第十話 丹朱
堯は囲碁を造り、丹朱は之を善くした。
「世本 作篇」
折輿はしなだれかかる女官を鬱陶しそうに払い除けると、黒い石を置いた。
「お前がこれを覚えてくれて嬉しいよ、折輿。やはり、ここでは打つ相手が限られてしまってね」
そう言って盤を挟んで向かいに座る男は白い石を掌中で弄ぶ。男の両脇にも女官が二人、こちらはねっとりと絡みついて、ほぼ一体化の様相を呈していた。
「殿下のお相手を務めさせていただき、光栄の至りです」
「そういうのはいい。この丹朱、皇子などという立場にさのみ拘ってはおらん」
帝である堯、その一人息子である丹朱は第一皇子であり、順当にいけば世継ぎだということになる。
丹朱は白い石を摘むと盤面に置いた。置いた、というよりも打ちつけた、というほどの大きな音がなった。
「皇子だなんだといったところで、帝位も継げぬわけだしな。のう、折輿、可笑しかろう?」
「おかしいですね」
「ぁあ?」
身を乗り出した丹朱の目は、血の筋でも切れたのか真っ赤に染まっていた。
「道理が通らない。間違っている、という意味でのおかしい、ということです」
丹朱は折輿の返答に顔を綻ばせた。
「なんだ。驚かすなよ」
丹朱は石を弄びながら盤面に目をやった。
「のう、折輿。この囲碁なる遊戯をどう思う」
「この石の取り合い一つに何千何万通りもの手があり、まるで戦のようで、まこと奥深いものだと思います」
折輿の返答を聞くと、丹朱は目を伏せて呟くように言う。
「そう、戦のようだ」
丹朱は盃を手繰ると一気に飲み干した。
「九つに満たぬ頃だったかな。父上からこの遊具を与えられた時、余は心から喜んだ。そして、すぐに理解したよ。これは戦を表現したものなのだと」
そこまで言うと丹朱は目を瞑り、天を仰いだ。折輿は彼が何をその眼に呼び起こしているかを想像した。
丹朱は、親の期待に応えようと囲碁を精進し、長じては戦に邁進した。
異民族、特に三苗は丹朱が平定したと言っても過言ではない。
「だのに、だ。先日、廷臣たちが余を世継ぎにと推した時、父上はこう言ったそうだ。“あれは頑固で凶暴だ。とても任せられない”」
丹朱はおもむろに立ち上がった。絡みついていた女官達が悲鳴を上げて離れていく。
「だったら! なんで! こんな物を! 俺に渡した!」
丹朱は叫び終えると碁盤を蹴り飛ばした。碁盤は折輿の肩を掠めて庭を転がり、池に落ちた。
「まったくです」
「……もう、孝行面してあの老ぼれに仕えるのはうんざりだ。もらえないものは奪い取るまでよ。例の計画を実行に移す。我が友人も協力を惜しまない。それに」
丹朱が手を打つと、庭に従者たちが車を押してきた。その中には、溝の掘られた長い柄の先に弓を取り付けた物が満載されている。蚩尤の弓であった。
「この武器は素晴らしい。矢を番えるのに時間はかかるが、一度放てば必ず真っ直ぐ飛んでいく。どんな馬鹿でも当てられるし、大型化した物を例の船にも積む予定だ。時に、折輿、この武器の製法は蚩尤の一族から寝返った、そなたら相龍氏のみが知るはずであったな」
丹朱は折輿の襟首を掴んだ。
「拳龍氏 (かんりゅうし)の跡取りが蚩尤の弓を使っていたという話が、確かな筋から入ったぞ。きさまは、反乱の計画に奴を引き込むのに失敗した時、始末すると言ったくせにしくじった。その時、きさまは余にこう言ったのだったな。“奴は記憶を失っており別人のように腑抜けになりました。現状無害ですが、すぐに今度こそ始末します”。それを信じたらこの様だ」
「面白い」
「……ふ、ははは。肝の太い奴だ。何が面白いって?」
「我が一族から秘密が漏れるなどあり得ない。拳龍氏にも失われし技が伝わっていたか、独力で編み出したか。いずれにせよ、私の知っていたあの男より手強いかもしれない。心躍らずにいられません」
折輿は丹朱の指を一本一本引き剥がした。
「失礼つかまつる。奴と再び戦わねばなりませんので」
「……決行は明後日だ。それまでに奴を消せッ」
丹朱が吐き捨てるように言うのを、折輿は背中で聞いた。
折輿の脳裏に、空中でもがき始めた関隆が自分を睨みつけながら落ちてくる姿が蘇った。
奴は今際の際に、異なる世界から何者かを引き寄せたのかもしれない。
復讐のために。





