第十七話「長い夜のはじまり」
ユロのとびきり不機嫌な理由が、アクスには皆目見当が付かなかった。
夕方、ホームではしおらしく素直であったのに、かと思ったら、急にへそを曲げて、アリアと口喧嘩したり、……女心と秋の空とはよく言ったものである。
ばふっ!? とベッドに勢いよく倒れ込んで、ユロは枕に顔を埋めた。
「いきなりどうしたんだよ?」
相部屋の乗客二人は、逆側の二段ベッドのカーテンを引き、すでに寝てるのか、もう中に籠っていた。アクスは気を遣って、声のトーンを落とした。
「何か気に食わないことでもあったのか?」
「アンタよ」
「オレ? まったく心当たりがないんですけど……」
「もう放っておいてくれる。寝るから――」
今日はもう何を言ってもムダだろう。彼女の小さな背中は、そういうオーラを醸し出していた。アクスは大きなタメ息を吐くと、
「……わかったよ。おやすみ」
と、ベッドのカーテンを引いた。
それから、はしごを使って上へとあがり、自分もごろんと横になった。
「バカ」と、ユロは小さく呟いたのだった。
やがてランプの燃料が切れて、部屋にも夜の帳が下りる。
だが、どうもなかなか寝付けない。無理に寝る必要もないか。アクスはベッドを抜け出した。ユロが眠る下側のベッドをちらりと見、各車両の後部にあるラウンジへと向かった。
ラウンジには先客がいた。
窓際に備え付けのカウンターテーブルに上半身を預けて、フェイが夜空を眺めていた。
「フェイ、お前も眠れないのか?」
「わいみたいなデリケートさんには、この振動がアカンのや」
言うほど、列車の振動が気になることはない。アイサツ代わりの軽口だ。
「そんなタマか? 言ってろ」
と、アクスは隣に行った。
肩を並べて、流れる星空を眺める。しばし二人は、言葉を交わさずにいた。列車の走行音は、波音のように一定のリズムで、とても静かな夜だった。
曇りがかった星空を見上げたまま、
「……レシアが言うとった。お前、人間やめたんやってな」
不思議そうに、こちらを見ていた少女の顔を思い浮かべる。ただの子供ではないと思っていたが、いやはや……。
「一回死んだ。まぁ今は、死にぞこないやってる」
「あんだって……?」
そのボケには身に覚えが……、とりあえずさっくりと無視することにした。
「――その……色々あってな……」
「さよか。色々あってんな」
ポリポリと鼻の頭を掻いて、アクスは色々の一言で済ませた。フェイはそれ以上、詮索してこなかった。
二年振りだというのに、お互いこれといって話すことがない。えてして男同士なんてそんなものだ。二人してまた静かに流れる夜空に目をやる。
不意に、汽笛が鳴った――と思ったら!?
強烈な揺れが列車を襲った。キキキキキキッ――!!!! と、金属同士が擦れ合う摩擦音が耳を突いた。車輪が無理にレールを滑る、ひどいブレーキ音だ。
強い慣性力が働き、前へ体をもっていかれる。アクスは咄嗟、壁に備え付けのテーブルに手を掛け、難を逃れた。が、フェイはすっ飛ばされ、前方の扉に強かに頭を打ち付けた。
続けて、短く小刻みに汽笛が鳴った。その後、長く緩やかな汽笛が一回、闇夜に響き渡った。
「大丈夫か、フェイ?」
右手で側頭部を押さえて、フェイはゆらゆらと立ち上がった。
「……っつう!? ……血ぃ出とるかも。ちょっと見てくれ」
「出てない」
「返事早っ!? せめて見てから言えや」
「血、出てるかも。熱あるかも。骨、折れてるかも。これはすべてかもかも詐欺です。大層にそう言う人に限って、全然まったく一切たいしたことはありません。絶対にダマされないで。まずは家族に相談。ストップ、かもかも詐欺」
「なんの話やねん!? ボケ倒しとう場合か! 何が起きたんや?」
「さぁ。どうやら厄介ごとだというのは間違いなさそうだがな」
窓の外を見て、真顔に戻ったアクスが言った。
「……いい星回りだ」
曇りがかった星空を見上げ、ニル・シュライザーは呟いた。
「無傷で列車を止めろだなんて、難しいこと言うねぇ」
線路の真ん中に突っ立って、リュース・レオンは愚痴る。遠くでフクロウが鳴いていた。
「無関係な人間を極力巻き込みたくない。お前の魔装なら可能だろ、リュース」
ニルはズボンのポケットから、飴を取り出して口に放り込んだ。
木々の隙間から、闇の中をちらちらと移動する光が見える。列車とはまだ距離があった。
「……まぁね」
「物言いたげな顔だな?」
言っても聞く耳ないクセに。この件に関しては、全く乗り気ではなかった。だが、放ってもおけない。
「ニルに付いてくよ」
と、リュースは無造作に、右手の大鎌を前方へと突き出した。
列車は直線に入った。機関車のライトは、闇の中からリュースの姿を浮き彫りにする。親切にも、危険を知らせる警笛が鳴らされた。さらさら回避するつもりはない。真っ向、巨大な機関車は一直線、リュースに殺到する。
「絡鎖四式、開錠。嬲れ、錆蜘蛛ヒジュラ。余魅円網の魔巣」
リュースの力ある言葉と共に、大鎌の先に大きな蜘蛛の巣が顕現した。
「魔の巣に絡み捕られたモノは、ナニモノであろうと、逃れること適わず」
列車が魔の巣にかかる。車輪が激しく悲鳴を上げた。瞬時にかなりの勢いを削がれたものの、列車はまだ止まらなかった。
ズザザザザザ!!! 小石を弾き、枕木の上を滑り、リュースは魔の巣ごと十メートルほど線路を滑った――が、それまで――彼の宣言通り、魔の巣からは逃れられず、列車はまもなく停止した。
魔装開錠に伴う反動で、二の腕に紫のラインが走り、鈍い痛みを発する。網目状のそれは、蜘蛛の巣を連想させた。
けたたましい警笛が何度も鳴らされる。
機関車から機関士二人と車掌一人が降りてきた。手には銃を持っている。
「上出来。リュース、行くゾ!」
と、ニルはガリッと飴を噛み砕いた。それが合図だった。異眼が発動する。ブラウンの瞳が、エメラルド・グリーンとトパーズ・イエローの左右異なる美しい色に変わった。
「たいした労いもなしか。つれないねぇ~」
と、リュースは二の腕をさすってぼやいた。
「止まれ! お前たちは何者だ!!」
車掌は銃を構えて、二人を制止する。ニルは指揮者のように、右手を振った。すると、車掌たちは銃を取り落として、その場に倒れた。そして、皆一様に寝息をたてる。
その横を、ニルは悠々と通り過ぎた。
「目標は十三番目の車両だ」