15
三人はひとまず、ヴロツワフ中央駅まで来た。建物は、嫌なことを全て消し去り元気を与えてくれそうな、夏のひまわりのような色をしている。しかし悠仁の視界は、植木の緑すらも地面の灰色と同色化させていた。
悠仁の原動力となっていたものが、信念が消えた。諦めないことを諦めたのだ。突如目の前に具現した黒く暗澹とした巨大な怪物が、牙を立てて悠仁の芯を食い千切ったのだ。ベンチに座る姿は、もはや廃人のようだった。
ミカエルとベリアルは途方に暮れてしまう。これまで悠仁の意志に従って行動してきたが、重責に押し潰された彼の選択拒否で前にも後ろにも進めなくなってしまった。だからと言って、悠仁の復活を待ち、再び計画阻止の是非を決める時間はない。
ここで決断しなければならない。ミカエルは答えを出した。
「───仕方ない。やめよう」
「ユージンを天界へ連れて行かないんですか?」
「ルシファーの説得に協力してもらえないのは残念だが、無理に連れて行くのも違うと思うしな。アブディエルの計画の全貌も知ることができたし、それに関してのユージンの意志も一度は確認している。あとはオレたちだけで何とかするさ」
ミカエルは、悠仁は説得するのに強力な助っ人だと期待していたが、この状態で連れて行っても役に立たないと断念せざるを得なかった。
「でも、アブディエル様にまた狙われるかもしれません。一人にするのは危険です」
「オレがなるべく早く天界に戻って、悠仁が計画阻止をやめたことをアブディエルに伝える。奴が理解してくれれば、記憶を削除するだけでもう狙わないだろう。だが、無事に帰るまで心配だから、ベリアルが送ってやってくれないか」
「……いい」
せめて護衛は最後まで務めようとミカエルはベリアルに頼むが、悠仁は拒否した。
「護衛はいらない。一人で帰る」
悠仁は俯いたまま、騒音に掻き消されそうな声音でぼそりと言った。まるで心ここにあらずで、口が勝手にしゃべったようだ。
一足先に世界の終わりを見たかのような空気を醸し出す姿が癇に障ったベリアルは、眉頭を寄せて廃人となった悠仁を見下ろす。
「……ねぇ。本当にそれでいいの?」
ベリアルは問いかける。しかし、悠仁は無反応だ。
「ルシファーはユージンに頼んだんだよ?希望を託したんだよ?恩人なんでしょ?恩を返したかったんじゃないの?」
悠仁が行動する原動力を再確認しエンジンをかけようとしても、反応は返って来ない。いつもなら「あのさ、話聞いてるの!?」と怒鳴りそうな場面だが、諦念も抱くベリアルは静かに苛立っていた。
「本当にやる気がなくなったんならそれでいいよ。好きにすればいい。それなら、もう無関係だって言うなら、最後に言わせてもらう」
そして、思いがけない気持ちを吐き出した。
「ボクは、ルシファーの希望になりたくてもなれなかった。ルシファーを類族だと思っていたボクじゃなくて、世界中にいる人間の中から君を選んだ。納得いかないけど、君が選ばれたのはきっと何か特別な理由があると思ってる。だから、希望を託されたユージンに、ルシファーを助けてあげてほしかった。最後まで」
ずっとルシファーの側にいた。孤立して、強がって自分から孤独を求めているように見せていた自分を見つけて拾ってくれたルシファーに、感謝した。何があってもこの人を守り、付いて行こうと心に決めていた。長く仕え、お互いに理解し合い、支え合って、必要とされていると思っていた。
確かに必要とされていた。けれど、一番大事なことは託されなかった。物質界のことだからかもしれない。だとしても、頼ってもらえなかったことは……。
ベリアルは反応を待った。しかし、さっきは勝手にしゃべった口は動かず、待つだけ無駄だった。諦念に更に諦念を重ねるだけだった。心の中で大きな溜め息を吐く。
「……行きましょう、ミカエル様」
促されたミカエルも、短く溜め息を吐いた。
「……そうだな。お前はどうするんだ」
「ベレトたちの様子を見て来ます。まだやり合ってたら、この結果を知らせて治めておきます」
「わかった頼む。ここまで協力してくれてありがとな」
「いいえ。最後までお手伝いできなかったのは残念ですが。ルシファーのこと、宜しくお願いします」
「任せてくれ」
「では、お元気で」
「そっちも」
ミカエルとベリアルは、それぞれやるべきことを片付けに向かった。
悠仁の聴覚から、一番近い雑音が消えた。混乱が収まらない街の雑音だけになった。
俯き続けていた悠仁は、怠そうに顔を上げた。そこにはもう、二人の姿はなかった。最初から誰もいなかったかのように、いた痕跡は空気に溶けていた。
「……あっさりしてるな」
結局そうなんだ。掟に縛られてるから、人間に深入りするつもりなんてないんだ。頭の中は殆どルシファーのことだけだし、きっと物質界がどうなろうが、ただ見てるだけなんだろ……まぁ。もう関係ないし。今までの記憶も消えるみたいだから、どうでもいいんだけど。
「…………チケット取ろ」
帰りがいつになるかわからなかったので、片道の航空チケットしか取っていなかった。調べると今日の日本行きのフライトは既になく、明日ならチケットが取れそうだった。
早く帰ることだけを考えて、チケットを予約しようとした。
その時。予約完了ボタンをタップする寸前、ある声が脳裏に再生される。
───本当にそれでいいの?
声は、生い茂る草を掻き分けるように問いかけた。
これでいい。最初から流されてただけなんだし。心理を利用されて巻き込まれただけだし。そもそも、俺が関わるようなことじゃなかったんだし。身内の後始末は身内で何とかしろよって感じだし。
「………」
悠仁は航空チケットの予約手続きを完了させて、スマホの画面を閉じた。
急遽空いてしまった時間を、消化しなければならない。観光をしてもいいが、そんな気分にはなれない。それに、自爆テロのおかげで何処もかしこも警戒レベルが上げられ、それどころではないだろう。現に、駅前には十数人の警官の姿があり、不審物がないか怪しい人物がいないか見回っている。
ここは安全ではない。次は何処で爆発があるかわからない。しかし、それは何処の国も同じだ。
この世界はもう安全ではない。悠仁が知っている世界ではない。
世界は、変わってしまった。
けれど悠仁は、何処にも行かず、昨日までと明日までの境界から動かなかった。