第二十七話「ニルとリュースの後日譚」
レオル・イグナシオ教会は、現存する最古の教会にして、聖母イーアと彼女に受胎告知を行った天使レオミラを祀る。ニルとリュース、二人が所属する教会だ。
ひとり長椅子に腰掛け、礼拝堂のステントグラスを眺めるニル。包帯で右腕を首から吊って、首にも幾重にも包帯を巻いている。
「出歩くなよ、重傷人が。しばらく安静って言ったろうが。うぃっく」
ウオッカの瓶を片手に、ドレッドヘアーの小汚い中年男が、無遠慮にニルの真横に座った。ひどく酒臭い。
「……ヤブ医者が何の用だ?」
「お前さんの右腕を、うぃっ、また動くようにしてやったってのに。散々な言い様だな」
「リュースの腕も治せないクセに」
「切られてから時間が経ち過ぎだ。回復魔法も万能じゃない。それに自分で蒔いた種だろうが。他人のせいにして、つっかかってんじゃねぇよ、ヤブ医者より無能なひよっこが」
無精髭をいじりながら、人を食ったような笑みを張り付け、ドレッドは言った。だが、全くその通りだった。禁呪まで使ったのに、任務も全うできず、徒にリュースを傷付けただけ。挙句に終始、リュースに守られていた。自分の無能さを思い知らされた。
「さっさと病室に戻りやがれ。それともなにか? 病室に戻りたくない理由でもあるのか? あの糸目と隣り合わせで寝てるのが、いたたまれないとか?」
ニルは苦々しげにドレッドを睨んだが、何も言わず、おもむろに立ち上がった。
「ドコ行くんだよ?」
「病室に戻る」
愛想もなく、不機嫌にそう言うとニルは礼拝堂を後にした。
病室の前――扉がわずかに開いていた。中から話し声が聞こえる。一人はリュース、もう一人は……。栗色の美しい三つ編みが、扉の隙間から見えた。
「……姉様」
咄嗟、ニルは壁に張り付き、隠れた。そして、二人の会話に聞き耳をたてる。
「――大司教殿自ら、こんな辺鄙な教区のこんな寂れた病室にご足労とは、どういう風の吹き回しで? ああ、なるほど。任務失敗のお咎めか」
「あなたは相変わらず、口が減らないですね。その締まりのない顔といい、誠に遺憾です」
「そんなことを言いに来られたのですか?」
「…………。」
「そんな怖い顔なさらずとも。冗談ですって」
「計画の中止を伝えに来ました」
「中止? いやに急に話が飛びましたね」
「あなたたちはゆっくりと傷の治療に専念して下さい」
「もうお帰りで?」
氷姫ミュリス・シュライザーの両目が、静かに左右別々に色を変えた。
「……なんの説明もないままですか?」
そんなリュースの言葉など無視して、普段のミュリスならさっさとその場を立ち去っていただろう。だが、この時は少し違った。
「元老院は今回の件に関して、静観を決めました」
リュースは意外な面持ちで、精巧なビスク・ドールのように整い過ぎるその顔を見つめ、
「下っ端にご説明して下さるとは珍しい。しかし、静観とは……。しっくりと納得のいかぬ決定ですね。大司教殿も本意でないのでは?」
慇懃無礼なリュースの物言いに、ミュリスは軽く眉をしかめるも、
「混沌教団の計画全貌が明らかになった途端、計画阻止が一転、静観です。元老院は完全に異端審問局を見限ったとしか言い様がありません。裏切り者とはいえ同属なのに。彼らを見捨ててまで、ご老人方々は神というモノを拝みたいらしいのです。おそらく異端審問局も、神に魅せられての背反行為でしょう。実にどちらとも短慮、遺憾の限りです」
「……神とは? 随分物騒な言葉が出てきましたね」
「混沌教団は擬似的な神を、人為的に創り出す気でいるのです」
「まさかそんなことが……できるのですか?」
「元老院の決定は絶対です。この件に関しては、我々はもはや静観するしかありません」
肯定とも否定とも取れない、いつもの微笑を湛え、
「――あなたにはお礼を言わねばなりませんね」
ミュリスは続けて別のことを言った。これが本題である。
「……弟を、ニルを無事に連れ帰って下さり、ありがとうございました」
どさくさ紛れに綺麗におじぎするミュリス。リュースは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。神という言葉が、一発で吹っ飛ぶ程に驚いた。思わぬ一言に氷姫というイメージが少し揺らぐ。いつになく多弁だったのは、本題に入る前振りだったのか。
「礼と言ってはなんですが、その左腕、有名な魔動義肢職人を紹介しましょう」
魔動義肢とは、魔力で動く義肢のことだ。生物が無意識に放出する微量な魔力を集め、蓄積できる魔力感応鉱を埋め込み、それをエネルギーに可動する魔動義肢は、魔力感応鉱に神経を繋ぐことで、指も動かせ、普通の腕となんら変わりなく機能する。ただ見た目が機械的で不恰好なので、ユロみたいに包帯等で義肢を隠す者も少なくなかった。
「それは助かりますが……」
「あなたにはまだまだ働いて頂かないといけませんからね」
「ニルには会ってはいかれないのですか?」
気の利いた台詞が浮かばなかった。ミュリスの困ったような微笑が印象的だった。
「それではわたくしはこれにて失礼させて頂きます」
花びらが部屋中に美しく舞ったかと思ったら、彼女の姿はもうそこにはなかった。
「まったく毎回毎回はた迷惑な転移術を使う」
頭に乗っかった花びらを払いながら、逃げたか――と、リュースは苦笑した。
端っからニルが部屋の外にいるのに気付いていたが、あえて知らんぷりすることにした。わずかに見切れるニルの肩が、微かに震えているのが見えたから。