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夏樹にまで居候を断られた悠仁は帰る勇気もなく、苦渋の選択でネットカフェに泊まった。ストーカーか何なのかわからないが、他人がいる場所で何かしてくることもないだろうから安心だ。
金銭で寝床を確保することにはなってしまったが、友達に世話にならなくて良かったのかもしれないと思った。夏樹が言っていたように、身に覚えのない逆恨みからの脅迫電話だとしたら、巻き込んで迷惑をかけてしまう。友情が壊れてしまうより、元々出入りがある夏目漱石を手放す方が諦めがつく。悠仁はバイトを頑張る決意をした。
一畳程のスペースで箱に詰められた気分になりながら寝転がり、どのくらいシフトを増やせるかと考えようとしたが、それよりも、この機会に引っ越すべきかと思った。あの部屋の家賃は、学生の悠仁には払えない。何より広過ぎる。家主がいなくなり居候の手には余るので、いい機会だと思った。
ルシファーが残したものがわかったら、それが退去の時となるのだろう。だとしたら、これが彼との最後の思い出作りになる。
この日はベンチでPCと顔を合わせていた。今日はまだ夏樹を見ていない。連絡手段を携帯していない彼が自分を見つけてくれるのを待ちながら、悠仁は答えのヒントを考えていた。
ヒントが全然わからない。共通点を探そうにも、まとまりがあるようでないんだよな……答えが違うのかな。もう少しわかりやすい問題を残しといてくれよー。
しかし、行き詰まったからと言って放り出すつもりは毛頭ない。何が何でも、圧縮ファイルを開けるまで諦めないと決めている。自分にはその内容を知る義務があると感じる悠仁は、眉頭を寄せて唸り続ける。
すると突然、背後から声をかけられた。
「一人で何をしている?」
威圧感に似た気配に驚いて悠仁は振り向いた。仏頂面で悠仁を見下ろしていたのは、先日の授業で悠仁を睨んでいたと言う榊原准教授だった。年齢不詳と言われていて、学生の間では三十代後半だと予想されているが、三十代の落ち着きではないとの異論から、四十代の美魔女ならぬ美おじ(美おじさんの略)予想が最有力候補だ。
「榊原、准教授……」
「それは、君のPCか?何を見ている?」
「これは別に。ただの謎解きです」
榊原は腰を曲げ、断りもなくPC画面を覗いてくる。
悠仁は初めて榊原に話しかけられたが、彼の持つ何とも言えない雰囲気に圧される感覚を覚えた。
「謎解きとは何だ?」
「暗号文とかに隠された答えを探すんです。面白くて、今流行ってるんですよ」
「そうなのか。全く知らなかった」
淡々としゃべる榊原の感情は読めなかった。声の抑揚もあまりなく、端正な顔立ちが相俟って、人形と会話をしていると錯覚してしまいそうになる。ただ何処かで───授業以外でも聞いたことがある声のような気がした。
「これは君が考えた問題なのか?」
「いいえ。知り合いが、考えたやつです」
「知り合いとは?」
「知り合いは、知り合いです……て言うか。あの。何かご用件でも?」
空気に堪えられなくなった悠仁は、我慢ができなくなって切り出した。用事があるなら早く済ませ、ないなら早く何処かへ行ってほしかった。
榊原は、「なければこんな所にはいない」と単調に答えた。もしかして、この前の授業で集中していなかったことを注意しに来たのかと思った。
「君は近頃、危険な遊びをしているな」
「危険な遊び、ですか?」
悠仁は少し怪訝そうにする。榊原は、ドラッグや、身分を偽って金銭を騙し取る詐欺行為を言っているのだろうか。一体何処からそんな話を仕入れて来たのか知らないが、悠仁は生まれてこの方手を汚すような遊びをしたことはない。手を汚した経験は、幼少時の泥遊びくらいだ。
榊原は何か勘違いをしている。しかし“シロ”の悠仁を確信を持って疑い続け、問い質してくる。
「惚けなくてもいい。ちゃんと意識してやっているではないか。私は知っているぞ」
「俺、犯罪に関わったりなんてしてないですよ。何なんですか、危険な遊びって」
「これだ」
榊原は徐に白くて長い人差し指を出し、悠仁のPCを指した。
榊原は、このメモが何なのかを知っている。
悠仁は危険を感知し、咄嗟にPCを抱えて榊原と距離を取った。
「今すぐそれをやめろ。でなければ、こちらも手段は選ばない」
まるで映画の悪役が言いそうな台詞を放ちながら、榊原はジャケットの懐───腰の辺りに手を入れた。するとそこから何かの取っ手が出てきて、そのあとには銀色の細長い棒状のものが現れ、悠仁に向けられた。
榊原が構えたそれは、本物のサーベルだった。悠仁は目を見開き、息を呑んだ。
けれどおかしい。榊原は帯刀などしていなかった。持っている筈がないのだ。一般人が真剣などを外で無許可で所持していれば、銃刀法違反と犯罪容疑で容赦なく逮捕されてしまう。
しかし榊原は、公衆の面前で堂々と剣を晒した。この男は法律など微塵も気にしていない。気にする必要がないのだ。
周りを歩く学生の一人が異変に気付くと、二人、三人と数珠繋ぎに連鎖反応し、数秒で周囲がざわつき始めた。
「やめろって、何でですか」
「一度忠告したぞ。それとも、他の人間と同様に愚かな判断しかできないのか?菅原悠仁」
「忠告……あっ。まさか、あの電話…!?」
悠仁は思い出した。そして、あの脅迫電話の声と榊原の声が合致した。
榊原からの脅迫に悠仁は当惑する。授業を聞いていなかったことに対する恨みなら、短気の度を飛び越えてサイコパスだと思えるが、記憶の何処を掘り返しても、榊原と全く関係のないことで脅される覚えは少しも思い当たらない。
この状況は全くもって理解できないが、逃げた方がいいのは十全にわかっている。ところが、生の鋭い刃物を向けられて悠仁の足は竦んでしまっていた。
非日常的な光景を前に、周りの学生たちはスマホを翳すか弄っているのが大抵で、警察に通報してくれているのは数人くらいだった。中にはストリートパフォーマンスだと思っている者もいる。幼稚園のおゆうぎ会で演じた村人C以外、悠仁に演劇の経験はない。
逃げ倦ねる悠仁。すると突然、空気中の所々で電球のようにチカチカし始める。それは小さな火になると集まって炎となり、榊原に襲いかかった。人が炎に囲まれる瞬間を目撃した周囲は大騒ぎになり、悠仁も何がなんだかわからないまま現場が攪乱される。
「逃げるぞ!」
かと思えば今度は誰かに腕を掴まれて、思い切り身体が引っ張られた。
「なっ、夏樹!?」
夏樹に引っ張られるがまま悠仁は走った。二人はそのまま、大混乱の大学から脱出した。