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悠仁たちが去ったあとも、サンダルフォンはアラボトに留まっていた。魂が抜けてしまったように気力を失ったメタトロンを心配し、寄り添っていた。
『第二次方舟計画』は、メタトロンが天界で生ききる為の活力だった。全ては、苦しみと憎しみに足掻く自分の人生を終わらせる、私利私欲の為。そんなことの為に命を弄ぼうとした、代償なのだろう。望みは叶わず項垂れ、絶望の淵に腰かけている。
「残念でしたねメタトロン。計画はきれいに失敗しました」
戻って来ていたメルキゼデクは、残念な気持ちなど微塵も含んでいない口調で言った。
「メルキゼデク。もう少し気遣ってあげてよ」
「気遣うとは、励ませばいいのですか。よく永い年月を堪えましたねとか、人生失敗なんていくらでもありますよとか?」
「それはこの場合、励ましとは言えないんじゃないかな」
サンダルフォンは、励まし方がわからない同志を呆れながら見遣った。それとも全ての感覚が麻痺して、思いやりすら忘れてしまったのだろうか。
実は、メルキゼデクも二人と同じく、遥か昔に天使になった元人間だった。元はサレムという国の王で、司祭も務めていたこともある高貴な身分だった。
「すみませんね。私も項垂れたい程がっかりしているので、メタトロンを激励する気持ちにはなれいんです。神の座に近付こうと思っていたのに、メタトロンの計画が失敗になっては、私の野望も白紙ではないですか」
メルキゼデクは珍しく、眉を見事なハの字にした。
物質界で民から崇められていたメルキゼデクは、次は神よりも崇められる存在になるという、とんでもなくあり得ない野望を抱いていた。アブディエルを踏み台にしようと考えていたところ、メタトロンから計画を聞かされ、全てが終わったらクーデターを起こしてやろうと企んでいたのだ。
計画完遂まで好きにさせ、そのあとに裏でやっていた実験を公して、邪魔になりそうなヨフィエルと一緒に失墜させようと画策していたが、おかげで頓挫してしまった。
「まぁでも。エンターテインメント性があって、楽しかったですけどね」
しかし愚痴は程々にして、表情をいつもの微笑にコロッと変えた。流石は顔面形状記憶。計画の進行中も、本当にただ楽しんでいたようだ。騙されているアブディエルたちは、さぞ滑稽だっただろう。
遊びの余韻でも感じているようなメルキゼデクに、サンダルフォンはやっぱり呆れ、羨んだ。
「メルキゼデクは前向きだね。いつも笑顔だし。ずっと変わらないよね」
「そんなことはないですよ。笑顔じゃない頃もありましたし。ただ、切り替えただけです」
「何を切り替えたの?」
「ここに来た後悔と、絶望の意識をです」
気の所為だろうが、そう言ったメルキゼデクの面持ちが、慈悲深い神のようにサンダルフォンには見えた。昔は司祭だったから、染み付いた癖でも出たのだろう。
「じゃあ。メルキゼデクも、人間に戻りたいと思ったことは何度もあるの?」
「勿論ですよ。何百回、何千回とあります。私が病んでいた時も見ているでしょう?」
「そうだったね。でもすっかり笑顔の印象が付いちゃって、忘れてた」
「勘違いしないで下さいね。私も鋼のメンタルじゃないんですから」
「ごめん」
「貴方は、結構悩んでいましたよね」
「うん。数え切れないくらい、人間に戻りたいって思った。無限の命がこんなにも辛いなんて思わなかったし、天使になんてなるんじゃなかったって後悔した……こんなことをこんな場所で話したら、いけないかな」
彼らがいるのは、神の御座のすぐ近く。話し声は筒抜けだ。
「少しくらい、いいんじゃないですか。参考までに、元人間の胸中を暴露しちゃいましょう」
そう言うと、メルキゼデクはもう一つあった大きな石に腰を下ろした。サンダルフォンは、項垂れたままのメタトロンの横に正座をして座った。
「メルキゼデクは、どうやって切り替えたの?」
「ほら。私って、元来が高慢じゃないですか。国王だったので仕方がないんですけどね。だから、人間たちを蟻のように見下すことにしたんですよ。そうしたら優越感に浸れたので」
自分の高慢さに感謝ですね、とメルキゼデクは明朗に言った。普通なら、神に仕えるようになるのだから性格を変えて生まれ変わらなければ、とか思いそうなものだが、メルキゼデクの性格は洗濯を繰り返しても落ちない黄ばみだったらしい。
彼らしい切り替え方に、サンダルフォンは呆れ半分で少しだけ笑いを溢した。
「君が羨ましいよ。わたしは職務が職務だから、気が滅入る一方だった。いっそのこと、罪を犯して堕天させられた方が気楽になれるのかな、地獄に落ちれば後悔とかどうでもよくなるのかな、ってことまで考えたこともある」
「結局のところ、悪魔はいないし、人間がイメージする地獄でもなかったみたいですけどね」
「だから、踏ん切りが付くまで結構かかっちゃった」
「では、もう完全に吹っ切れたんですか?」
「……………まだ、少し……」
昔の記憶が生きたままで天使になった所為で、ふとした時に懐古することがある。だから、どうしようもなく足掻きたくなる瞬間がある。自分のいた場所を覚えていることが、酷く辛く思う。
「こう考えればいいんですよ。私たちは、普通の人間が見られない世界を生きながら体験している、稀有な人間だとね」
「そう考えたこともあったよ。でも、本当のことを言うと、わたしもメタトロンと同じように死にたいと思った」
人間は、寿命があるとわかって生きている。人生の終わりに向かって生きている。三人はその終着点を排除した。言ってみれば彼らは、ルシファーのように既存の枠から独立した、人間でも天使でもない特別な個体なのだ。
しかし、彼らはかつて人間として生きていたのだ。訪れる筈の寿命がなくなり縛る時間がないのは、人間から見れば普通ではない。人間にとって天界は異常な世界で、天使は怪異でしかない。それに気付かずに、生命体として正常な人間が、“前世”の記憶を持ったまま異常な世界で生きられる訳がなかったのだ。