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オルネフォルの軌跡  作者: はづき愛依
祝福の園 Ⅱ
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 それから、銅像のようにずっとベンチに座っていた悠仁は、適当に歩くことにした。再び荷物を背負い、流浪の旅にでも出かけるように方角も決めずに歩き始めようと立ち上がった。

 顔を上げると、ベンチの目の前に誰かが立っていた。気配に気付かなかった悠仁は驚いてハッとする。


「先程はどうも」


 そこにいたのは、にっこりと微笑むメルキゼデクだった。悠仁は厭わしい感情を顔に出し逃げようとするが、メルキゼデクは引き止める。


「逃げなくてもいいですよ。申し上げたでしょう。もうこちらに貴方を襲う意志はありません」

「じゃあ、何しに来たんだよ」

「ご覧になりましたか。先程のテロ」


 一番避けたい言葉をダイレクトに背中に受け、背筋が凍る。


「お察しの通り、あれは邪天使エンヴィルスに誘惑された人間が起こしたことです」

「そんなこと言いに来たのかよ」

「遭われたのは初めてですよね。長年、こんな大事件は世界中の何処でも起きていませんでしたから。とても驚かれたでしょう。大変ショックだったでしょう。たくさんの人間が傷付き、死んだ人間もいたでしょう」


 ほんの数十分前に鮮明に刻まれた衝撃的な記憶は、簡単にフラッシュバックした。治まった震えが小刻みに始まり、恐怖が再びやって来る。


「目の前で苦しむ人がいたんじゃありませんか?『痛い』『苦しい』『助けてくれ』と。人々の声が、耳に残っていませんか?」


 わざとなのかそうじゃないのか、メルキゼデクは忖度なしに口を動かす。悠仁は震えが止まらなくなり、止まれと念じるように右手で左手が潰れるくらいぎゅっと握った。段々呼吸も荒くなってくる。


「でも貴方は、真っ先に逃げた。救助を必要とする人々がいたのに、目の前の命から。その上、ご自身がやろうとしていたことからも」

「何だよ!逃げちゃ悪いのかよ!あの状況見たら逃げるのは当たり前だろ!」


 悠仁は堪らず、自分に非はないと振り向き叫んだ。メルキゼデクは両の手のひらを悠仁に向ける。


「そう興奮なさらずに。非難しているのではありません。自分の身を守る為に、危険な場所や状況から逃げるのは当然です。真っ先に自分の命を守ろうとする行動は理解します。寧ろ、平和な時代を生きているのに培われているその優れた危機管理能力に、感心致しました」


 メルキゼデクは悠仁の行動を称賛した。しかし、称賛されて喜べる筈がない。喜べる心情でも状況でもない。称賛と共に向けられる、どこかうさん臭げな微笑も受け止められない。


「そんなんじゃない。俺はただ逃げただけだ。選択したことが現実になるのが怖くて、全ての責任を背負う覚悟がないから。ルシファーが俺を頼ってくれたのが嬉しくて引き受けたけど、世界の未来を左右する選択を託されるなんて思ってなかった。こんなの俺には荷が重過ぎる。頭がおかしくなりそうだ。俺がルシファーの意志を継ぐなんて無理だったんだ」


 一度は背負った責任の途中放棄。これがブラック企業なら無理に責任を背負わされ、自殺行為に及ばせるまで言葉による暴力を浴びせ続けられるだろう。

 そんな人間の上司とは全く違うメルキゼデクは、無責任な選択をした悠仁を罵ることはしない。後ろで手を組み左右に歩きながら、寧ろ同情を示した。


「ルシファー様も酷いですねぇ。自分の目的を果たしたいが為に、貴方のことをまるで考えていない。ですが、わたくしなら貴方を理解できる。私は菅原さんに近い存在ですから。だからその心の痛みも、苦しみも、手に取るようにわかります。貴方は今、ここにはいたくないと思っている。悪夢のような現実から、必死に目を逸らそうとしている……そこで、私からご提案があります」

「提案?」


 メルキゼデクは悠仁の前で足を止める。


「一度、天界に身を寄せてはいかがでしょう」


 悠仁は眉を顰める。


「……どういうことだよ」

「時を見て、アブディエル様の計画は実行に移されます。ミカエル様が計画を阻止するにしても、世界の運命が決まるまではもう少し時間がかかるでしょう。それまでの時間、一時的にこの世界から逃げてしまうのです。しかも逃げるだけではなく、気持ちの整理をする時間にもなる」

「気持ちを落ち着かせる為に、天界に行く……」

「そうです。ここまで足早に来てしまったが為に心の余裕がなく、覚悟もできずに選択を迫られてしまった。だから貴方は現実を受け止めきれず、責任を放棄した。貴方の意志の尊厳を無視したミカエル様の所為ですよ。けれど私だから、こうして菅原さんに寄り添って考えられる。その意志を尊重できる」


 メルキゼデクは、柔らかい所作で手を差し伸べた。


「だから、今から一緒に行きませんか?」


 悠仁は、差し出された掌を見つめる。

 メルキゼデクの言う通り、できればこの世界から逃げたいと思っている。救われたい思いの悠仁にとって、彼の言葉はとても魅力的で誘惑的だった。しかし、振り切るように頭を振った。


「何を言ってるんだ。どうせアブディエルに言われて来たんだろ。俺はもう関わらないって決めたんだ!」

「そう警戒なさらずに。私からアブディエル様に貴方をお連れする旨をお話したところ、アブディエル様も賛成して下さりました。労いの心を以って、賓客として迎えて下さるおつもりですよ」

「そんなの信じる訳……」

「既に心を痛めて苦しまれているのに、追い打ちをかけることなど致しません。私たちは貴方に心を許しています。天界にいらしてもてなしを受ければ、それをわかって頂ける筈です。それで私たちの心を受け取って頂けたのなら、心が癒えるまでいつまでも滞在して頂いて構いません……もしも。もしもですが、居心地が良くてずっといたいとおっしゃるのであれば、それも可能です」

「何バカなこと言って……」


 メルキゼデクの口から次々と出る嘘みたいな言葉が、悠仁の天使への猜疑心を膨らませる。それと同時に、誘惑が子守唄のように心地良く届く。


「菅原さんは、ルシファー様の勝手で辛い思いをした。その末に意志を継ぐのを放棄しましたが、貴方の代わりにミカエル様はどちらを選ぶのか。大体おわかりになりますよね。この一件が終われば、一連に関する貴方の記憶は消えます。ですが、今のままの物質界が継続されれば、消えた筈の記憶が刺激で蘇ることもあります。そうなってしまえば、貴方は再び苦しみに襲われ、辛い日々を送るでしょう。何も知らずに生きる他人とは違い、重責に押し潰され生きた心地がしない孤独な日々を過ごすことでしょう」


 不確定な未来を想像して、悠仁はゾクリとする。一瞬、自分の終焉まで過ぎってしまった。


「その未来を生きることはできますか。菅原すがはらさん」

「そんなの、生きるしか……」

「そう。生きるしかありません。でも今の貴方には、選択肢がある。天界なら、心穏やかにいられます。菅原さんが望む、平和な日々を送れますよ」

「……平和な日々……」


 心地良く慈悲深い言葉は、悠仁の中心に沁み入っていく。救われたいと強く望む心は、弱った意志を巻き込もうとする。


「天界は、人間のように理不尽な命の淘汰がない世界です。統御議会は多少厳しいですが、掟さえ守って頂ければ幸福な日々を確約することができます」

「幸福な日々……」

「先程も言いましたが、アブディエル様の計画は成功を収めるでしょうが、もしもミカエル様に阻止されれば、物質界はこのまま歴史の逆行を始め、出口のない迷路を歩むことになるでしょう。その世界ではもう、幸福な日常を送ることはできない。そう。物質界にいては、悠仁さんは幸福になれない。人間としてここで生きていく限り、人間の宿命からは絶対に逃れられません。ですが、天界ならそんな危険はありません。天界は平和で、命の尊厳も守られます。勿論、悠仁さんが辛い目に遭うことなく、何も苦しまない。心穏やかに、安寧の日々を送ることができます」

「………」


 メルキゼデクの言う通り、もしもミカエルが計画の阻止に成功すれば、物質界は混乱の歴史を再開する。悠仁も、それをわかっていながら阻止を望んだ。けれど未来の予兆を目の当たりにし、その選択は正解なのかわからなくなった。間違いかもしれないと思った。人間の幸福はこれではないと思った。

 このままでは人間は不幸になる。自分は幸福になれない。悠仁の心は、激しく揺さぶられる。

 再びの選択に困窮する悠仁に、メルキゼデクはもう一度手を差し伸べる。


「迷うことはありません。悠仁、私を信じて。一緒に天界へ行きましょう」




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