第二十二話「アゼザルの契約」
血が騒ぐ。体内の血液が沸騰しているようだ。体温が急上昇し、口の中が乾き切り、ひどくざらついた。
ユロがオレの名を呼んでいる。助けを求めているんだ。行かないと。なのに、身体が思うようにままならない。
「オレの……命と引き換えでもかまわない。悪魔だろうが……魔王だろうがかまわない。なんでもいいから、オレに……オレに、力を貸してくれ!」
「瘴気に中てられ、目覚めてみれば……やれやれ」
突然――意識が暗転した。
「ここは……?」
白い世界がどこまでも続いていた。上下左右何もない、ただ白い世界。
「汝の精神世界だ」
奥底から、老婆とも青年とも幼児とも少女とも、いずれとも取れる不思議な声が響いた。
「誰だ!?」
「我はアゼザル」
「シオンの魔石……」
「いかにも」
ふと、意識の白き闇の中、人影が浮かび上がった。
「これが汝の想像する我の姿か」
現れたのは、黒髪ツインテールにデカリボン、長身巨乳の絶世の美女。しかもネコミミメイド服ときた。ちょうどユロを大人っぽく、スタイル抜群にしたような感じだった。
「ぶーっ!? ななな、なんちゅう格好をしてやがんだ⁉」
胸がはちきれんばかり、こぼれそうな格好。
「我は姿を持たぬ。ここは汝の精神世界ゆえ、汝の想像が具現化される。この姿は汝の趣味嗜好によるものだ。しかしながら……だいぶ痛いおつむをしているようだな」
ネコミミアゼザルは、肉球手袋を興味深げにわしわししながら言った。
「ほっとけ」
「まぁ、人の趣味をとやかく言うつもりはないが……」
「そんなことをわざわざ言いに来ただけなら、すっこんでろ。今はそれどころじゃないんだ」
「ふんっ。だからって汝に何ができる?」
腰に手を当て、アゼザルは冷ややかな目をした。
アクスはアゼザルを睨みつけた。
「お前ならどうにかできるって言うのか?」
「できなくもない」
「なら力を貸せ。それとも、オレもろともお前もここでくたばる道を選ぶか?」
「ふむ、脅迫か。しかし、それもそうだな。このままでは宿り木を破壊されかねん。折角見つけた宿り木だ。ただ黙って潰されるのも面白くない。よかろう。我が力、汝に貸してやろう。だが、汝は高い代価を払うことになる。未来永劫を投げ打つ覚悟はあるか? それでもかまわぬと言うのなら力を貸そう」
「今ここでくたばったら未来もクソもねぇ」
「なるほど」
わずかな間。
「これはサービスだ」
何を思ったか、むぎゅと胸を強調して、ネコミミメイドが艶っぽく言って、胸の谷間を見せ付けた。
「ゆめゆめ後に後悔すること能わずぞ。フフフ……」
「なぜにそのポーズで言う必要が?」
そうぼやきつつ、谷間がなかなかエロいと、アゼザルのサービス・ショットを脳内で繰り返し再生するアクスであった。
アゼザルの低い笑い声が遠くなっていくと、それに比例して俄かに体中に力が漲っていった。
背後で大きくなる不吉な気配に、シドンは振り向いた。黒いもやを自身の眷属のように従え、アクスが悠然と立ち上がるところだった。
「傷が塞がっていってる……」
飛び散った血液が蒸気となって、切り刻まれた肉片や斬り落とされた両腕が彼のもとに集まり、傷がたちどころに回復していく。腕も繋がる。
「自己修復? いや、超回復? 彼はアンデッドじゃないの……?」
シオン系以外のいかなる体系の死霊術においても、『アンデッド自身に回復能力はない』というのは通説である。死霊術師には、僕であるアンデッドを回復させる能力がある場合は多いが。だが、その術者は今、首を締められ、意識を失う寸前。そんな余裕があるとも思えない。
――一体、何が起こってるの?
「……レシア……うし…………ろ……」
消え入りそうなアリアの声に、レシアの注意が後ろに向いた。
界門に魑魅魍魎どもが続々と集まり出していた。
「――アンタにはやらなきゃいけないことがあるでしょうが」
ユロの言葉が思い出された。彼らを外の世界に出さぬように、破邪の結界を展開することが、今のレシアの役目だ。
「今は結界の展開と界門の制御が優先。意識を集中させるのよ、レシア!」
と、瘴気による紫斑の痛みなど意識から締め出し、自分に言い聞かせる。
「さぁ! アルカナの子ら、出番よ。存分に働きなさい」
界門を取り囲んで、ユロによって配置された各カードから、レシアの魔力に反応して、光の線が走る。それは空間に、六芒星を象った幾何学模様を浮かび上がらせた。
「始点には太陽、太陽の左には魔術師、魔術師の向かいには運命の輪、運命の輪の右には皇帝、皇帝の向かいには正義、終点には世界。その求めるところは破邪なる誓い。大六芒は今、邪を祓い遮る障壁と相成らん!」
六芒星の魔法陣が明滅。忽ち光が弾けた。
……何も変わらないようだが。否。目には見えないが、明らかに強い結界が、界門には張られていた。出て来ようとあがく魑魅魍魎どもがそれに触れると、激しいスパークと共に、触れた部分が吹き飛ばされた。それでもそこから出たいのか、低級の獣型悪魔どもは、我先にと門に群がるが、結界は彼らが外に出ることを許さない。
「……やっと目覚めたか、同胞よ。聞け。ここに降魔塔を創出する。貴様の力があれば、忌々しいヤツらを空より引き摺り下ろすこともできよう。我と共に来い。あの地に共に返り咲くのだ……」
いつになくシドンは多弁だった。
「――何言ってんだ、てめぇ?」
「……………………」
「それよりさっさとユロを放しやがれってんだ。このくされ三下悪魔が!」
と吠えるや、月夜の草原に、一陣の黒い風が吹き抜けた。アクスは一気にシドンへと疾駆した。
咄嗟シドンは疾黒帯を放った。背から伸びる爆発的に急速展開された鋭利な帯状の刃。襲いくるそのことごとくを躱し、紙一重ですり抜け、斬り払い、アクスは跳んだ。頭上、鋭い剣撃を叩き込む。シドンは黒剣を真横にして受け止めた。間髪入れず、アクスはシドンの胸に蹴りを入れた。ダメージこそないが、揺らいだバランスの隙を突き、シドンの左腕を切り上げ、ユロを救出する。
「すごい……!?」
思わずレシアは声を上げた。
シドンの腕から解放されて、倒れ込むユロをアクスは力強く抱き止めながら、一緒に感嘆の声を発する。
「嘘だろ!? マジでか?」
「やっぱり、来てくれた……」
左眼だけ開いて、ユロはうっすらと微笑んだ。そして、アクスの腕の中で安心したように気を失った。アクスはユロを抱いたまま、そのままシドンの後方へと駆け抜ける。そして気絶した彼女を安全な場所に横たえると、再び影王に向き直った。
左腕を切り落とされたシドンが、怒りに打ち震えていた。
「……貴様、隔界に長く留まり過ぎ、気でも振れたか。こんな真似をして、ただで済むと思うなよ……」
それはアクスにではなく、彼の中にいる別の存在に向けての言葉であった。
「どうなってるんだ?」
自分の愛剣に目を落とし、呟くアクスの脳裏に再び声が響いた。
「我の瘴気をお前の剣に纏わせただけだ」
「そいつはつまり、お前の瘴気であれば、ヤツに直接攻撃ができるってんだな。よしっ。オレに策がある。力を貸せ」
アゼザルの返答も待たず、アクスは魔装を開錠する――
「煉鎖一式、二式、三式、四式、同時開錠。唸れ、蒼き炎狼シュッテンバイン」
「四連同時開錠やと!? 瘴気に取り殺される気か、アクスっ! ……ごぶっ!?」
自身の怪我のことも忘れ、フェイは叫んだ。
アクスの全身がみるみるうちに、紫に染まりゆく。剣を片手に立つその姿はまさに紫の騎士。
「蒼炎の魔天狼!!」
巨大な狼を象る壮烈な蒼き炎が駆け抜けた!
「……獣型程度で影の王たる我に、傷を付けようなど笑止千万の極み……」
シドンは黒剣を跳ね上げるや、蒼炎の魔天狼をいともたやすく切り裂いたのだった。
「四連同時開錠も効かんのか。もう終わりや……」
「いえ! 終わりじゃないわ!」
「なんなんや、あれ……!?」
黒剣によって分かたれた蒼き炎狼の半身から、瘴気でできた紫の腕が出現し、影王の仮面右半分を抉り砕いた。
シドンはくぐもった呻きを発し、片膝を着いた。
「……ぐぐ。謀りおったな……」
炎狼を隠れ蓑にアゼザルの瘴気を気付かれぬように仕込み、影王の虚を衝いたのだった。効いている。畳み掛けるなら今だ! しかしっ⁈?!
足元がふらつき、突然の眩暈にアクスは額を押さえた。
「回復が間に合わぬ。これ以上の瘴気は人の身では保たぬ。肉が崩壊を始め、動きが取れなくなるぞ」
「マジかよ? ここまできて……」
シドンが疾黒帯をレシアに向かって放った。
召喚した界門の維持・制御を担う魔導師を潰す腹だ。彼女を消せば、界門も消える。界門が消えれば、影王はこの世界に留まることになる。長期戦になれば力の差は歴然。勝ち目はない。それを見越してのレシアへの攻撃か。影王もなりふりかまわずということか。そこまで追い詰めておきながら、悔やまれた。
疾黒帯がレシアに迫る。レシアは目を瞠った。
とてもじゃないが、切り払うには数が多過ぎた。だが、彼女を守らねば、そこで希望は潰える。アクスはレシアのもとへと駆けた。そして彼女をぎゅっと抱き締め、身を挺して彼女を疾黒帯の猛威から庇った。
鞭のようにしなる疾黒帯が、アクスの背中を幾筋も切り裂いた。
「ぐっ!!」
その都度、血が舞った。
「がぁ、あぁ……ぐあっ!?」
「私のためにそこまで……もういいよ」
今にも泣き出しそうな声でレシアは言った。
アクスは痛みに呻きながらも、歯を食いしばり耐え続けた。見ていられなかった。
「どうしてそこまで……?」
「ぐ、はぁはぁ……お前なしじゃあダメなんだ。お前だけは失うわけにはいかないんだ」
アクスの必死な姿に心打たれる。また言い回しも悪かった。レシアの脳内で妙な変換が行われた。それは『お前なしでは生きていけない』イコール、プロポーズ!? と、この緊迫した場面にもかかわらず、見事なまでに破天荒な誤解を生成する。が、彼女の勘違いを訂正する者はいない。レシアが言葉に詰まっていると、
――――攻撃が止んだ。
何事かと振り向いた視線の先では、全ての疾黒帯が赤く燃え上がっているではないか。
「もしかしてユロさんのさっきの炎術『荒ぶる金羊』が、今になって発動したんじゃ……ほら、見て。影王自身も炎に包まれてる」
勝機は今をおいて他にない! アクスは駆けた。そして、シドンの首に剣を突き立てる。
「……ぐっ……ううぅ……」
焼かれながらも、シドンは黒剣を振り上げた。アクスはその燃え上がる手首を無造作に片手で掴み、首に突き立てた剣ごと、シドンの体を界門へと押していった。手の平の肉が焼ける嫌な臭いがするが、こちらもなりふりなどかまっていられない。
踏み止まろうと、シドンのかかとが土を噛んだ。
火傷も構わず、アクスは肩を押し当て、全身でシドンを門にむかって押し込んだ。影を渡るにも、体に触れられている状態では渡れない。まして渡るにも、近くに雲の影すら今は見当たらなかった。
シドンの背が、界門の結界に抵触する。激しいスパークが巻き起こった。
「……ぐがっ……こ、この雑魚どもめ……」
どうにかして外の世界に出ようと、魑魅魍魎どもの無数の手が、内よりシドンの体を掴んだ。引きずり込まれる。赤黒い一つ目が四方八方に間断なく動いた。
アクスは剣を引き抜くと、シドンから離れた。勝敗は決した。
結界が閉じていく。最後にシドンは言った。
「……貴様だけは絶対に許さぬぞ……アゼザル……」
――バタンッ!!! 開くときとは裏腹に、扉は勢いよく閉じられた。疾黒の影王は扉の向こう側へと還された。ゴゴゴゴゴッ……!! 出現時と同様、胃の腑を振るわす大音を轟かせ、双頭蛇の扉を持つ界門は、地下へとぐわりと沈み込んでいき、その姿を消した。
「やりおったであいつ……」
放心しきった表情。フェイは天を仰いだ。
アクスはしばらく月下に佇み、界門が消えた辺りを物悲しげにじっと見つめていた。
その合間にも、傷はみるみる癒えていく。紫瘴痕もみるみる引いていった。
「月夜に紅翼……まるで大天使ベリエラ」
血が霧状となって、アクスの背に吸い込まれるサマが、赤い翼に見えた。
完全に惚れた。キラキラと恋する乙女の瞳で、レシアはうっとりとその幻想的ですらある光景を眺めていた。ずっと眺めていられた。
不意に、月が翳ると、ふと糸が切れた操り人形のようにアクスが倒れかけた。
「あっ!?」
と、あわててレシアは、彼を抱き止めようと前に走り込んだ。