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第一話 拳龍氏


天、龍二を降す。雌雄有り。 孔甲こうこう、養うこと能わず。未だ拳龍氏かんりゅうしを得ず。陶唐とうとう既に衰えて、其の後に劉累りゅうるい有り。龍を(ならすことを拳龍氏 に学び、以て孔甲に事う。孔甲、之に姓を賜う。御龍氏ぎょりゅうしと曰う。豕韋しいの後を受く。龍の一雌死す。以て夏后に食らわす。 夏后、求めしむ。懼れて遷りて去る。

「史記 夏本紀」



 上野の某美術館で開かれている企画展「龍の奇想〜中央アジアから日本をつなぐ龍の道〜」は、伝染病の世界的流行にも関わらず盛況だった。盛況といっても美術館では騒ぐ人はほとんどいないので平和なものだ。大声で喋る人もいなければ、鼻マスクの人もいない。


「……ねぇ、あんまり興味ない分野でしょ?大丈夫、関くん」


耳元で囁くのは坂上京子さかがみきょうこ。都内の民俗史料館に勤める学芸員で、その資料館でやっていたワークショップで知り合った。付き合って半年になるが、関係が深まっている気はしない。身体に触れられることに抵抗感が強くあるということで、デートでも手を握らせてくれない。

柳のような細い身体に不釣り合いな豊かな胸、白い肌。黒目がちの大きな目と小ぶりな鼻。ベリーショートの髪は若干傷んでいる様子だ。今日はうっすら花柄の入った白系のブラウスとジーンズというスタイルだった。靴は何故かいつもハルタの学生靴を履いている。胸元のループタイもいつもつけているものだ。


「そんなことないよ。思ったより表現のバリエーションがあるし。こいつなんか、まるで俺の研究してる可愛子ちゃんみたいじゃないか」


俺の指差すガラスケースの先には水墨画の掛け軸がかかっていた。描かれている東洋風の竜の顔、しかしその胴体は短く、蝙蝠のような翼が生えていた。

俺、古生物学者の卵である関隆せきたかしの研究分野は、翼竜であった。恐竜の繁栄した時代に空を支配した巨大爬虫類。近年では従来の研究を覆すような巨大な種の化石が続々と発見されている。


「応龍ね。伝説上の帝の黄帝こうていに仕えて逆賊の蚩尤しゆうとの戦いで活躍した正義の龍。あと、黄帝の時代からだいぶ開くけれど、夏王朝には龍使いの伝説が残っている。拳龍氏かんりゅうし御龍氏ぎょりゅうしと呼ばれ、龍を養い、使役した人々。龍はもしかすると実在の生物だったのかも」


こういうときの京子さんは饒舌で早口だ。自分も自分の得意分野ではそうだから、共通点があることはむしろ嬉しい。

しかし、少し声が大きかったのだろうか。壁の隅に設置された椅子に座っている博物館職員が、こちらをぎろりと睨んで咳払いをした。お互いに顔を赤らめて、その場を離れる。順路に従い、無言で見終えると美術館併設のレストランに入った。

ビーフシチューのパイ包を壊しながら俺は尋ねる。


「さっきの話だけどさ。今日の企画展は君の専門とも違うんじゃないの。面白かったけど」


「今日のは、こっちと関係があるの」


京子さんはループタイを外すと手を伸ばして見せてきた。


「龍? しかもあの応龍とかいうやつ……」


ループタイのトップは翡翠で出来ているらしく、そこには翼を広げた龍の姿が彫られていた。造形がややユルく、龍の顔がペリカンみたいにのぺっとしていて、あまりカッコよくはなかった。


「亡くなった祖父が私にくれた。代々家長に渡すんだって。おじいちゃんとお父さんはドチャクソ仲が悪かった……失礼、とても仲が悪かったから、孫の私に渡した。こういうの持ってると龍のこととか気になるわけ。いつもではないにせよ」


「へえ、いつか言ってたけど、君のご先祖は渡来人なんでしょ。これ、めちゃくちゃ古い物だったりするんじゃ」


「うーん、どうだかねー」


しばらくの間沈黙が続いた。俺はコーヒーを飲み干すと、切り出した。


「中国の浙江省で発掘作業をしている師匠から、チームに加わってくれと言われた。アズダルコ科の新種の翼竜がとんでもない地層から見つかったとかで。受けるつもりだが……行ってしまったら何年かかるかわからない……それで……それで」


京子さんはパチパチと拍手すると微笑んだ。


「すごいじゃん! 行ってらっしゃい! がんばってねー!じゃあ、さよならだねー」


屈託なく笑う彼女の姿を見て、俺は取り出しかけた婚約指輪の箱を自分のトートバッグに押し込んだ。


 振られたことによる傷心と新たな仕事への期待とが半々の中、俺は上海行きの国際便に乗り込もうとしていた。

アズダルコ科の翼竜について考えてみる。ケツァルコアトルスに代表されるアズダルコ科の巨大翼竜の化石は、北米や中央アジアで多く発見されたが、近年では中国でも発掘されている。特に浙江省で発掘されたチェージャンゴプテルスーー浙江の翼という意味ーーという種は、ほぼ全身骨格が見つかったことで、骨の脆い翼竜の全身骨格は見つからないという常識を覆した。師匠が言うことには件の翼竜化石はあり得ない地層から出土したとのことだったが。

ーーじゃあ、さよならだねーー

不意に京子さんの笑顔が蘇ってきて、脚が止まってしまった。半年付き合って?これで終わり?


「関くん!」


突然の声に振り返ると、そこにはくの字になって肩で息をする京子さんがいた。汗びっしょりで、膝に手をついている。


「なんで、黙って行こうとしてるの? めっちゃ走ったんだから」


「えっ、だってさよならだって言ってたじゃんか」


「別に永遠に、とか言ってないじゃん……」


京子さんは、長くため息を吐くと、ペコペコ変な足音を立てて歩いてきた。ハルタの学生靴の底が剥がれかけているらしい。


「これ、あげるね」


そう言って差し出す京子さんの手にはループタイが乗っていた。


「君の家で先祖代々つぐものなんだろ? 受け取れないよ」


「えっ? 関くん、付き合うときに結婚を前提にって言ってたじゃん。長女の私と結婚するんなら貰う権利あるでしょ」


俺はループタイを受け取ると首からかけた。


「……ありがとう。お互い、勘違いがあったみたいだけど行く前に解けてよかったよ。待っててくれる?」


「まあ、待てなくなったら押しかけちゃうかもねー」


俺たちはしばらくその場で笑っていた。出国カウンターの期限を告げるアナウンスが響く。

遠ざかる京子さんはいつまでも手を振ってくれていた。


「よかった……けど、よくねぇ! 婚約指輪、海に投げちゃったよ! 畜生!」


 なんの支障もとくに起きず、飛行機は離陸した。

なんのことはない。もうすぐ上海国際空港についてしまう。

機内食のついでにビールなど飲んでいたからか尿意を催したので、後方のトイレに行く。

トイレ付近の席に座っている男がかちゃかちゃと黄色い寄木細工だか立体パズルだかを解いているのが見えた。

さほど長くない飛行機の旅だったが、暇つぶしを持つのはいい事だ。

俺の視線に気づいたのか、男はキャップを目深に被りなおした。9個のニコちゃんマークみたいなものがキャップに描かれていて、見かけによらず可愛いもの好きの男なのかなと思った。

放尿して席に戻ると、後ろの席から叫び声があがった。

背後を振り返ると、先程のキャップの男が何語かで喚きながらキャビンアテンダントの首に銃のような形の黄色い物体を押しつけている。

さっきのパズルの正体は、隠して持ち込んだプラスチック製の銃器か何かだった、ということなのだろう。

男は複数の言語で同じセリフをまくしたてているが、ハイジャック、という単語は辛うじて聞き取れた。最悪!

そのとき、箪笥の担げそうなガタイの大きなアジア人男性が、勇敢にもテロリストの一人に飛びかかった。

しかし、男性は即座に脇腹を撃たれてしまった。

純粋な銃ではないらしく、長い針のような物が複数本、男性の脇腹に刺さって貫通していた。

うずくまる男性の腹に近くの席に座っていた目の細い女性がハンカチを押し当てる。

ハンカチはみるみる赤く染まる。俺もハンドタオルをバッグから取り出して、一緒に押し当てた。

キャップの男がキャビンアテンダントを引きずって操縦席に向かう。

しばらくすると、喚き声と先程の射出音が複数回響き、なにか重いもので何かを打つような音が続いた。その後には沈黙が数分続いた。

機内の照明がオレンジ色になり、酸素吸入マスクが座席の上から飛び出してきた。

英語と中国語のアナウンスの後に、日本語のアナウンスも流れる。


「当機は間もなく緊急着陸いたします。酸素マスクと救命ベストを正しく装着し、衝撃に備えてください……」


俺は狐目の女性と一緒に撃たれた男性を席に戻した。


「アリガトウ。生きて帰タラこの恩は……あー……バイガエシダ」


「わかりましたから! まずは生きて帰るためにこれをつけてください」


狐目の女性がそう言いながら男性にマスクを装着させる。

その後すぐに俺も女性も席に戻ると酸素吸入マスクとベストを装着した。

突如として首がもげそうなほどの衝撃が走ると、はっきりとわかってしまうほどのあり得ない角度で飛行機は急降下をはじめた。

びりびりと肌が引き攣り、俺は襟元のループタイを握りしめたまま意識を失った。


 「りゅう、隆! しっかりしろ」


目を開けると、京子さんが俺を揺すっていた。

ベトナムのアオザイとアイヌの衣類を折衷したような、へんてこな服を着ている。

俺は木製の寝台に乗せられていた。木製?俺もまた変な民族衣装のようなものを着せられている。

寝台のわきに例のループタイがあったので、ほっとした。首からかけて、京子さんに尋ねる。


「京子さん? 俺はハイジャックと……あと事故にあったんだけど、京子さんはどうしてここに。というか、ここはどこ?」


京子さんはいきなり俺を杖でどついてきた。ドラクエ一作目のりゅうおうが持っているようなゆるゆるのデザインの杖だった。


「誰だそれは! この御龍氏ぎょりゅうし劉麗花りゅうれいかの顔をわすれたか」


「何言ってるんですか、京子さん。それになんですかその服? 少数民族の企画展でもやるんですか?」


劉麗花と名乗る女性は再び杖で俺のことを打ってきた。


「痛い痛いやめて!」


「まあいい、拳龍氏かんりゅうしの家系が絶えなかったことは幸いだ。そなたの父上もお喜びになるだろう」


俺の父親はもう膵臓癌で亡くなっている。麗花さんとやらは、俺が彼女を京子さんと間違えたように、俺のことを誰かそっくりさんと勘違いしているらしい。

しばらくすると父親とされる顎髭のめちゃくちゃ長い老人が現れたが、やはり全く見覚えのない人だった。


「おお、おお、りゅうよ。お前が龍から落ちたと聞いたときは、我がとうの家もこれで終いか、拳龍氏の技もついに絶えたかと、心の臓も止まる思いじゃったぞ」


「あの、カンリュウシってなんですか。俺はりゅうじゃなくてたかしですし、誰かと間違っていませんか」


麗花が進み出る。


董父とうほよ。わたしから事情を説明いたします。隆は落ちた拍子に頭を打って、記憶が混乱しているようなのです」


「えっ? 違うよ? 自信満々で変なこと吹き込まないで?」


「なるほど、麗花よ。事情はわかった。しかし、隆も朝廷に仕える拳龍氏の跡取り、龍を見ればすぐに記憶を取り戻すであろう」


劉麗花と董父は嫌がる俺を杖で殴りながら家の外に引きずっていった。

大草原の只中に底まで透き通るような美しい川が流れている。見上げれば青い空が無限に広がっていた。

麗花がバトンのように杖を回すと、怪鳥の鳴く声のような奇妙な音がなった。

空に影が差し、杖の音に近いものが上空に響いた。あり得ない光景が頭上に迫っていた。

それはしばらく上空を旋回すると、その翼をたたみ、俺の前に着地した。


「ア、アズダルコ!」


麗花がため息をついて、やれやれというような仕草をする。


「あずだるこぉ? なんだそれは。龍使いたるものが龍のことも思い出せないのか。重症だな、これは」


アズダルコーーペルシア語で“龍のようなもの”という意味ーーは翼竜の中でも特に巨大なアズダルコ科を形成する一群、またはその代表的な翼竜であるアズダルコを指す。

麒麟ほどもある体躯のその半分がペリカンの頭を麺棒で叩いて極限まで伸ばしたかのような巨大な平べったい頭。

もう半分は前脚にくっついている失敗したクレープみたいな質感の翼だ。

それが一声鳴いて翼を広げると、翼長はゆうに12メートルを超えている。

俺の目の前にかしずいたこのアズダルコ科の翼竜は親愛の証か、嬉しげに放尿してみせた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 冒頭の大人の会話やりとりもいい感じですが、ハイジャックからの転生というのが二重底の落差といった感じで良きですな!
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