第三十七話「忘れない」
博物館の正面入口は完全に破壊されていた。視界を奪われた四竜が、無暗やたらと暴れては跳ね上げた大階段の石塊でほぼ入口は塞がれ、見る影もない。
「正面突破って言ったって、どう考えても無理だよ、アクス」
レシアが否定的な意見を呈するのも無理はない。目の前では荒れ狂った巨竜。見たところ、正面には人が通れそうな窓や扉など、ほかに入口らしきものが見当たらないのだ。盗難防止等セキュリティのためか、一階部分には通気用の小窓はあるものの、大きな窓は二階より上にしかなかった。
何度目かの爆発。レシアは不安げにアクスの腕にしがみついた。それを憎々しげに見つめながら、
「正面にあの竜以外敵の気配が感じられない以上、裏へ回るよりか、正面突破の方がいいかもしれませんね。裏には伏兵が潜んでいるおそれもありますから」
てっきりレシアの意見に乗っかり、反対に回るだろうと思っていたフィガーが、すんなりアクスに同調したのは意外だった。が、これで意見は決した。
今日のフィガーは非常に冴え渡っている。裏に回っていたら、三十体のマリオネットが彼らを待ち受けていた。
しかし、実際に正面突破するにはどうすべきか? アクスが考えを巡らせていると、
「あの紅い竜を避けながら、二階の窓に取り付くしか方法はないか……」
「ぼくの魔装なら竜を飛び越え、屋上から侵入できる」
「本当か?」
「フィガーの魔装なら可能かも」
「ぼくの魔装ダーダネルスは翼のない鳥。だけど、双墜の鳥は風を操り、空を歩く。空中を渡ることなどたやすい。さ、フレーディア卿、お手を。不本意だが君は左に回りたまえ」
と、フィガーは鷹揚に言った。言われた通りアクスは彼の左手に回った。フィガーがレシアの腰に手を添える。同様にアクスの腰にも左手を回した。
いい匂いがした。危うく騙されるところだ。こいつは確か自然人類学上では男だった――とアクスは改めて隣の中性的な美形から目を逸らす。
「フレーディア卿、ぼくの体をしっかりと掴んでいて下さいね。多少揺れますから。では、行きます。怨鎖一式、開錠。翔けろ、双墜の風鷲ダーダネルス! 魔塔風駆け乱歩」
悪魔ダーダネルスの力が解放される。瘴気が風を運ぶ。拘束具だらけの黒いブーツが風を纏う。ふわりと体が浮く感じがした。いや、感じではない。実際に地面からわずか数センチほど浮き上がっていた。
「空を舞うことのできる魔装は世界に四種しか確認されていない。貴重な体験ですよ」
フィガーはアクスに向かって言った。続けて、
「でも、少々暴れん坊なんで、せいぜい振り落とされないようにね」
びゅん。と風の音と共に、三人の体が空へと一気に駆け上がる。その揺れや尋常でない。
暴れん坊の意味がわかった。左右交互に空気の壁を蹴るように空へと駆け上がるのだ。空気の壁を蹴る度に激しい遠心力が体にかかる。まるで暴れ牛の背に乗ってるようだった。
だが、意外にレシアは平然とした顔をしている。レシアに遠心の負荷がかからないよう右の蹴りを甘くしているのだ。その分、左側の蹴りを強くして推進力を得ているので、アクスのいる左側には右の倍以上の負荷がかかっていた。
脳みそが左右に振られる。頭がぐるんぐるんして、抗議の言葉も出ない。口を開けば、別のものが出てきてしまいそうだった。アクスは気持ち悪さに耐えつつ、前に目を向ける。
紅い巨竜――四竜が羽をバタつかせなら、視界を塞がれているから闇雲に、強靭な尾を振り回し、時に地面に叩き付けては石塊を跳ね上げている。
「フィガー、もう少し高度を上げられないの?」
「重量オーバーでこの高さが限界です」
あの無軌道な竜尾と石塊を避けきるには高さが足りなかった。けど、いつになくフィガーの横顔が真剣で、鬼気迫るものだったので、レシアはそれ以上、余計な口を挟むのをやめた。彼にまかせると決めた。
フィガーはブーツのかかとを打ち鳴らすと、二人を抱え、真っ向から突破を試みる。鮮やかに風の軌跡を空に描いて、四竜が無作為に跳ね上げる石塊を躱していった。
赤レンガの継ぎ目が視認できるほどに、博物館との距離を縮めることに成功した。あと少し。このまま何事もなくいけるかと思われた矢先、がぐんと一気に高度が落ちた。
「紫瘴化の影響か?」
気持ち悪さに耐えつつ、アクスは訊いた。
「違います。風が乱されたんです。あのバタつかせてる三枚の羽が乱気流を生み出してるんです」
態勢を立て直す為、気流の乱れから抜け出そうと、フィガーは横に飛び退いた。軌道を大きく外れた三人を無数の石塊が襲う。直撃は避けられない。レシアはぎゅっと固く目を閉じた。左腰に差した鞘から逆手で剣を引き抜くと、迷わずアクスは吠えた。選択肢は他に無かった。
「煉鎖三式、開錠! 唸れ、蒼き炎狼シュッテンバイン!!」
深き所から蒼炎が続々と現れ出る。八つの火球がまるで鬼火のように三人を守護するが如く彼らの周りを囲んだ。
「喪魔円葬の送り火!!」
アクスが剣を斜めに振るうのと同時、蒼き火球はいっぺんに拡散した。そして迫りくる石塊に接触した途端、爆裂。石塊はことごとく粉砕され、直撃は免れた。
だが、爆音で存在を気取られた。音のした方を巨大な竜尾が無造作に薙ぎ払う。もはや避けようもなかった。
「心ならずもフレーディア卿をまかせます。スリ傷一つ付けたら許しませんよ」
フィガーは二人の腰から手を放すと、
「足蹴にすることをお許し下さい。風よ、運べ!」
と、二人の背中を風を纏うブーツで蹴るように前へと押し出した。二人の体は上空に押し上げられ、緩やかに高い放物線を描く。
「フィガーっ!!」
空中に投げ出されながらも振り返り、レシアは叫んだ。フィガーはフッと微笑んだ。その瞬間、竜の尾が容赦なく彼の笑顔を薙ぎ払っていった。
落下途中、アクスはレシアを抱き止めると、彼女の頭と華奢なその身体を庇い、左肩から屋上の硬い床に叩き付けられた。左耳の間近で骨の砕ける嫌な音がした。そして、勢い余って床を擦るように転がり滑る。やがて給水タンクにぶち当たって、なんとか止まった。
「アクス……、大丈夫?」
もぞもぞとレシアはアクスの腕から這い出して、おそるおそる呼び掛けた。
「ああ、問題ない。それよりレシア、お前は? 怪我はないか?」
と、身を起こしな、力なく垂れ下がるだけのアクスの左手から、剣が床へと抜け落ちた。
「問題なくないじゃない! 人のこと心配してる場合!?」
「フィガーに頼まれた。レシアにスリ傷一つ付けたら、あいつに合わせる顔がない」
アクスは右手で剣を拾い上げると言った。
「……私は大丈夫だから」
俯き加減で蚊が鳴くようにレシアはそう答えた。
――無理しないで。とは言わない。いや、言えなかった。アクスの運命はすでに死に魅入られている。それなのに他人を気遣い、他人を救おうとしている。そんなまっすぐな彼の姿勢に、水を差したくなかった。
でも、見てるだけもつらいんだよ。出かかった言葉を必死で喉の奥に押し込むレシア。
「肩、見せて」
ぽつりとそう呟くのがやっとだった。
レシアは俯いたまま、アクスの肩の治療に取り掛かった。手をかざすと、やわらかな光が砕けた肩を癒していく。痛みが和らいだ。始終レシアは目を伏せ、アクスの腕の包帯をただじっと見詰めていた。剥がれ落ちそうな皮膚を保護するため、アクスの腕や首には包帯が巻かれていた。
どうにも沈黙にいたたまれなくなり、アクスは口を開いた。
「すまない。こんなことに巻き込んで」
「本気で言ってるの?」
抑揚のない声音で、睨むように顔を上げたレシア。目の端に涙が溜まっていた。
「誰も巻き込まれたなんて思ってない。それはフィガーもフェイもアリアも。私だって」
「すまない」
かえすがえす気の利いた言葉が浮かばない自分が腹立たしかった。また沈黙が流れた。
「……アクスは強いね」
ふと、レシアがぽつりと言った。
「どうしてそんなに優しいのよ? 他人のことばかり気遣って、自分を全然顧みない。少しは自分を大切にしてよ!」
懇願するように、今にも泣きだしそうに、レシアは胸に仕舞い込んでおくはずだった言葉を一気に吐き出した。
「ありがとな。でも、オレはレシアが思ってるほど強くも優しくもない。レシアを気遣うのは、忘れられることが恐いから。きっとユロを救い出したいと思うのも、オレのことをあいつに覚えていてもらいたいから」
誰かの記憶に自分の存在を深く刻み込むことで、自分が生きた意味を、その証をこの世界にわずかなりとも残したかった。ただ無為に死ぬことがどれほど虚しく、情けなく、悔いることか。アクスは一度経験している。死ぬにしても、決してあんな思いはもう二度としたくなかった。
「忘れないよ! 全世界の人が忘れても、私だけは覚えてる。アクスのこと、忘れるなんてありえない。絶対に忘れない」
レシアのサラサラな金の髪を優しく撫で、アクスは人差し指で彼女の目の端の涙を拭った。
そのとき、一際大きな爆発音が轟いた。激しい揺れが博物館全体を震わす。足元がふらつき、後ろに倒れかけたレシアを、アクスが完治したての左腕で支える。
「――――――?!!」
先程までの爆発とは明らかに違う異質の爆発。周囲の空気が濃厚に圧縮され粘り気を増した気がし、まとわりつくような嫌な感じがした。
圧倒的な魔力場が自身の真下に突如として出現したのを、レシアは鋭敏に察知した。
「胸騒ぎがハンパない。先を急ごう、レシア」
不穏な気配のする方へ、導かれるかのように二人は駆け出した。