第三十六話「政府の犬」
大大陸博物館の裏口に、高級そうな箱馬車が一台停まっていた。ドア脇のオーナメントには黄金の鷹をあしらい、滑らかな光沢のある黒塗り皮革のフード屋根の付いた馬車。
その馬車の中で足を組み、レイパードはにこやかな笑みを張り付け、鼻歌交じりで報告を待っていた。向かいの席にはユロが座っている。二人の間に会話はなかった。かれこれ一時間程が経つ。調子外れの鼻歌にそろそろユロのイライラがピークに達してきた頃合、狭苦しい室内にノックの音が響いて、側面の扉が開いた。
腰に細身の、おそらく刺突用の剣を帯びた、短髪の女が無言で片膝を付き、レイパードを迎える。レイパードが頭を屈めて馬車を降りると、続いてユロも外に出た。
「ひどい恰好だね、アギレラ。呼びに来るのが早いと思ったら」
「申し訳ありません」
深々と頭を下げるアギレラ。見ると、左肩をひどく負傷し、左腕はだらんと垂れ下がり、半身を血に染めていた。
「館内の制圧はその様子だと、完全ではなさそうだね」
「申し開きのしようもございません」
「まぁ、報告を聞こうか」
「はい。一階及び地下への通路の制圧はほぼ完了。地下の聖櫃の安置されている広間だけが制圧できていません。百体近くのマリオネットも、ことごとくその広間において全滅。たった一人の男によって」
「ほぅ。一人の男に、ねぇ。もしかして、その男は二刀流じゃなかったかい?」
「え、ええ」
「やはりあの遺物のリーク情報は搖動か」
「お心当たりがおありなのですか?」
「この二年、いくら探しても見つからなかった『ローム・イシュアーの聖櫃』が、いともあっさり軍の連中に見つけられ、しかもこんなリストが都合よく手に入るんだからね。聖櫃をエサにこのボクをおびき寄せたとしか考えられない。そして、そんなことをするヤツといえば、レキ・グロリア。彼をおいて他にはいない」
と、レイパードは懐から七百十七点の遺物の概要が載ったリストを取り出し、破り捨てた。アリアやサガも簡単に手に入れた例のリストだ。
「ボクが行くしかないね。アギレラ、キミはもういいよ。下がって」
「私は大丈夫です。これしきの怪我、問題ございません。ぜひお供させて下さい」
レイパードは子供が飽きた玩具に興味を示さぬように、アギレラから視線を外すと、
「好きにすれば。それよりゼノンはいるかい?」
「はい、エルファレオ公。これに」
馬車の陰から、錫杖を手に青い司祭服の男が姿を現した。老けてるのか、若いのか、ありふれた顔のとらえどころのない雰囲気を醸し出す男である。煙に巻くという言葉がぴったりな感じがすると、ユロはゼノンと呼ばれた男を見て思った。
「ゼノン、彼女を頼むよ。彼の目的はボクだから。彼とは浅からぬ因縁があるからね。ボクが彼の相手をしてる間に、聖櫃の解呪を含め、舞台を整えておいてよ」
「はい。非才ながら尽力致しましょう」
「じゃ、頼んだよ」
ふらりと歩いていくレイパードに、半身を朱に染めたアギレラがつづいた。
「逃げようと思っても無駄ですよ。あなたは人質を取られています」
念を押されなくても逃げるつもりはない。
「わかってるわよ、そんなこと」
ユロはゼノンを見ず、無愛想に答えた。
マリオネットの死屍累々。屍山血河の頂きにあり、返り血すら浴びず、レキ・グロリアは佇んでいた。鉄を思わせる冷たい相貌。温度のない左目が入口に向けられた。
廊下の奥から規則正しい靴音が二つ、近付いてくる。レイパードとアギレラが姿を現した。レキの目にマイナスの熱がこもる。
「ひどい有様だねぇ。それにこの臭い」
レイパードは地下広間に入るなり、顔をしかめた。
「貴様の悪趣味な肉人形どものなれの果てだ」
濃紺の軍服の後ろに、金銀正方格子の絢爛豪華な箱が見えた。角張った『8』の字型のそれ――聖櫃は、威圧感も異様さもかけらも感じさせず、少し高い台座に鎮座していた。
ポイント・ゼロZ――ローム・イシュアーで見たのと同じだ。だが、それは形だけで、あのとき感じた魔が魔がしさが全く消えていた。
「さすが才媛の美魔女ユリシノン・ベーゼが施した封印だけはある。見事だね。二年かけても探し当てられないわけだ。でも、それもこれも台無しだ。団長の遺志もふいだね。いくらボクをおびき寄せるためとはいえ、聖櫃をこのボクの目にさらすなんて」
「貴様は何か思い違いをしているようだな。この箱がどうなろうと、オレの知ったことではないし、まして団長の遺志などオレには全く関係ない。むしろ団長を――あの男を殺してくれたことについては、オレは貴様に感謝してるくらいだ」
レイパードは眉を寄せて、レキを睨んだ。そして、ぼそりと呟く。
「……政府の犬だったのか。いわゆる二重スパイってやつ? なんか失望だな。それで、なんでボクをおびき出したの?」
「紫の剣団は『神の箱庭』に深く関わり過ぎた」
まるで判決を言い渡す裁判官のように、厳かにレキは告げた。
「ボクが紫剣に在籍してたのは一時的なんだけど……なんて言い分はキミには通じないんだろうね。そういえば、聞いたことがあるよ。大陸政府には発足当時から、元帥府直属の『神の箱庭』に関する秘密保持のための特殊チームがあると。確か『夜鷹』部隊とかなんとか言ったかな。そのチーム・メンバーには絶大な権限が与えられており、時に超法規的措置とかも独断で許されるとか。そして、そのチームの仕事は『神の箱庭』に近付こうとする者を、闇から闇に消すこと。いわゆる政府公認の暗殺部隊って、そんな都市伝説じみたウワサをね」
レイパードの瞳が妖しく光る。レキは黙して語らず。
「二年前の大陸政府をけしかけた紫剣襲撃の工作も、いやにすんなりといったなと不思議に思ってたんだけど、キミが裏で糸を引いていたと考えると合点がいく。どうやらキミとボクは相容れない間柄のようだね」
いよいよもってレイパードの瞳が殺気を孕む。深い闇が微笑んだ。
「わかりきったこと」
レイパードは腰の灰剣に触れると、ちらりとレキの後ろの聖櫃を見遣った。
「隣に場所を移そうか。貴様さえ顔を貸せば、こんなものには興味はない」
妙なところでフェアなレキが気を利かして、着いて来いと奥の広間をアゴでしゃくった。レイパードはアギレラを目で制して、レキの背に素直に従い、隣の広間へと姿を消した。
すると、間もなく奥の間に光があふれ、激しい揺れと轟音が博物館を縦に貫いた。
「何、今のすごい揺れとフラッシュは?」
「あれが聖櫃ですか」
ゼノンは感嘆の声を上げた。隣室での爆音など気にも留めていない。
「ひどい……、この部屋の有様は……」
ユロは息をのむ。
「実に美しい手技・技巧の数々だ。それ以上に素晴らしいのは、ここまで近付いても一切の魔力場を感じさせぬ、鮮やかな封印。あの箱には希望が内包されているのか、はたまた絶望が封入されているのか。中を開くのが楽しみですね」
二人は口々に呟いて部屋に入ってきた。隣室の異変など意にも介さず、ゼノンは聖櫃を見上げた。再び体が揺れるほどの爆発音が響いた。
「久々の大仕事ですね。あのような芸術的封印を解呪できる栄誉に与るとは」
うっとりと眺めてはひとりごちていたゼノンが、不意に振り返った。
「まったくこの肉人形どもの死骸ときたら無粋ですね。特にこの臭いのせいでせっかくの感動も半減です」
と、浄火の術式を口ずさんだ。ゼノンが手を開いて床に向けると、マリオネットの死骸が一気に銀の炎に包まれた。あっという間に燃え広がり、すべてを灰に帰す。銀の炎は不浄なるものだけを焼き払う。ユロやアギレラがそれに触れても、熱すら何も感じなかった。
「これですっきり。あなたはそこでゆっくりしていて下さい」
言って、手にした錫杖で床を軽く小突くと、
「なに、これ。抜けない。ちょっと!」
ユロが非難の声を上げる。竜巻のような小さな風の渦が、レシアの両足をすっぽりと包みこみ、彼女の身動きを封じた。
「逃げないよう念のためです。また作業の邪魔をされたくないので。あしからず」
ゼノンはゆるりと聖櫃の解呪に向かった。