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「望んで天使になったわたしたちですが、人間の寿命を超えると、精神的に不安定になっていきました。そして、このままでは天使としてすら生き続けられないと、危機感を覚えました」
天界からの離脱が不可能だったサンダルフォンたちは危機からの脱却を考え、ラファエルに頼み、特別に調合した精神安定剤を処方してもらった。そうして、何とか天使生命を継続することができたのだった。
「薬は今も、時々服用しています。それでも、メタトロンにはあまり意味がなかったのです」
「メタトロンの精神状態は、極限にまで追い詰められた。だから暴挙に出たのか」
「計画の本当の目的を知ったわたしは、そんなことはダメだと思いましたが、強く止めることは阻まれました。その苦しみはとても理解できたから……こんなこと、天使がすることではないとわかっています。でも、メタトロンの望みが……彼が苦しみから開放されるなら……」
サンダルフォンは、頭ではずっと二つの選択肢の狭間で悩み続けていた。しかし結局は、メタトロンへの同情から止めることはできなかった。その罪の片棒を担ぐ勇気さえなく、希望を他者に託して傍観者となるしかなかった。
「……あんたら、何考えてんだよ」
驚愕の真実に言葉を失っていた悠仁だったが、頭が沸騰してくるとようやく口を聞けた。
「自分が死にたいから全人類を巻き込むなんて。それただの無理心中じゃないか!今の世界がどうなってるのかちゃんと見たのかよ!戦争はなくなって、平和を実現させて、みんな穏やかに幸せに生きてるんだぞ?築いたそれをあんたたちはぶち壊して、命を弄んで……!」
「ユージン」
面責しながら、一歩二歩とメタトロンとサンダルフォンに詰め寄ろうとする悠仁の肩を、ミカエルは掴んだ。
「よく平然と俺の前にいられるよな。俺がちゃんとブレーキきく奴でよかったよ。もし理性がぶっ飛んでたら、どんな手を使ってもあんたらを殺そうと思っただろうな。それだけじゃ気が収まらなくて、報復に天界を崩壊させる方法を考えたかもしれない」
「言葉に気を付けろ。神の御前だ」
冷や冷やしながらミカエルは注意するが、そんなこと悠仁には関係ない。目の前の凶悪犯罪者に罪を認めさせ、泣いて謝罪をさせなければ気がすまない……いや。それだけでは収まらない怒りが、マグマ溜まりになっている。
「あんたらがしたことは、殺人と殺人未遂だ。天使でも人間でもないあんたら悪人に、同情の余地はない!」
憤慨する悠仁は、マグマが吹き出さないように火口に蓋を押しつけて言葉を吐いた。
経緯だけを聞けば同情できる。しかし、あまりにも身勝手過ぎる理由に怒り以外は湧かなかった。悠仁の怒りは、全人類の総意だ。
叱責されたサンダルフォンは目を瞑り、直球で投げ付けられた責苦を胸に受け止めた。
サンダルフォンの後悔は明らかだった。しかしメタトロンは、まだ人類の総意に心を折っていない。願望が叶う確率が、まだ僅かでもあると信じていた。
そんな計画の黒幕に、ルシファーは伝えるべきことがあった。
「メタトロン。お前に本当の常識を教えよう……人間が想像する地獄は、存在しない」
メタトロンは大きく目を開き、腰かけていた石からすくっと立ち上がった。
「……なん、だと」
「人間は、地獄には悪魔がいて、堕ちた天使もその一味となり支配していると考えているようだが、それは間違いだ。「悪魔が棲む地獄」は、人間の想像力から生まれた創造世界だ。地獄は存在するが、実際は「悪魔」というものはいないし、業火などというものもない」
その事実は、悠仁も聞き流す訳にもいかなかった。
「えっ。じゃあ、本当の地獄って……」
「思っている程、恐ろしい所ではない。許し難い大罪を犯した天使が行く場所が地獄だ。暗い地獄に堕ちた堕天使は、そこで己の罪を悔い改め続ける。現在はベレトを始めとする善良な堕天使たちが統括し、道を外した自分たちが人間の為にできることを模索しながら活動している。罪を犯した人間もいるが、彼らも転生の時が来るまで来世で善き道を歩めるよう励んでいる。
いわば地獄は、人間にとっては魂の転生まで己と向き合う場所。堕天使にとっては、永遠の償いの場所だ。故に、地獄はお前の望みが叶う場所ではない」
メタトロンは言葉を失い、呆然と口を開けたまま棒立ちになる。彼と同じく、悠仁も衝撃を受けた。
「……じゃあ。何で、地獄に悪魔がいるってことになってるんだ?」
悠仁が当然で素朴な疑問を口にすると、ミカエルが答えてくれる。
「架空の存在「悪魔」が創造されたのは人間の特性からきているものだと、最近の研究でわかってきている。人間は、一度悪と見なした者には悪人のレッテルを貼り、例え善行をなしたとしてもそのレッテルは完全に剥がれない。それは、人間の差別的意識が魂に刻まれているからだ。また、善の裏には必ずその逆があるという固定観念から、故意に敵を作り出そうとする傾向がある。
その観点から、“不安や恐怖など、負の感情の発生源とするものを具現化して精神の安定を図った結果、善の象徴の天使に対する悪の象徴の悪魔を創造した”と推断された」
何故、線を引いて区別をするようになったのか。何故、精神的な安定を図る為にその象徴として「悪魔」というものを創造したのか。その詳細はまだ解明できていないが、研究者たちは、“人間の潜在的な部分で個を認知する能力に何らかの欠落がある”としている。
次々と常識を覆され、もはや難癖を付ける気力はなかった。事実だと受け止めたサンダルフォンは、もう既に観念していた。
「……メタトロン。最初から君の計画は、失敗に終わる運命だったんだ。君は……わたしたちは、何をしても死ねない」
排斥したい言葉は有無を言わさず耳に入り、自我を押さえ付ける。その力は神の力に匹敵する程の圧倒さで、愕然とするメタトロンは膝から崩れ落ちた。
サンダルフォンはメタトロンに近寄り、駄々をこねる小童を宥めるような優しい声音で、これが現実だと言う。
「受け入れるしかないんだよ。だってこの運命は、自分で選んだものじゃないか。今更足掻いたって無駄なんだ。もう何も取り戻せない。何処にも行けないんだから」
「…………」
メタトロンの生きる活力は、一気に燃えかすとなった。
幸福な時間は苦痛を与える時間に変わり、苦痛はやがて憎しみを生み出し、憎しみは怒りを呼んだ。その跳ね返りとして突き付けられた絶望は、例えようもなく重かった。
しかしその絶望は、その先を与えない。死も、時間の巻き戻しも叶わない、行き止まり。
「メタトロン………ごめんね」
メタトロンは死ねない。それが『第二次方舟計画』の、最終結果だった。