第三十八話「聖櫃解呪」
聖櫃からは眩い光が立ち昇っていた。やや高くなった台座に無造作に安置されているそれは、もはや単に美しいだけの芸術品の仮面を外され、魔が魔がしいばかりに見る者を戦慄させるに足る様相を呈していた。
台座から下へと垂れ込める冷気で、手足が冷える。言葉もなかった。
「ヒャハハハハハハハ!!」
青い司祭服のゼノンが背を仰け反らせ、狂ったように笑った。その笑い声でユロは我に返る。先程から風の渦に足をとられて、全く身動きが取れなかった。離れた位置からでは、聖櫃の中身を確認できない。
「そこにあるものは何? 本当にそこには聖アヌスの聖骸が納められてるの?」
亡くなっているとはいえ、聖人が放つ魔力場はかくも絶大なものかと、またこんなにも言い知れぬおぞましさを感じさせるものかと、ユロは眉を寄せた。
聖人とは、教えの最高峰であり、人々の救いの象徴であり、慈悲深き存在と、彼女もご多分に漏れず想像していただけに、理想との温度差を感じずにはいられなかった。
「もちろん。しかし、箱に納められていたのは、希望でも絶望でもなかったですけどね。納められていたのは蠱惑的な欲望――私の眠れる野望を揺り起こす、忘れかけていた野心がむくむくと鎌首をもたげ始めるほどに、なんともはや圧倒的かつ強圧的ですらある力。きっとこの力があれば、ロアを滅ぼし、聖地ベルネチアを奪還し、イーア・メノスを世界宗教とすることも可能でしょう」
と、ゼノンは台座の聖櫃を押し戴くように、両手を広げた。
「ゼノン! 貴様、レイパード様を裏切るつもりか!!」
鋭く叫んだのは、半身を血に染めたアギレラだった。動く右手で腰の剣を引き抜くと、ゼノンを睨み上げた。
「所詮錆びついた野心は身を滅ぼす。わきまえてますよ」
ゼノンは奥の間をちらりと一瞥した。
「それが懸命だ」
ふらりと右頬を紫に染めたレイパードが姿を現す。左腕が肩口から無かった。にもかかわらず、傷口からびちゃびちゃと床に多量に垂れる鮮血を気にもせず、涼しい顔でレイパードは台座へと歩を進めた。それほどの大怪我をしながら、意外に足取りはしっかりとしていた。
「左腕一本だけですか」
言外に残念そうな響きを含んだ言い方だった。
「あの男をガレキの下に沈め、沈黙させるのに、これくらいの代価で済んだのは幸運だったよ。異端審問局のキミにとっては、面白い結果じゃないだろうけどね、ゼノン」
「そうですね。あなたの傷があと少し深かったなら、私の錆びついた野心ももしかすれば成就していたかも……なんて思ったりしてますから」
「ゼノン、貴様っ!!」
「冗談ですよ」
ポンと肩を叩かれた。いつの間に間合いを詰められたのか。ゼノンはアギレラの横を影のように通り過ぎながら、ふと先程自分たちが入ってきた暗い廊下の方に目を遣った。
一瞬ゼノンが目を向けた廊下の方を一瞥して、すれ違いざま、レイパードはゼノンに向かって言った。
「キミも気付いているだろ、ゼノン。どうもねずみが迷い込んだようだ」
「では、私が害獣駆除にでも行きましょうかね。ここでのお役目ももう済んだことですし」
と、皮肉交じりの視線をレイパードに向けても、その命は変わらない。無言の瞳は「行け」と指示していた。ここで逆らえば、一刀のもとに斬り捨てられるだろうか。
格の違いなど疾うにわかっているつもりだった。 しかし、錆びついた野心がわずかに指先を動かした。その機先を制して、
「妙な料簡は起こさぬ方が身のためだよ、ゼノン」
と、レイパードが裂けるように微笑んだおかげで、ゼノンは骸にならずに済んだ。笑うというより、深い闇が口を開けているようで、慄然として動けなかった。
ゼノンは長い息を吐くと、錫杖で床を小突き、ユロの足にまとわりついていた風の渦をおもむろに解いた。そして何も言わず、そのまま足早に広間を出て行った。
「さてと、ボクが渡しておいた賢者の石もどきは持ってるかい? 早速仕事に取り掛かってもらおうか。ぼさっとしてないでね」
レイパードがユロを促す。だが、彼女は動かなかった。睨むようにレイパードの肩口の傷を見詰めていた。
「キミも期待しても無駄だよ。この程度の傷で、ボクがぶっ倒れるわけはないから」
「そんな風にしか考えられないなんて、アンタってある意味、可哀想ね」
言って、ツインテールを乱暴に振り、ユロは聖櫃が置かれてある台座へと向かった。
「レイパード様、傷の手当てを」
自分も傷付いているのに、アギレラが心配顔で寄ってきた。レイパードはユロの背を眺めながらぞんざいに答える。
「必要ない」
「せめて止血だけでもなさらないと……」
「必要ないと言っている。ボクのことを知りもしないくせに、余計なことを」
吐き捨てるようにレイパード。
アギレラは口をつぐんだ。
胸に刺さる一言だった。
オレのことを知りもしないくせに……
ユロも同じことを言われたことがある。肩越しに二人の会話を耳にして、ユロはアクスのことを思い出していた。本当にそうだ。アタシはアクスのことをなにも知らないで、身勝手に生き返らせて、自分の都合で振り回して、結局アクスに二度も死の恐怖を味あわせるなんて。最低だ。きっとアクスはアタシを恨んでる。だけど、これがアタシが選んだ道なんだ。どんな犠牲を払っても、イリメラとシシリーを生き返らせるんだ。
ユロは迷いを振り払うように軽く頭を振って、聖櫃を覗き込んだ。眩い光に目を細める。
中には、発光する中背のミイラが横たえられていた。干からびた両腕が茶褐色の胸の上で組まれている。
「頭が無い……」
その魔が魔がしいミイラには頭部が無かった。それと左の脇腹が少し抉れている。
「気にする必要はないよ。擬似的であれ、生きてるという状況を作り出せさえすればいい」
階段の下から、事も無げに言うレイパードを睨んで、
「――コイツを蘇生させたら、イリメラとシシリー、修道院にいる三人には手出ししないって約束してちょうだい」
眉間に深い皺を刻んで、ユロは言った。この約束にどれほどの拘束力があるのか。さしてレイパードを縛るものでないのはわかりきっていた。
「なんだ、そんなことか。いいよ。それくらい」
と、やはり即答でレイパード。
「さぁ、それじゃあ早速」
そんなこと……それくらい……コイツにとってはイリメラやシシリーはその程度でしかないんだ。と、ユロはそのとき改めて理解した。
手の中の『緋石』に目を落とす。血のように赤い紅をした石。その石をミイラの胸元に置いた。そしてユロは呪を奏でる。ある決意を秘めて。