込んだ。
「やはり聖櫃が狙い? それとも合聖神化への学術的好奇から?」
「なるほど、噂に違わぬ聡明さだ。そこまで把握しているとは。けれど、そのどちらでもありませんよ」
どこかあきらめに似た表情を浮かべ、異端審問局の青い司祭は首を左右に振った。
「子が親に逆らえぬ道理ですよ。すでに異端審問局は彼らに実質支配されている。私がかつて所属していたイーア・メノスの異端審問局はもうありません。当初の理念を失い、彼らの外部機関に成り下がってしまった。本当に彼らはおそろしい。フレーディア卿、あなたが思う以上に彼らは我々の近くにいて、あらゆる組織に密かに潜み、根深く根を張っています。そしていつの間にか組織を内から乗っ取ってしまう。その実、何かを企て実行しようとするも、乗っ取った外部機関を矢面に立たせるから、彼らの全体像を窺い知ることはできない。全く得体の知れぬおそろしい組織ですよ。彼ら混沌教団は」
そこでゼノンはふぅーと大きく息を吐くと、
「とまれロアにも彼らはすでに潜んでる。ウハツラ枢機卿が管轄なされている西方教会省、卿が議長をされている評議会第十三室のロンベルク聖教一致推進評議会などは、注意するに越したことはありませんよ。我々の二の舞にならないよう」
「敵方であるあなたがなぜ私にそんな情報を与えるの? なんの思惑があって?」
疑わしい目を向けてレシアは訊いた。自分の組織の内情をさらしてまで、レシアに情報を与えることに、ゼノンとしては何かメリットはあるのか?
「思惑などありません。信じるも信じないも自由。ただ私が万が一ここで倒れたら、この情報が闇に消えるのがなんとなく癪だと思っただけなので。小心者の精一杯の反抗ですよ」
ゼノンは鼻の横を掻いた。
情報の真偽はあとで調べればわかる。ここでこれ以上、その信憑性を問う必要はないと判断したレシアは、さっとゼノンから距離を取った。
「その口ぶりからすると、あくまでやるつもりね」
「もちろん。小心者なんで、おおっぴろに逆う勇気は持ち合わせていませんから」
言うや早いか、早速ゼノンは錫杖を振った。錫杖から魔力によって生み出された風が発せられる。見えない風の刃が床板を跳ね上げて、まっすぐ走る。レシアは飛び退きながら、詠唱に入った。ゼノンはすでに詠唱に入っている。詠唱なしの術では威力に欠けるが、術発動の時間が短くて済むので、牽制ぐらいには使える。再びゼノンは錫杖を振って、風の刃を生み出した。
風を裂く音を左に躱したレシアに、ゼノンが力ある言葉を放つ。
「……その務めは無慈悲な制裁。我が前に立ち塞がる魯鈍なる賢者を焼き尽くせ!!」
それは以前、ユロが影王シドンに向かって放った炎術『荒ぶる金羊』だった。しかし、あのときのユロのものとは比較にならない凄絶な火球――まさにすべてを焼き尽くす小さな太陽と見紛うほどの火球が、周囲の展示ケースを無造作に焼き払い、レシアに殺到する。
ガラスケースに挟まれた彼女には逃げ場がない。はじめの二発の風の刃で、ゼノンは彼女をこの逃げ場のないコーナーに追い込んでいたのだ。なんたる周到さか。しかし、レシアもその程度は見通している。またゼノンの詠唱が早いと見るや、相手の術式を判別し、そこから相手の術に合わせた術式を逆算、淀みなく組成・展開する。
「千年王土を構築する黒鋼翅の八支柱、それは天嶮の麗姿にして無謀の障壁、如何な光も阻む盾。それは無形の刃金にして屹立する絶峰、如何な闇も閉ざす盾。盾よ、守護せよ。汝が守護する領域こそが絶対王土なり!!」
声が震えた。けれども、術式『不可侵王土』に影響はなかった。
熟したトマトが壁にぶつかってぐしゃぐしゃにその果肉を撒き散らすかのように、火球は突如出現した黒き盾に遮られ、劫火を辺りに撒き散らして、やがて霧散した。
強靭な盾に囲まれながら、レシアは次の手を考える。おそらくゼノンはこの盾が消えると同時に、何かを仕掛けてくると見て間違いないだろう。ならば転移術で一度距離を取ってから、攻撃へと転じるべきか。そんなこと相手は見越して、転移術封殺の対抗術式を組んで待ち受けているかもしれない。時間にしてほんの二、三秒。一瞬にして考えを巡らせ、レシアは行動に移った。ピンクのポシェットから極彩色のタロットカードを取り出した。そして、そのすべてを素早く盾の内側にびっしりと張り付けつつ、併せて呪を紡ぐ。
はじめの閉鎖空間といい、さっきの風の刃といい、ゼノンはいきなり勝負を仕掛けてくるようなタイプではない。よく言えば慎重、悪く言えば決断が鈍いともいえる。まずは牽制を入れて、こちらの動きを見るという行動に回ると思われた。
魔法によって具現化された盾が、徐々に消散するのと並行して、貼られてあったタロットが桜吹雪のようにひらりと宙に舞う中、レシアの姿が露わになっていく。
立て続けに二度、ゼノンは錫杖を大きく振った。
交差した風の刃がレシアを襲う。ふと、レシアは不敵に笑った。瞬間、無残にタロットはズタズタに風の刃に散らされた。そこにレシアの姿は無かった。つまりそれはレシアが転移術を使ったことを意味する。
かかった。とばかりにゼノンはほくそ笑んだ。準備していた転移術封殺の対抗術式を発動させる。
「……闇夜にからめ、蠢く亡者。羽をむしりて足を削ぎ、影に寄り添え、這いつくばるがいい。すべてが自由を縛る枷。叫べや叫べ。もがけよ、もがけ。すでに空を舞う羽もなし。自在に踊る足もなし。むなしくひれ伏せ、闇夜に溶けよ」
ゼノンは一気に対抗術式の最後のくだりを詠唱しきった。
対抗術式とは、言うなればトラップ――落とし穴のようなもので、相手がその上を通りかかるという限定条件下で発動するもので、相手がその上を通りかからねば落とし穴に落ちないのと同じで、条件が揃わないと術は無効化されるが、一度条件が揃い、発動してしまったら相手を即死に至らしめるほどの絶大な効果を得られるのが特徴である。だが、非常に詠唱時間が長いため、また条件についても対象相手が転移術を発動直後といった、相手のタイミングに左右されるケースが多いので、対象者の行動を予測して詠唱に入っていないとほとんどが間に合わない。
でも、今回は完璧に決まったはずだった――なのに、一向に対抗術式が発動した気配がないのはなぜだ? とゼノンが訝しんだそのとき!?
無数に切り刻まれた極彩色のタロットが散らばる中央に、レシアの姿を認める。ピンクの可愛いフリルの服が切り刻まれ、二の腕や太もも、頬やひざ、肩や首筋に痛々しい裂傷を負いながら、そこに立っていた。レシアは腕を突き出した。
「……その務めは無慈悲な制裁。我が前に立ち塞がる魯鈍なる賢者を焼き尽くせ!!」
満を持して、レシアの腕からは凄絶な火球がほとばしった。
タロットは単なる目晦ましでなく、姿を消す術式を行使するための詠唱の代償行為であった。そして、息を潜め、悲鳴すら上げず、カードを切らせることで、レシアは自分が切られているのを隠し、転移術を使ったように見せかけたのだ。
「あなたのその豪胆さと緻密さに完敗です。さすがは白亜聖女」
ゼノンの体が劫火に包まれ、断末魔の声もなく、あっという間に消し炭と化した。
「――それがゼノンの最期の言葉だった。なぁんてね」
声のした方を振り返る。レシアの目が見開かれた。
そこに立っていたのは、どこにでもいる平凡な顔をした青い司祭――ゼノン・ガーレスト、その人であった。
ゼノンは錫杖の鋭く尖った先をレシアの心臓に向けていた。少しばかり錫杖を突き出せば、レシアの心臓を串刺しにできる位置だ。
「……どうして?」
声が掠れているのが自分でもわかった。
「私の通り名は鏡幻透――鏡に透ける幻。フレーディア卿、あなたは私の幻を相手にしていたのですよ」
「まさか幻術……」
「そのまさかですよ。閉鎖空間は幻術を隠すためのダミー・トラップ。さっきのあなたのダミー・トラップも見事でしたけど、私のもなかなかでしょ?」
ゼノンは目だけで笑った。不意に視界の端に何かを捉える。ゼノンは咄嗟、後方に飛び退いた。
「うわっ、あっぶねぇっ!?」
今の今までゼノンがいた場所に、巨大な半月形のギロチンが天井から落ちてきたのだった。
その間にレシアはゼノンから離れた。体中の裂傷がヒリヒリと痛んだ。ひとつひとつは致命傷ではないが、ともあれ出血量が多い。たいして動きもしてないのに息が弾んだり、時々、頭がくらっとくる。軽い貧血か。
「最初の詠唱でこいつを仕込んでたのかぁ。なんて思慮深い人だ。一筋縄ではいかないのはわかってましたけど」
役目を終えたギロチン――術式『懺悔王の断頭台』が、『不可侵王土』の盾と同じように、キラキラと光の粉を舞い上げ、雲散霧消する。
「ギロチンの術式を維持しながら、盾に姿を消す術に『荒ぶる金羊』と立て続けに、しかもその傷で。侮ったつもりはありませんが、まだまだあなたという魔導師に対する認識が甘かったと言わざるを得ないようですね」
「……皮肉? あなただって幻術を駆使しつつ閉鎖空間や『荒ぶる金羊』を並行して発動しておいて。さらには対抗術式まで展開してたくせに」
「対抗術式は不発です」
余裕ある笑みを浮かべて、ゼノンはしれっと応じた。反して、レシアの表情は逼迫していた。
ダメージを鑑みても、また魔力的にも自分の方が断然不利だと、レシアは冷静に分析していた。なぜなら彼女はアクスの心臓とも言うべき核石の代わりを担い、彼への魔力供給をずっと継続しているからだ。アンデッドの身体――いわゆる死肉が腐らぬよう常に生きてるときと同様に、血を循環させる機能を果たす核石は、絶えず無意識に周囲から発せられる魔力を集めて機能を維持しており、それを人為的な魔力供給で代替するには、時間経過に比例して莫大な魔力を必要とする。ちょうど蛇口を開けっ放しにして、水を出し続けているような状態だ。水も魔力も限りがある。
核石をレイパードに破壊された今のアクスにとって、レシアからの魔力供給は生命線であり、それを断たれたらものの数十分で行動不能に陥る。さりとてその魔力を戦闘開始時にカットしていれば、ゼノンなど一撃で葬り去る魔導式と呼ばれる極大術式を発動させるチャンスは幾らでもあった。けれども彼女はそれをしなかった。
今、アクスの力になれるのは自分しかいないんだ。という強い思いがあったからだ。
「たとえ這ってでもオレは行くよ。ユロを必ず救い出す。ただそれだけだ」
と言ったアクスの言葉が不意に耳に甦っても、それでもレシアの思いは揺るがない。どれほど傷付こうが、どれほど不利な立場に置かれようが、自分を顧みてもらえずとも、レシアはアクスに魔力を送り続ける。そういう一途さが彼女にはある。
「次は確実に潰しにかからせてもらいますよ」
またもやゼノンは左手の錫杖を無造作に振った。
「はぁはぁはぁ……」
荒く弾む息。傷が熱を帯びる。滲み出す血を拭う暇もない。ゼノンが連続で風の刃を放ってくる。レシアは必死に近くの大理石でできた柱の陰に駆け込んだ。
もはやレシアには魔導式を発動するだけの大魔力はない。ましてアクスへの魔力供給を考えると、通常術式もあと一回が限度である。
柱に身を潜め、自身に問う。
考えるのよ。この状況・条件で鏡幻透を無力化するにはどうすればいいか。確実にかつ効果的に残り一回の術式を叩き込むにはどうすればよいか。私にできることは何? 何が使える?
背には大理石の柱。相手の攻撃は防げても、いずれ回り込まれたら終わりだ。ただ攻撃を防ぐことはできても、この柱を利用して、相手を攻撃することはできない。他には何かないの? 周囲に目をやる。めくれ上がった床板、ガラスの破片、天井から下がる垂れ幕、無作為に転がる展示品の数々――消し炭と化した書物や折れた矢じり、細かく砕けた石版、焼けただれた人形や鏡などに交じって、ほぼ無傷のタロットカード数枚が目に留まった。しかもそれらは、手を伸ばせば届く距離にある。レシアはさっと手を伸ばした。すかさずゼノンが錫杖を振った。風の刃が柱を削る。レシアはなんとか四枚のカードを手にした。
「そんなもので、一体何をしようというのですか?」
レシアは手元のカードを確認する。ワンドの9、世界、戦車、ソードの8――の四枚。このカードで何ができる? ワンドの9はたしか『抑圧された状況における強さ』、世界は『完全・総合・成就』、戦車は『援軍・征服・勝利』、ソードの8は『非難・拘束された力』を表す。だが、この四枚じゃあどうしようもない。まるで統一されたイメージが沸かない。
ふと、レシアは手元の世界のカードがさかさまなのに気付く。さかさま――逆位置なら世界はたしか『臨界点・調和の崩壊』という意味がある。戦車はどうだろう? そうだ! 『暴走』という意味を持つはず。『抑圧された状況における強さ』、『臨界点』、『暴走』、『拘束された力』のこの四枚のカードなら――と、レシアの頭にある策が閃いた。
「悪あがきせず、出てきたらどうです? 既にもうチェックメイトなのは明白でしょうに」
カードを胸に抱き、柱の陰で息を潜めるレシアに、ゼノンは勝ち誇ったように言った。やはり私は優秀なのだ。なんせ魔導師を手玉に取り、こうして優位に立っている。魔導師を倒したとなれば、あの男も私の力を改めて見直さざるを得まい。と、レイパードによって傷付けられた自尊心をわずかなりとも回復する。
「素直に出てくるなら、悪いようにはしませんよ」
レシアは血と共に垂れる脂汗を乱暴に拭うと――――
苦肉の策とも言うべき考えを実行に移すべく、意を決して柱の影から飛び出した。続けざまゼノンは風の刃を放った。レシアが散らばった残骸につまづき、転んだ。いや、つまづいたフリをして、わざと転んだ。その頭上を風の刃が通過していった。そうとは気付かず、態勢を崩したレシアにとどめを刺そうと、すでにゼノンは詠唱を始めていた。
「荒ぶる光を象る金羊よ、汝に求めるは火すらも滅ぼす烈しき火、それは火の上に君臨する火、炎なり」
火の術式だ。レシアがわざと転んだのは、身動きが取れない状況に自身を追い込むことで、相手の術の発動を誘うのが目的だった。ずばり相手と同じ術式をほぼ同タイミングで発動するため。
わずかに遅れて、レシアも同じ術式の詠唱を始めた。
まもなく術式が完成する。これで終わりだとばかりに、ゼノンが薄く微笑んだ。
「その務めは無慈悲な制裁。我が前に立ち塞がる魯鈍なる賢者を焼き尽くせ!!」
「――を焼き尽くせ!!」
木霊のようにゼノンの言葉尻にレシアの詠唱が重なった。二人の掌からほぼ同時に凄絶な火球が解き放たれた。火球は二人のほぼ中央で勢いよく衝突し、激しく爆発した。
「『術式暴発』を狙ったのでしょうが残念。この程度の爆発では、せいぜい視界を塞ぐ程度が関の山。無駄な悪あがきを。この爆発が晴れたら終わりです」
と、爆発の向こうでゼノンがせせら笑った。
同系統の属性――今回の場合は火属性の術である――がぶつかり合うと、その力が拮抗している場合、稀に『術式暴発』といって、何倍にも膨れ上がった魔力の乱流による術式の暴走が起こることがあった。しかし、それは極めて低い確率であり、通常では起こり得ない。
「さぁ! アルカナの子ら、出番よ。存分に働きなさい」
その爆発にレシアは四枚のタロットを投げ入れた。そして今使える魔力のすべてを注ぎ込む。
「抑圧された状況における強さを見せなさい。拘束された力を解放するのです。はるか臨界点を突破し、暴走せよ!!」
爆発の中に小さな爆発が。またプチ爆発。炭酸の泡が弾けるように、爆発の中で火が爆ぜる。次々に連鎖をしていって、誘爆していく。やがて火にくべられた大量の花火さながらの炎が、辺り一帯を無作為に焼き払うべく荒れ狂った。それはまるで火の海、そしてその火の海を悠然と泳ぐ火の竜のようでもあった。
「バ、バカな!!??? うぉぉぉぉぉ」
ゼノンが炎の海に飲み込まれていく。
誘爆を連鎖させることで『術式暴発』と同じ状況を作り出したレシア。ゼノンより唯一の利点、遮蔽物である大理石の柱が近くにあるという状況を、最大限に生かした戦術であった。だが、ここまで見事にいくとは、レシアも思ってはいなかった。