第十一話 月夜の翼
1
「丹朱様?って誰さ」
「丹朱様は帝のご長男だ。帝はご病気ゆえ、誰かに帝位を譲って引退されようと考えている。そこで選ばれたのは、長子たる丹朱様ではなく、自らを長年補佐してきた舜様だった」
麗花さんは、静かに返す。ここ数日、この龍使いの邑の中はこの丹朱様問題の話で持ちきりだったので、俺もさすがに気になって聞いてみたのである。
「ああ、その丹朱様とやらはあまり出来がよくない、とかそういうことか」
「そういうわけでもない。確かに派手好きの女好きで私が大嫌いな類の殿方だが、戦争では大いに活躍された。だからこそ、丹朱様も黙ってはいないのではないか、と噂されている。明日、譲位の詔が発布されるとき、何か起きなければいいが……結構暗くなってきたな」
「そろそろ帰ったほうがいい。こんなに遅くまで男の部屋にいたら、誤解されちゃうかもだしね」
麗花さんは、俺の軽口を聞くとぼそりと返した。
「私は別に構わない」
意外な返答だった。
「それは……許嫁だから?」
「違う」
麗花さんはゆっくりと俺の手に触れた。その手は熱く、しっとりと汗ばんでいた。
俺は差し出されたその手を、握り返していた。
2
夜が更けた。寝台から窓(といっても四角く穴が空いているだけだが)を眺めると、満月が輝いている。その不気味に赤く光る月を見て、俺は急に不安になった。俺の腕を枕に、麗花さんは静かな寝息を立てている。
本当に京子さんに似ている、それが故により一層彼女を裏切った、という実感が強くなった。
恐らく元の時代にはもう戻れない、だからといってどうでもよくなったわけではない。
俺はいったい何をしているのだろうか。
月明かりに、一つの大きな影が照らし出された。
二本の角を生やした鬼のようなシルエット。
「麗花さん!起きてくれ!襲撃だッ!」
俺は麗花さんを揺さぶった。麗花さんは即座に飛び起きて、俺の顎に派手にぶつかった。
「いだだだ、舌噛んだー!」
「襲撃???」
麗花さんは一糸纏わぬ姿で扉に駆け寄る。
「麗花さん、服、服!」
慌てて服を着て、寝台の下に隠していた弩を背負う。扉を開けると、董父さんが廊下で手招きをしている。何故か俺が龍に乗る時に着せられていた服を身にまとい、顔を面布で覆っていた。
「こっちじゃ。現状についてじゃが、相龍氏が闇夜に乗じて攻め寄せてきたのはわかっておるか?」
「夔龍の姿が見えました。こんな夜分に来る理由がないので、襲ってきたのだとは思いましたが、理由がわかりません」
董父はしばらく押し黙っていたが、やがて静かにいった。
「息子が応龍から落ちたとき、直前に酒を注いでいたのは相龍氏の折輿じゃった。怪しんで酒を調べたものの証拠は出なかった。ただ、今回のことで確信を持てた。奴らを同じ龍使いの仲間だと思っていたのは、我らの側だけだった、ということじゃろう」
廊下に開いている窓から外を伺うと、夔龍達は外の蔵を襲っていた。蝶番が蹴爪で壊され、中に相龍氏の男達が入っていく。やがて男達は、弩、麗花さんが蚩尤の弓と呼んだ機械式の弓を運び出した。
「狙いはお主の作ったあの弓か。もう一つの蔵にある、例のものを気づかれる前に運び出さねばなるまいぞ」
俺たち三人は破壊された倉と離れた場所にある、もう一つの蔵に向かった。
蔵の鍵を開け、中に置かれた土製の筒を持てるだけ持つ。
蔵をそろそろと抜け出し、応龍のいる厩舎へ向かう。
「いたぞ!」
背後から巨大な影と鼻息が迫るのを俺は感じた。
走りながら家々の角で隠れる。影はすぐに迫ってくる。
董父が俺の肩に手を置いて、言った。
「お前が息子ではないのはもうわかっている。わしの息子は、あの日、応龍から落ちたあの時、死んだのであろう。わしら親子の仇を討ってくれ、とは言わぬ。息子によく似た優しい青年よ、どうか生き抜いてくれよ」
董父は迫る影の方向に飛び出した。
「龍使いの関隆はここだ!卑劣な相龍氏め、相手になってやる」
「と、とうほさ」
俺の口を麗花さんが塞いだ。
「あの人の行為を無駄にしてはいけない!逃げよう!」
俺は麗花さんの真っ直ぐな目に見すえられ、数秒逡巡した後に、頷いた。
再び駆け出し、応龍達の厩舎に駆け込む。
片っ端から軛を外していく。すぐに逃げ出す龍もいれば、キョトンとして座り込んでしまう個体もいた。
俺たちの相棒である応龍は、軛を外すと恭しく頭を下げて騎乗を促した。そして、彼は俺たちを乗せると全速力で走り出し、そして飛翔した。
月夜に照らされた巨大な翼を、地上から眺める者達がいた。
「折輿さま、やられました。さっきぶち殺した龍使いは、関隆ではなく、ご隠居のほうです。龍も取り逃してしまったし……」
相龍氏の一人が爪で切り裂かれて血まみれになった董父の亡骸を龍の脚で踏み潰した。
「ふん、構わぬ。蚩尤の弓なくして、我ら相龍氏に相対することなどできまいよ、それに」
楽しみは後回しにする性質なんでね。
折輿は独りごちた。





