第二十話「禁呪」
「煉鎖二式、開錠。唸れ、蒼き炎狼シュッテンバイン。魔衛番の蒼炎刃!」
剣に封じられた気高き火の悪魔の力が解放される。剣身に煌々と蒼い魔炎が燈った。一気にアクスは駆けた。真正面からニルに斬りかかる。
またもニルは、パチンッと指を鳴らした。すると今度は、周囲に十本ほどの氷の矢が出現。ニルが上下に右手を振ると、氷の矢は一斉にアクスに襲い掛かった。
しかし、卓越した剣技で氷の矢を切り払い、アクスは大きく飛び退った。
さっきの突風といい、この氷の矢といい、厄介なのは、詠唱時間を必要としない、ほぼタイムラグ・ゼロで発動する魔術だ。
ニルの周囲にはまたも氷の矢――第二弾がセットされていた。右腕を振り下ろす。アクスがそれらをいくら叩き落としても、第三弾、第四弾……と、ニルは次から次へと、氷の矢を生み出し、放ってくる。
「さぁ、踊れ踊れ。無様に踊り果てろ」
執拗な波状攻撃。蒼炎を纏う剣がそのことごとくを斬り防ぐ。アクスが剣を振るう度、氷の欠片と蒼炎の残滓がキラキラと美しく舞った。
「……つっ」
変色した右手の爪から、血が噴き出す。魔装の連続使用による反動。ふと、自分の右手を見つめる。そういえば、ヤツの魔術も、右手の動作に連動して発動してるようだが……。
ユロは胸の前で手を合わせて、祈るように固唾を飲んで見守っていた。
攻撃がやや緩くなった。
どうだ? スキをつくってやったぞ。飛び込んで来い。きりきりと弦を引き絞る射手のごとく、ニルはタイミングを計る。
ギリギリまで引き付ける気か――懐に誘い込む作戦だな。なら、それを逆手にとるしかないな。このままではジリ貧だ。思い切ってアクスは跳躍した。
――今だ! 抜群のタイミングで、ニルは氷の矢を放った。
鋭利な矢は、確実に肩や足を切り裂き、アクスの太ももを貫いた。が、アクスは顔をしかめるだけで全く怯まず、ニルに肉迫する。一切ダメージを顧みない。至近距離、氷の矢の一本が深々とどてっ腹に突き刺さった――が、それさえも構わず、アクスは鋭い突きを繰り出した。
「こいつ……狂ってる……」
紙一重、ニルは体をひねった。喉元を蒼炎の刃が行き過ぎる。わずかに反応が遅れていたら……と思うと、どっと冷汗が噴き出した。
アクスは切り返して、二撃目を繰り出す。蒼炎が軽く撫でるように、ニルの右腕を掠めた。咄嗟、ニルは指を鳴らして、風の術を発動させた。
二人に近い狭間で、強い突風による爆発が巻き起こり、反発する磁石みたいに、一瞬で両者の距離を引き離した。それと同時、もうもうと砂塵が舞い上がり、視界を奪う。両者の姿は、その砂塵の中に掻き消えた。
――――睨み合っていたリュースの意識がわずかに逸れた。それを見逃すほど、フェイは甘くない。
「浸鎖二式、開錠。拉け、白断鉄亀アイトロール! 足狩り魔杖地割り!!」
地面に光る拳を叩き込んだ。すると大地に亀裂が走った。ついで肩に鋭い痛みも。
迂闊にもリュースは亀裂に足元を掬われて、大きくバランスを崩す。すかさずフェイはそこに追い打ちをかける。
「浸鎖一式、開錠。拉け……」
「絡鎖二式、開錠。嬲れ、錆蜘蛛ヒジュラ! 斬糸魔滴の結紮!!」
二人の声が重なった。はっきりと聞き取れたその声に気付かされた。完全にハメられたと。リーチ差を活かした攻撃を組んでくるとばかり、てっきり思い込んでいただけに、カウンターへの警戒が甘かった。
「……誘い込まれたんは、わいの方か?」
リュースの大鎌から伸びる魔の糸が、フェイの四肢に絡み付く。なんとかフェイはその場に踏み止まった。あの大鎌の間合いに引き込まれれば、間違いなく首を落とされる。
青ざめた顔。真紫に変色した両腕に血が滲むが、すうっと目を細め、まるで巣にかかった獲物を手繰り寄せる蜘蛛の如く、リュースは強くその糸を引いた。フェイは抗う。糸は服を通し、肌にまで食い込み、血が滴った。
「抗っても無駄だよ。いずれ四肢が千切れ落ちるだけ。ならいっそ一思いに。どう?」
「くっ……遠慮しとくわ」
――――ほどなく砂塵が晴れた。
普通の人間ならばとっくに戦闘不能だが、アクスは剣を手にしっかりとその場に立っていた。両の掌が紫に染まり、爪から血が滴る。太ももと腹からも、ダクダク流血、垂れ流し放題だ。他にも至る箇所にひどい傷を負ってはいたが、アンデッドの彼にとっては、痛みさえ我慢すれば、まだ活動に差し支えはないダメージ・レベルであった。
対してニルの方はというと、目立って大きな外傷はない。
そう思われた矢先――いきなり首から血を噴いた。
さすがにこれには当の本人も驚愕を隠し得ず、目を見開き、あわてて傷口に手を当てた。
何が起きたというのか? 再び熟した果実が弾ける。時間差で右腕からも、矢庭に鮮血がほとばしる。他人の腕みたく、ニルは当惑しきった表情で、じっと破裂した自分の腕を見つめた。
「――ニル!?」
「悪いな。オレ、アンデッドなんだよ。だから、こんな反則スレスレの捨て身じみた攻撃もアリでね」
どてっ腹と太ももに刺さった氷の矢を抜いて、ニルの前に放り投げる。
「お前の攻撃は躱したはず……?」
「剣身は躱しても、お前は蒼炎に触れた。そいつは熱傷による出血だ」
水疱が破れて皮膚が裂け、焼けただれていた。どす黒い血にまみれ、皮下組織が覗く。見るのも痛々しい重度の熱傷による傷痕であった。
「……右腕の仕草が詠唱の代償行為だろ? その腕じゃあ、もうゼロタイムの魔術は使えまい。勝負あったな。さて、それじゃあ話してもらおうか。お前たちがユロを付け狙う理由を。何の目的があって?」
と、飛び出しそうな内臓を押さえつつ、アクスは最初の質問を繰り返した。
ニルは悔しそうに唇を噛んで俯いた。
「さっさと話して、病院に行った方がいいぜ。熱傷は皮下脂肪にまで及んでる」
そういうアンタは、内臓がちょっとハミ出してますけど……相当、アクスの方が見た目、グロいんですけど……。
「……姉様は言った」
俯いたまま、ニルが独白する。
「殺してでもその女を、アーサーベルに入れてはならないと……」
「なぜ、そんなことを?」
「そう姉様が言った。それ以上に何がいる?」
「姉様とは誰だ? 何者だ?」
ニルの瞳に不穏な暗い色が差す。焦点の合わぬ目がじっと地面の一点に向けられていた。
「姉様の言葉は至上神聖不可侵。守らねばならぬのだ……だから――俺はその女をアーサーベルへは行かせない。是が非でも!」
だらりと垂れ下がった右腕を抱いてニルは、バッと顔を上げた。アクスとその後ろにいるユロをきつく睨みつけた。そして、べっとりと左手に付着した血を、乱暴に口に含むと、呪を紡ぎ出した。
「悠久よりも永い刻、夜よりもなお深い刻――」
「――ニル!! それはまずい。それは禁呪だ!」
リュースの制止を無視して、
「――そこに在り続ける存在無き者よ。其はまるで儚き泡沫――」
「あの呪文は悪魔召喚!? アゼザル、そいつを止めて!」
冒頭の詠唱で気付いたユロも叫んだ。
閉鎖空間が崩壊し始めた。悪魔召喚に魔力を集中させる為、ニルが閉鎖空間の制御を放棄したのだ。まるで魚の鱗。閉鎖空間を成立させていた白壁が、一枚、一枚と剥がれて、夜闇にキラキラと光の尾を引いて、霧散していった。天に月夜と星空が戻る。
「ニル、詠唱の中断を。今ならまだ間に合う」
その幻想的光景に見取れていたわけではない。ニルの背から迫り上がりくるものに目を奪われ、アクスはその場に立ち尽くしていた。
「――其の役は、暗き流れに淀みし、混沌を媒介と為す影――」
リュースはフェイの戒めを解き、ニルの元へと走った。やはり悪い方へ出た。氷姫絡みだと、ニルは周りが見えなくなる。だから乗り気じゃなかったんだ。そんなことを今更言ってもはじまらない。リュースは全力で駆けた。
「間に合わへんやろ……」
フェイは手首をさすりながら、事の成り行きを見守る。
「何やってんの!? 詠唱が終わっちゃう……」
「――其の求めるは破滅、望むは絶望。死よりも厳かな静寂をもたらせ――」
尾が繋がった双頭蛇の刻印がある、黒く巨大な門が完全に姿を現した。それは、アクスが死の直前に見たのと同じものだった。
「ニル……」
止めに入ったリュースも到底間に合わない。
「――常闇より出でよ、疾黒の影王シドン!!」
ニルの声が朗々と響き渡った。月夜の草原に。
幸か不幸か、悪魔召喚術式はここに完成してしまったのである。