第二話「血染めのアクスと大陸政府軍のサガ」
今の今になって、なんであんな昔の、それもどうでもいいような会話を克明に思い出しているのだろうか?
鮮血の海に沈みいきながら、アクス・フォードは思った。
光を失いつつある虚ろな瞳で、ぼんやりと夜空に目をやる。あの日も今日みたいな紅い満月の夜だった……って、死ぬ前に思い出すのがこんなエピソードだけなんて。オレの思い出って結構貧素だな、と今更ながらに思う。
もう指一本、動かせなかった。身体の感覚はすでに奪われ、とうに痛みも感じなくなっていた。
あのおっさんのヨタ話なんて、一貫して興味もない。けど、あのおっさんのことは嫌いじゃなかった。拾われた恩もある。つくづく馬鹿だな、と思う。あのしちめんどうざいおっさんの仇を討ってやろうと思い付くなんて。魔が差したとしか言い様がない。
「まぁ、やりたいことも何も無かったしな」
と、心の中で自分を自分で慰めてみる。
そして、運よく、いや運悪くと言うべきか。ここで野郎に出くわしたのだった。
だが、残念なことに、目の前のこのクソ野郎を殺すことはできなかった。傷一つ負わすことも。こっちが返り討ちにあってたら世話はない。つくづく馬鹿な話だ。
長く艶やかな金髪。美しい碧眼の男が、静かに血染めのアクスを見下ろしていた。
「けっ、イケすかねぇ野郎だ」
そんな悪態を吐く力も、アクスには微塵も残されてはいなかった。
「……大佐、ご無事ですか? お怪我はありませんか?」
剣を降って血を払い、大陸政府軍大佐サガ・ローウェインは肩越しに答えた。
「問題はありません」
「大佐を襲うとは不届きな……コイツは紫剣の生き残りでしょうか?」
女性士官は続けて尋ねた。サガと同じ濃紺の軍服。黒縁眼鏡の下から吊り上がった目が覗く。彼女はサガの副官を務めるヴィノア・テイラー中尉である。
「私には敵が多いですから。紫剣に限らず、ね」
そう言ってサガは、月下の白刃を鞘へと納めた。アクスの胸元で血に染まる黒いロザリオが、はたと目に留まった。いや、ロザリオというよりもその先端は鍵か? 変わった形状だな。ロザリオ状の鍵か。どこがで見たような……しかし、すぐに思い出せないくらいなら、さしてたいしたものでもあるまい。
「先に進みましょうか」
と、サガは振り返った。
「トドメがまだです!! 大佐を襲ったこの不埒な男に。大佐がお刺しにならないのでしたら不肖わたしめが……」
「必要はありません。すでに致命傷です。残念ながら、助かる見込みはないでしょう。けれど、どんな者にも光の主に祈ることは平等に許されています。最後に祈る時間くらいは与えてやりましょう」
「なんとお優し!?」
感動した面持ちでヴィノアは頬を染め、お慕い申し上げる大佐殿を見つめた。
――――そこに。
「大佐、麓の部隊から伝令です」
一人の兵士が変事を注進しにやって来た。
その瞬間、期せずして夜であるにも関わらず、森の鳥たちが一斉に物凄い羽音をたてて飛び立った。鳥たちだけではない。鹿や猪、リスやねずみ、うさぎやきつねといった動物たちも、けたたましい鳴き声を放ち、草むらから突然飛び出した。普段は人を恐れる彼らも、その存在など忘れたかのようにサガたちの目の前をかすめて、まさに脱兎のごとく一目散に東へと走り去っていった。
「動物たちの進路を遮らないように!」
サガの忠告のおかげか、猪にはねられたり、鹿の角に引っ掛けられたりする兵士はごく少数だった。あっという間の出来事。
「一体、何が起きたんだ……?」
誰かがぼそりと呟いた。
「中尉、隊伍を」
呆然とするヴィノアや兵士たちの中にあって、泰然自若とサガは口を開いた。ヴィノアはすぐさま我に返って、的確な指示を出す。
「はっ。隊伍を乱す!! 各班、下士官は可及的速やかに自班の負傷者の確認。応急手当の指示。その後、わたしに報告」
「さて。では、伝令を伺いましょうか」
先程、自分を襲撃した賊――アクスのことなどもはや一顧だにせず、何事も無かったかのようにサガは伝令兵の方を向き直って、報告を促した。伝令兵はあわてて居住まいを正した。
「西方約二〇キロ地点において山火事を確認。火は急速にこちらに向かっています。急ぎ下山されたし、とのこと」
『急速に』と言っても、火はまだ遠いはず。ここからはまだ煙すらも確認できていない。なのにあの動物たちの怯え方は尋常でなかった。どういうことでしょう? 火に怯えたのではないとしたら? では、さっきの動物たちの異常行動は山火事とは無関係? なら、彼らは一体何に怯えて飛び出したのか? サガは疑問に思った。それに今のこの季節、雨もそこそこ降り、つい昨日も降ったばかりだ。ここら――アリアド山系一帯は、年中気候も安定している。付近で最近、雷も観測されてはいない。山火事の原因となるものがない。原因はなんだろう? 考えを巡らすサガに、ある一つの仮説が浮かんだ。まさか……。
「飛び火はしていましたか?」
「はい。風もあまりないのに点々と。それらが合わさっていって、急速かつ広範囲に火が広がってるそうです。ですので急ぎ退避を」
「大佐、負傷者はいずれも軽傷。行軍に支障ありません」
サガは少し考え、報告に来たヴィノアに告げる。
「中尉、全軍に通達です。本日の遺跡の探索は打ち切り、麓の野営地まで急ぎ下山します」
「大佐、お言葉ではありますが、麓の野営地まで後退というのは、いささか心配され過ぎではありませんか? たかが山火事程度で。帰途日程も大幅に遅れます。それなら先に進み、遺跡で山火事をやり過ごした方がよくありませんか? 遺跡は渓谷にあることですし」
下士官達から報告を受けながら、横で聞いていたヴィノアは怪訝な顔つきで、そう意見を具申した。
「中尉、アナタには失望です。私の右腕として、期待しているだけに」
「え!?」
ヴィノアはショックを隠し切れず、眼鏡がずり落ち、頬を引きつらせる。尊敬し、お慕いするローウェイン大佐から、そのようなお言葉を頂くなんて。
「あたすはもうラメら。どうすらばりい?」
心の中でそう呟くヴィノアは青ざめた顔をして、変なポーズでその場に固まった。両手が影絵のキツネを象っている。それがショックの大きさを、どうでも見事に表していた。
「そもそも中尉、『たかが山火事程度』と判断した根拠を聞きましょうか?」
「こ、根拠は……特に、ありません」
「ならば、それをまず私に聞くべきでは? 私はあなたに常日頃から、なんと訓戒を垂れていますか?」
「できるかぎりの情報を集めた上、考察を重ねた結果の判断が大事だと。これから咄嗟の判断を要求される局面が出てきたとしても、常日頃からそういう物事の考え方を訓練していると、少ない情報の中でも最善の道を選択できる可能性が高まる。立場上、我々はそうでなければならない」
「はい、よく言えました。そのとおりです。でも、言えるだけではダメです。情報を集める時間は十分にありました。では、ここで汚名返上のチャンスを与えましょう」
「は、はいっ!!」
勢いよく、意気込んで返事をするヴィノア。その様子に微笑交じりに頷くサガ。まるで教師と生徒のようである。ヴィノアはくいっと中指で眼鏡を押し上げた。
「まず彼が麓から、西の方角約二十キロ地点で山火事を確認したと、私に伝えに来ました。この辺りの地域状況を踏まえて、そこから連想されることは?」
「……アリアド山系一帯は雨が多いけど雷は少なく、安定した気候。昨日も雨が降った。例年、自然発火による山火事発生率は著しく低い。山火事が自然に起きるとは考えにくい」
「ゆっくりと考えれば気付くことですよね。ついで彼はさらに、急速に火が広がっているとも言ってましたよね。そして、また煙すら見えていない。火はまだ遠いはずなのに、動物たちは尋常じゃない勢いでみな、東へと逃げていきました。人より敏感な彼らは、西に何かを察知したようです。ふと、ここで頭によぎることは?」
自らの思考過程をなぞるように、サガは丁寧に質問を繰り返した。
紫剣――『紫の剣団』討伐の武功で、少佐からいきなり大佐へと破格の昇進を遂げた、成り上がりのサガには、真に信頼できる古参の部下が少ない。唯一この目の前のヴィノア・テイラー中尉と、麓で留守部隊を預かるシェスカ・サキ少尉の二人だけが、彼の信頼に足る古くからの部下であった。特にヴィノアには、自らの参謀としての役割を大いに期待していた。
ヴィノアは、下唇を人指し指と親指で軽くつまんだ。じっくり考え込むときの彼女のクセだ。
「……五日前、街道で会ったご老人が話してくれたこと――竜の目撃情報でしょうか?」
「その可能性を検証する手段は?」
「飛び火の有無? 二十キロ向こう、西の山には、さらに西と北に高い山が連なり、その山に遮られて強い風はほとんど吹かない。急速に火が広がる原因が風でないとしたら、出火点は移動しているのではないか? ――という推測に到り、竜の吐く息による火災の可能性が極めて高いと見るべき」
「当然そういう思考になりますよね。全てを焼き尽くす竜の吐息。街道でお会いしたあのご老人は、ここら一帯をぐるぐる飛行している奇形の竜を、ここ数日、何度か見かけたから気を付けるようにと、おっしゃってくれてました。その情報が役に立ちましたね」
「しかし」と、不満顔でヴィノアは眉根をひそめた。
「どうかしましたか?」
「いえ、だったらシェスカが、竜の存在を報告してきて、しかるべきかと思いまして」
「月明かりや火の照り返しがあったとしても、夜ですので、遠方の竜の姿を視認するのは相当難しいかと。それに少尉は昼間のあの時、部隊のみなさんや馬に休憩を取らせて、自身も木陰でお昼寝してましたから。あのご老人の話は聞いてませんからね」
竜のことまで思いが至らないのは当然だった。が、ヴィノアにはなんだか腹立たしかった。
「シェスカのヤツ……昼寝なんかして」
シェスカがちゃんと老人の話を聞いていたら、大佐に悪い印象を与えずに済んだ。ただそれが正直不満であった。
「少尉は部隊の指揮など、実務的によくやってくれてます」
ヴィノアのそんな気持ちなど全く気付かず、笑顔でサガが言う。
「シェスカばっかり……」
ヴィノア的には断然面白くない。
「部隊のみなさんも、上の者が休憩を取ってないと、休むにも気を遣い窮屈でしょうから、少尉が私に代わり、大仰にお昼寝をとってくれたんですよ。ですから、お昼寝を責めないであげて下さい」
と、さらにてんで的外れなことを言い出す始末。大佐殿はどうも女心には疎そうな朴念仁のようだ。
「まぁ、とにかくまだ距離がありますからね、遺跡まで。途中で竜に襲われてもなんですし、それにこの人数で迎え討つのも馬鹿らしいので、今日のところは出直しましょう」
遺跡には五百人規模の部隊が駐留していたが、その部隊と合流する前に竜と出くわすリスクと、出直しの時間的損失を天秤に掛けると、サガの選択は正鵠を射ていた。
「それに――貴重危険極まりないものはすべて、ほぼすでにアーサーベルに運び込まれています。新たな発見はないと思われますしね。今回の遺跡には、なんらもう価値は残されてないでしょう」
そう言ってサガは、さっさとこの場を後にする。今回の任務は物見遊山みたいなものだ。
それはわかるが、ずいぶんとのんびりし過ぎではないか? そう思わなくもなかったが、ヴィノアは不機嫌そうに眼鏡を乱暴に押し上げると、大声で言い放った。
「本日の二十七番遺跡の探索は中止だ。撤収。下山する。急げ! お前も何をしている!! 遺跡の部隊にこのことを伝えに行け! グズグズする!!」
二人の様子を見ていた伝令兵は、思いっきりとばっちりを受けた。