第二話 御龍氏と相龍氏
「ゆっくりゆっくり、あ、そこは触っちゃだめだ、あー」
餌の川魚を口に運びながら翼竜の喉を撫でると、その三白眼は俄かに充血し、俺の腕を巨大な嘴が挟んだ。
「痛い痛い、離せこのクソドリッ!」
何回かやられているが、痛いことは痛いものの大怪我をするようなことはなかった。何故ならアズダルコ科の翼竜には歯がないのだ。
麗花は俺を翼竜から引き離すと、杖で俺の頭を強めに殴った。
「今のはお前が悪い。逆鱗といって、龍は顎の下を撫でられると怒るんだ。この邑で生まれたものなら、おしめの子どもだって知っている。常識中の常識だ」
「いや、俺は日本という国で生まれてですね……」
「あーまたその話ね、はいはい」
「聞いて?」
成り行き上、この翼竜を育てることで記憶を取り戻させようという周囲の圧力に屈した形である。おかしな話だ。
おかしなことは翼竜のことだけではない。
この村はどこか日本ではない外国らしいが、なぜか言葉が通じるーーお互いの言ったことが脳内で日本語に変換されるーーー奇妙な感覚。青い狸の出すいかれた蒟蒻でも食べたかのようだ。
それに、この電気もスマホも水道さえもない限界集落。こんなところにこれ以上滞在を余儀なくされたらウルルンどころか涙も枯れ果ててもう二度と笑顔にはなれそうもない。
ーー夏王朝の時代には龍使いの伝説があるーー
京子さんの言葉が蘇った。タイムスリップ?しかし、中国古代に翼竜がいるなんて話、マジで信じられるか?夢でも見てるんじゃないか。
「また、京子さんとやらのことを考えているのか。許婚たる私に対しての当て付けというやつか」
「えっ、麗花さん、許婚なの!」
麗花は杖を構えて振りかぶったあと、そのままその場にゆっくりと降ろした。
「本当に何もかも忘れてしまったんだな……」
麗花は近くの岩に腰を降ろす。俺もその隣に座った。
「拳龍氏は、朝廷に仕える龍使いの二代氏族のうちの一つだ。代々、空の龍使いを輩出する董一族が拳龍氏の姓を賜っている。」
「二代氏族……じゃあ麗花さんの御龍氏がもう一つの氏族なのか」
「違う。御龍氏は、我が劉一族は、いつの時代も龍と一体となれるほどの使い手を輩出できなかった。劉一族は二代氏族が絶えそうになったときに、嫁やニ家の幼主が成長するまでのつなぎとなって龍使いの血筋を助けるのが役目だ。董隆、お前との結婚もそうやって決められている」
「麗花さんはそれでいいの?」
「良いも悪いもないさ。決められたことだ」
そういう声音にはどこか、乾いた響きがあった。
「そんなことない……」
俺がそう口籠った時、背後から二本の角を持った黒い影が二人に覆い被さった。
「そう、決められたことだ。良い心がけじゃないか、麗花」
もっと乾いた、そして冷え切った声が岩肌に跳ね返る。
「来ていたのか、折輿」
振り向いた麗花は、影の中に立つ男に対し、どこか厳しい口調で言った。
「ああ、親愛なる空の龍使いに変事があったと聞いては、陸の龍使いは居ても立っても居られないというわけさ」
巨大な頭が涎を垂らしながら二人に近づいてきた。
「夔龍よ、だめだ。これは餌じゃない。」
男は巨大な頭を撫でる。
「はじめましてみたいな顔をしているから言っておこう。相龍氏の折輿だ」
カルノタウルスを想起させる巨大な肉食恐竜の口から、涎がまた滴り落ちた。しかし、それよりも俺の目を捉えて離さなかったのは、男の、何もかもが沈み込んで戻らない、そんな泥炭の沼のような黒い瞳だった。