第三十話「アクスの決意」
痛い、苦しい。泥みたいに重い体を引き摺って、アクスはユロを探し続けていた。
核石を失ったアンデッドは徐々に腐り、一週間ほどで土くれに還る。先に待ち受けるのはただただ消滅という運命。それなのにアクスはユロを探すのをやめなかった。
残された日数はあとわずか――
ささくれ立って剥がれ始めた首筋や二の腕の皮膚を隠す為、ボロ布を纏い、路地裏に座り込むアクスの上に、優しくもない冷たい雨がそぼ降る。
節々が軋み、痛んだ。どんよりとした目付きで、ぼんやりと雨雲を見遣る。
手掛かりはほとんどない。レイパードがふと洩らした『ゴウセイシンカ』という言葉が強く耳に残っていた。だが、その言葉の意味すらまだわからなかった。
アクスはすっくと立ち上がった。ややふらつきながらも歩き出す。だが、数歩といかぬうちに足をもつれさせ、近くのゴミバケツをひっくり返し、すっ転んだ。
情けない。すでに足もおぼつかないのか。絶望的な気持ちになって、雨でぬかるんだ地面に這いつくばっていると、黒い靴がアクスの前でピタリと止まった。黒いロングコートの裾が揺れている。
「何しとうねん。えろう探したで」
「フェイ……」
傘をさしかけ、フェイは訊いた。
「ユロの嬢ちゃんは一緒やないんか?」
なんの脈絡も理由もなく、アクスが突然姿を消すなんて、何かのっぴきならぬ事態に巻き込まれたに違いない。昔からの付き合いだ。アクスの性格はよく知っている。迷惑を掛けぬようにと考えたのかもしれない。そうフェイは推し量って、古い友人の身を案じ、その行方を追っていたのだった。
「……フェイ、力を貸してくれ。オレに力を。頼む」
足にすがり、アクスは懇願した。
フェイは驚いた。
「どないしてん? この数日に何があったんや? お前がわいに『頼む』ってよっぽどのことやな。とりあえず立てるか? 一回宿に戻ろう。レシアもアリアも心配しとう」
と、フェイは肩を貸して、アクスの身を起こす。
「すまない」
「お前、その顔……」
フードの下からのぞくアクスの顔は、皮膚が魚の鱗のように剥がれかけ、ひび割れていた。また目も落ち窪み、頬もこけ、まるで死人みたいな青い顔だった。少なからずフェイはショックを受ける。
「オレにはもう時間がない……」
だが、瞳だけは異様なまでにまだ強く光を放っているのには、正直少しほっとした。
「とにかくレシアに診てもらおう」
「――やはり思った以上に悪いんでしょうか? ……いえ、なんでもありません」
重苦しい部屋の雰囲気に耐え兼ね、口を開くもアリアにギロッと睨まれて、フィガーは口をつぐんだ。
そのとき、がちゃりと戸が開いた。
「フェイ、アクスの具合はどうなんだい?」
部屋に入ってきたフェイをつかまえて、アリアは身を乗り出す。
「思ったより悪い。今、レシアが診てくれとう」
壁際に腰を下ろしながら、難しい顔でフェイは深い息を吐いた。
それから約二時間。めいめい口を閉ざして、時が過ぎるのを待った。
いざレシアが部屋に姿を現すと、薄々その返答が想像できたので、誰も口を開こうとしなかった。しばらくして先んじて、重い口を開いたのはフェイだった。
「レシア、アクスにはあと何日くらい残されとうのや?」
あの衰弱した姿を見れば、さほど長くはもたないだろう。アクスの余命が幾ばくも無いことは、瞭然としている事実であった。でも、アリアは認めたくなかった。
「何言ってんだい、フェイ、あんたは。ねぇ、レシア、そんなことはないんだろ? アクスは大丈夫だよね?」
「もって二日」
抑揚のないレシアの声が残酷に告げた。
「嘘だよね? そんなの。レシアまで何言ってんだい。そうだ! アクスはもともと死んでてアンデッドなんだろ?」
「アンデッドは不死身じゃない。アクスはアンデッドの心臓とも言うべき核石を破壊されている」
「だったらその破壊された核石を修復するなりして、もう一回死霊術をかければ……」
「アクスはアンデッドでもかなりのイレギュラー。意思・人格を備えたアンデッドなんて今まで前例がない。もう一度、死霊術をかけて、肉体は再生できても、アクスという人格を、意思をそのまま蘇生させられる保証は何一つない。たくさんの偶然が重なり、今のアクスがあるの。奇跡に近い、天文学的な確率の偶然。そもそもその偶然の根幹を成す核石がもう修復不可能なんだから、どうしようもない……」
「だったら代わりになるようなものを見つければ――」
アリアの言葉を遮って、
「簡単に言わないでっ!!」
過去今まで、レシアが声を荒げたのを一度たりとも聞いたことがなかったので、フィガーは非常に驚いた。
「アクスの核石の残骸を分析したら、『神の力』級の大魔力が宿っていた痕跡があった。今はその力は失われ、ただの石でしかない。いくら欠片を集めても元には戻らないし、それほどの力を秘めた魔石なんて、世界に幾つも存在しない!」
「だからってレシア、あんたは諦めきれるのかい! だとしたら他に手は無いか、考えたのかい! なんか方法がきっとあるはず」
「私だって他に手はないかくらい考えたわよ!」
アクスを救いたい一心で、この短時間でレシアは色々手を尽くし、考えた。だが結果、その聡明すぎる頭脳は、返す返す本人が願う一縷の望みすら否定していった。可能性が皆無というわけではなかったが、アクスに残された時間がその可能性すら否定することを、わからないレシアではなかった。
「やめぇや、二人とも。言い争ってどうなるものでもなし。それよりこれからのことや」
と、フェイが二人の間に割って入った。
「道すがら、わい聞いたんや。ユロの嬢ちゃんがレイパード――いや、混沌教団のグレイ・ハウンドにさらわれたってこと。あいつは自分がどうなろうと、ユロの嬢ちゃんをなんとしても救い出したいって。人にものを頼んだことのないあのアホンダラが、わいに『頼む』って言いよった。どうせ長くもたんのなら、せめてあいつが望むことをさせたりたい」
「アクスが望むこと……」
カタストロフィーへと向かう中、小さな希望を見出そうとしているのか。ぐっと大きくも実は繊細な胸に何かを仕舞い込んで、ことさらアリアは言った。
「……そうだね。ちょっと複雑な気持ちだけど、それが一番なのかも」
しかし、ひとりレシアは冷厳にも自分を押し殺して、
「聖櫃の回収が急がれる。だから、私は力になれない……」
聖櫃を不特定多数の目にさらすのはとても危険なことだ。レシアが気付いたように、その価値に気付く者が出てくる恐れがある。聖櫃に宿り、秘められたる――死してもなお有効で絶大なる力――『神の力』とでも呼ぶべき聖人の大魔力は、使いようによっては世界をも揺るがしかねないものだ。その存在が公になれば、一気に世界に緊張が走る。場合によっては、聖櫃を巡って争いが起こり、世界のパワーバランスが大きく崩れることにもなりかねない。ゆえに大大陸博物館での公開前に、可及的速やかに回収するよう教皇庁からの督促もあった。立場上レシアは従わぬわけにはいかなかった。
「ぼくも協力はできませんよ。フレーディア卿に付いてきますから」
いつになく強い調子でフィガーもそう言った。
「でも、レシアがおらんとアクスは……」
「オレのことは気にするな」
と、フェイの言葉を遮ったのはアクス本人だった。ひび割れ、剥がれかけた皮膚を隠す為か、両腕と首を包帯でくるみ、両頬には白い絆創膏を貼っている。
「今、そこに突っ立ってられるのもレシアのおかげやろうが。レシアがお前に魔力を注いで、滞った血流を再開させ、なんとか代謝を上げてるからであって、レシアからの魔力供給が途絶えると、自力で立ってもられないクセに」
「わかってるよ。それでも――」
事実、レシアが破壊された核石の代わりを務めてくれており、その魔力の恩恵を受けることで、肉体の腐敗を一時的に遅らせ、現状、普通に動くことができる状態を保っていられた。
「たとえ這ってでもオレは行く。ユロを必ず救い出す。ただそれだけだ」
強がりじゃない、それは揺るぎない決意。アクスの鋭い眼光に宿る強い意志。もはや何を言っても無駄だろう。アリアは思った。
「どうしてアクス、あんたがそこまでする必要があんだい?」
「ただ……あいつの涙を見たくない。そう思った。そうオレが、オレ自身で思ったから」
理由はそれだけで十分だ。誰かを救うのに理屈は必要ない。それにこれはアクス自身が自発的に望んだこと。この世界でやり残したこと、空っぽを埋めるもの、自分が自分として生きる意味、それがなんなのか未だにわからないけど、一人の少女を闇から救うことができるなら、アクスは十二分に自分が生き返った価値があると思えた。たとえ自身がこの世から消えるとしても微塵も迷わない。アクスがすべきことは決まっていた。
「よっしゃ、わかった。お前の好きなようにせいや」
「すまん、フェイ」
「アホか。お前から礼なんか聞きとうないわ」
「それもそうか」
と、二人して微笑み合うのを見て、アリアは羨ましく思った。何年経っても変わらない男同士の友情っていいな。そんなことを口にすれば、息ぴったりに二人して否定するだろうけど。
「――ごめんなさい。私は何もできないけど」
「レシアが謝ることじゃない。むしろ感謝してるくらいだ。多少なりとも動けるようにしてもらえて。ありがとな」
アクスはうつむくレシアの頭を優しく撫でた。冷たくも温かい彼の手のぬくもりに、レシアはさらに深くうつむいた。
「最後にひとつだけ聞きたいことがあるんだが。『ゴウセイシンカ』って言葉を知ってるか?」
ゆるりと顔を上げ、レシアは大きなどんぐり眼でアクスの顔をまじまじと見つめた。
「その顔、知ってるのか。だったら教えてくれ、レシア」
不思議そうに小首を傾げながらも、レシアは問われるまま答えた。
「合成進化とは、いわゆる合成獣を創造するキメラ理論の用語の一つ。二種類以上の生物を錬金術を用い、一個体として融合し、より高次の生物を生み出すことだけど……」
「キメラ理論といえば、大陸憲章でも倫理的に、今では研究すら認められてないんじゃなかったのかい?」
「まさかユロをキメラにするため、ヤツはユロをさらったというのか?」
「その可能性はきわめて低いと思う」
「そうだね。それってあの貧乳娘じゃなくてもいいはずだよね?」
「うん。アリアも私も彼女となんら変わらぬ人間。自分で言うのもなんだけど、むしろ魔導師である私の方が、魔力的にポテンシャルが高い分、合成進化には相応しいはず。なのに他の誰でもなく、ユロさんがさらわれた。あっ!?」
あることに気付いたレシアは、思わず声を上げた。そして、こう続ける。
「キメラは生体をもって創られる。生きているものでなければならない……」
「それがどうしたっていうのさ?」
「ユロさんは数少ない魔術師の中でも、とりわけ数が少ない死霊術師」
「そういや死霊術も大陸憲章で……」
「そして、私なんかよりも遥かに魔力ポテンシャルの高い死体が近くにあったとしたら?」
「聖櫃か! 聖櫃の中には聖人の遺骸が眠っとる」
「まさか聖人をキメラに!?」
「聖櫃とか聖人って何だ? 話が見えない。オレにもわかるように説明してくれないか?」
と、アクスは鼻に皺を寄せ、困り顔で説明を求めた。
「レシア、アクスになら話してもええか?」
そう聞くフェイに対して、レシアは無言で目を閉じた。本来極秘事項扱いで他言すべきではない事柄だが、目を瞑る――黙認するという合図だった。
フェイはこれまでの経緯を簡単に話し、聖櫃の存在とそこに眠る聖人の死してなお偉大なる力のこと、それをなんとしても回収しなければならない自分たちの立場を明かした。
「……ということはつまり、聖櫃に眠る聖人をユロの死霊術をもって蘇生させ、その聖人をもとにキメラをつくるというのか。一体何のために?」
「人工天使もしくは人為的な神を造る気でいるのかもしれない」
「それって、神秘主義者が唱える神を為す合聖神化、救世主信仰の一端……」
「そう。大きな魔力と魔力がぶつかり合うとき、時に不連続な位相欠陥が生じ、場に魔力の特異点が生じる場合がある。合聖神化とは、それを存在に応用した理論。キメラ理論を用い、大きな存在と存在を掛け合わせたときに発生するレゾンデートル・エネルギーをもって、生命の樹から逸脱した超越者を生み出す気でいると思うの」
「神秘主義を奉ずる混沌教団の連中ならやりかねないね。でも、理論上それには同等価値を備え得る別種の存在が、最低もう一体必要なんじゃないの?」
アリアの疑問は愚問であった。
彼らはその存在をすでに一度目の当たりにしている。
「人型の悪魔だな」
「ちょー待てや。あんなもんこんな街中で召喚して、もし制御出来んかったらどないなんねん!? いくら大陸政府本部があるっちゅうても、大惨事やで」
「政府本部はあっても、軍兵力は都市部にはせいぜい一師団いるか、いないかくらいだ。とても十分な数とは言えないね」
「軍主力は郊外のベルガガルダ駐屯地区だ。異常に気付いてすっ飛んで来ても、都市部に着くには半日はかかる。多くの犠牲者が出る」
「悪魔ならまだなんとかできるかもしれないけど、存在法則を無視した人工天使もしくは人為的な神が現出した場合、その存在の大きさに、世界を形作る輪郭がぼやけ、存在の揺らぎが発生する可能性がある。また、その揺らぎの中で、果たして人は自我を保っていられるのか? どういうことが起こり得るのか、甚だ疑問ね。とはいえ神なりし存在を我々の世界が是認できるとは到底思えない。なんとしても阻止しないと、世界の均衡、いわゆる法則性が崩されるのは必至。つまりそれは世界の終焉を意味することになるかも。
……って、あくまである種の可能性だけど」
と、最後にぼそりとそう付け加えるレシア。
「はからずも目的は一致したというわけですね」
なぜか唇を尖らせて、不服そうな顔つきでアクスを横睨みにし、フィガーが言った。
「あ、そっか。貧乳娘をさらったのも、聖櫃を狙うのも同じ混沌教団。私らが聖櫃を回収しようとすれば、混沌教団と衝突するのは必然ってことか。ワールドアホーのくせに、やけに回転が早い。なんかしゃくだね」
と、アリアがレシアに水を向けるも反応を示さず、アクスの方に向き直って、
「もう少しだけ一緒にいられる」
そうレシアは小さく呟いて、アクスの胸に顔を埋めた。強がっていた気持ちの糸が切れた。本当はアクスの傍で彼の力になりたかったのだ。
労わるようにアクスは、レシアの頭を何度も何度も優しく撫でた。彼女の気持ちが態度がいじらしく、愛おしく思えた。
「――で、具体的対策だけど、正直聖櫃回収の手立てを何も講じられてない現状では、大陸政府から聖櫃を直接回収するのは難しいと思う。けど、混沌教団が政府から聖櫃を奪取しようと起こす騒ぎに乗じて、その横合いから聖櫃を掠め取るってのなら、なんとかなるんじゃないかな?」
不機嫌な声でフィガーは話を戻した。
「それでもってその私らの傍らで、アクスはユロを救い出す。聖櫃までの道のりは両者とも同じだから、アクスはレシアのサポートを受けられるって寸法だね。いやに冴えてるね。どうしちまったんだい? 脳ミソプリンなはずのあんたが」
「ぼくだって、誰かの涙や悲しい顔を見たくないって思う気持ちくらいありますから」
相変わらず不景気な面でフィガーは答えた。
「ガラにもなく、からっぽの頭を振り絞っちゃって」
アリアは微笑ましく、フィガーの横腹をつついた。
「――だとして、レイパードがその場にユロを連れて現れる保証はあるのか? それまでオレの身体がもつか……」
残された時間への不安を禁じ得ず、アクスは懸念を表明した。
「大丈夫。その点は心配ないと思う。聖櫃を奪っても、ここは大陸政府の本拠地『主央都』アーサーベルよ。魔導師である私になら手立てはあるけど、彼らでは簡単に運び出せない。そのことは相手もわかっているはず。だから、その場で合聖神化を進めるに決まってるから、必ずユロさんを伴って現れる。それにレイパードって人も混沌教団も、大陸政府に真っ向から仕掛けるほど馬鹿じゃないと思うから、その行動は予測の範疇。きっと何らかの混乱を起こし、それに乗じて仕掛けてくる。で、混乱を引き起こすには、人々の恐怖を利用するのが一番手っ取り早い。恐怖はパニックを呼び、それらは人から人へと伝播し、人の数が多ければ多い程、収拾がつかなくなる。聖櫃は大大陸博物館に運び込まれている。そして、明日は大大陸博物館での遺物の初公開日。内外から無数の人間が世紀の大発見を一目見ようと集まるでしょう。しかも一か所に。そこでその場にいる人間に、大きな爆発などで一斉に生命の危機を抱かせたとしたら? もはや混乱した群衆を止める術を誰も持たないでしょうね。また混乱とまではいかなくとも、人民を守るのに政府軍は多くの手を取られる。そこを狙うのが最良と私なら考える」
周りがどきりとするほど冷たい声音で淀みなく言うレシア。また一切計算のみで導き出されたその説には一部の反論もなかった。冷え切った白い少女の脳細胞に、果てしなく一同は驚愕するとともに深く納得した。それだけに目の前にいる小柄な少女に、畏怖の念を抱かずにはいられなかった。
「……アクスまでそんな珍獣を見るような目で。ヤだな、もう」
気恥ずかしげに急におどけた口調で頬を桜色に染め、下からアクスを覗き見る。その突拍子もないあまりの可愛さに、アクスは空咳を一つして、困ったように鼻の横を掻いた。
「ほな勝負は明日やな」
「ああ。そうだな」
明日、きっとレイパードは大大陸博物館に現れる。根拠はないが、アクスは確信に似た予感を得た。