第七話 無支祁
1
堯の九年、無支祁が孽を為し、応龍が之を淮陽亀山の足下に駆った。其の後水は平らげられた。
「岳瀆経」
大司空の人生をかけた治水事業は、多くの犠牲を払いつつも完成に近づきつつあった。
そんな折、事件は起こった。
「治水現場の人足達が怪我をして、こちらに逃げてきているそうじゃ」
応龍に餌をやっていた俺ーー噛まれなくなったーーに董父が声をかけてきた。背後にいた麗花さんが続ける。
「何やら怪物に襲われたなどとわけのわからない事を言っているそうだ。私達も話を聞いてみよう」
納屋に運ばれた人足達は口々に言う。
「おっとろしい奴だった! 毛むくじゃらでよう! 身体は青っぽくて、頭は白くって、目が金色に光っとった」
「そのとき、そいつの首が百尺くらいに伸びたんだ! そいでおいらの持ってた松明を長い首で巻き取ったんだわ」
「俺はそいつの牙が、趙さんの胴を貫いたのを見ただよ。こわやこわや」
「なるほどわからん」
早々に匙を投げた俺の頬を麗花さんがぎゅうぎゅうとつねる。
「お前、怪物の正体をいつもペラペラと私に語ってるじゃないか。ああ、あれはなんとかドンですねー。なんとかザウルスですねーって。肝心な時にその能力を発揮せいよ」
「見てみないと、こんなんわかんないっしょ」
俺達は応龍に乗り、現場へと向かった。
2
現場には既に結構な規模の軍隊が到着していた。
皆、鎧兜を身につけているが、肩当てがなく袖が剥き出しで、兜も鉢型の簡素なものだ。一般に思い浮かべる中国の鎧からはかなりかけ離れた素朴な装備だった。武器は槍の横に鎌のような刃を組み合わせたような代物だ。
「件の怪物とやらに投石が効くかは別として、空から監視の目をまわせるのは非常に心強い。よく来てくださった」
俺達を出迎えたのは、庚申という将軍だった。非常に大柄な男で、箪笥がかつげそうな肩幅をしている。
聞けば、庚申は既に一度怪物の捜索に来たものの、協力を約束した地元の豪族達は怪物の声らしきものを聞いただけで逃げ出してしまい、引きずられる形で撤退を余儀なくされたという。
「その時、わたしも怪物の声をたしかに聞いた。これを見てください」
木の幹に巨大な穴があいている。怪物が牙で開けた、ということなのだろう。地面は岩が多く、足跡は発見できなかった。
麗花さんは応龍に乗って上空から広く捜索し、俺は地上で庚申将軍の怪物捜索隊に加わることとなった。
川に沿って進んでいく。周囲の森が深まり、両岸は崖のようになっていく。
木の葉の揺れる音がすると、庚申がいきなり俺を突き飛ばした。
「伏せろ!」
慌てて言われた通りこける勢いそのままに伏せた。
庚申はさっきまで俺がいた地面に刺さったものを抜く。
「吹き矢か。何者だ! 姿を見せろ」
「無支祁は我々の獲物だ。邪魔をするな」
土器の面と毛皮を被り、腕を赤土と白土で彩った女性が現れた。
「このクン・ヤンが一族の仇を討つ」
この前の崑崙族の女首領だった。周囲からごそごそと同様の出立ちの崑崙族の戦士が現れた。
「あー、邑を襲ったやつらじゃないか! またやりあう気か!」
「ふん、今は無支祁が先決だ。お前にかかずらっているひまはない」
その時、上空から麗花さんの叫ぶ声が聞こえた。
「なんかモコモコしたデカいやつが来たぞ! 気をつけろ!」
背後でめりめりと木の折れる音、岩の砕け散る音がした。
続いて、壊れた掃除機か、ひびの入った法螺貝のような奇怪な音が響き渡った。
何か毛むくじゃらの長いものがにゅっと伸びて崑崙族の一人を掴むと、ばちばちと岩に叩きつけた。
脳漿が岩壁に飛び散った。
「無支祁だ!」
続いて白い牙が庚申の連れてきた兵を貫いた。
どぼっ、という二度と聞きたくない音と共に血まみれの兵が投げ落とされる。
こいつの前に鎧は気休めにもならないらしい。
クン・ヤンは果敢に吹き矢を怪物に当てたが、全く効いている様子がないのを見ると、彼女も踵を返して逃げ始めた。
誰もが何も声をかけあわずに本能に従って全力の逃走をはじめていた。
しかし、俺は渓谷に現れた怪物、無支祁の巨大なその姿を振り返って見ずにはいられなかった。
頭は白く、身体は蒼く、前脚も後脚も長い毛に覆われていた。
恐ろしい牙は白く輝き、目は金色に爛々と燃えていた。
首と見間違えられた長い鼻をふりかざして勝ち誇る巨獣。
信じられないほど巨大に成長した、マンモスの生き残りのその姿を。