第三話「アクス死す」
サガたち大陸政府軍の部隊が去って、どのくらいが経ったのか?
夜空に張り付けたみたいな、現実味のない赤い月。淡い月光の下、微風に震える木々の枝葉が、骨と皮だけの老人の、節くれだった指のようなシルエットを浮かび上がらせる。
生きてるのか、それとも、もう死んでるのかすら定かでない生死の境に、アクスは置かれていた。
昏睡と覚醒の繰り返し。混濁とした意識。途切れ途切れ、闇が入れ替わる視界。ああ、まばたきをしているのか。まだ死んではいないようだった。時々そう実感するが、ただ死を待っているだけに変わりはない。
もしかして、これは夢かも――と、思い出したようにふと思う。
遠くに、黄色い骸骨頭の屈強な大男が走っているのがぼんやり見えた。黒髪の美少女と一緒に。
幻覚か? もうわけがわからない。何もかも。
突然、目の前に赤い薔薇が舞ったと思ったら、こうなっていた。それは自分の血だった。本当に斬られたのかも、未だによくわかっていなかった。やはりこれは夢なのでは……?
また意識が闇に引きずり込まれる。
底の無い水の中、ねっとりとしたそんな暗闇を、ゆっくりと沈んでいく感覚。どこまでも、どこまでも。微かに響く弱々しい鼓動。この音が途切れたとき、オレは死を迎えるのだろうか。自らの命のカウントダウンをBGMに、深く深い果てへと落ちていく。
あっけない幕切れ。
二年前。あのとき、どうしてオレは生き残ってしまったのか? 死に場所を間違えたヤツは、生きていても惨めなものだ。そうして、こういう路傍の石みたいな死に方をする羽目になるのだ。それが似合いとでも言うかのように。実際、そうなのかもしれない。冷めた顔して、おっさんのヨタ話を鼻で笑いながらも、そんなもんにも熱くなれるおっさんやみんなが羨ましくて、ずっと横で見ていた。オレは傍観者に過ぎない。何の生きる目的も夢も持たないオレみたいなヤツが、クソ眩しいおっさんたちと同じ舞台に立とうだなんて、はなからおこがましかったんだ。一緒にあのとき、かっこよく死ぬ資格なんて、オレには無かったんだ。だから、きっとこういう不法投棄された粗大ゴミ的な、しょうもない死に方が一番似合いなのだろう。
……うん? 不法投棄? 粗大ゴミ? ……もうどうでもいいか。すでに諦観が心の半分以上を支配していた。
ただ暗い淵へとすべて飲み込まれてゆく。無となる闇へと意識も溶ける。そこには何も残らない。オレという人間が生きてきた足跡も。誰にも記憶されず、ひとり、ひっそり死んでゆく。そこには何もない……鼓動は段々と聞こえなくなっていった。
やっぱり死にたくない。今更、心底思った。泣き叫びたい気持ちになった。
死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない。
もっと生きたい。生きていたい。もっともっと生きていたい。見苦しいまでに生を渇望する。オレもおっさんたちと同じ場所に立ちたい! こんな死に方はイヤだ! この期に及んで後悔ばかりが、雪のように積もっていった。オレもおっさんたちみたいに、命を懸けられるほど熱くなれるものが、欲しかっただけだったんだ。これほどまでに強く、自分が何かを望んだことは今までなかった。こんなにも無意味に死んでゆくことが、虚しくて、悔しくて、情けないなんて。死ぬにしても、自分が自分なりに生きた意味が欲しかった。空っぽのまま、死にたくない。オレは大馬鹿野郎だ。今際の際に気付くなんて。誰か、こんな馬鹿なオレを救ってくれ! 空っぽのままはイヤ!! 声にならない声が溢れた。
もう何も見えなくなった目からこぼれる涙。
心音が途絶える寸前、アクスは意識の底で巨大で黒い不気味な門を見上げていた。尾が繋がった双頭の蛇が、紋章のようにその門扉には刻まれていた。
不意に双頭の蛇が尾から別れて二匹となる。やおら扉は開かれた。
すると突然、アクスは闇よりも濃い漆黒のもやに覆い尽くされる。もやはアクスの全身を浸食し、目や耳、鼻や口、傷口などから、ずるずると入っていった。
全身に染み込んで流れ込んでくるこれは……?
意識? 感情、記憶……? 想い?
……どれも違う。けど、どれも違わない。ぼんやりとしていて、形を伴わない。うまく言葉では表現しきれない。でも、あたたかい。
アクスがもやに取り込まれていく。いや、もやがアクスに取り込まれているのか?
あたたかい闇に包まれながら、アクスは聞いた。たしかに。
『……アタシを守って』
やがて、アクスの心臓は静かに動きを止めた。