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今日もマコノムは穏やかだ。暖かな日差しが射し込む春のような陽気で、窓際でボーっとしていればうっかり転寝をしてしまいそうになる。
そんな日和でも、ルシファーは難しい顔をして書斎に籠もっていた。これまでの調査で得た実験に関する情報をまとめ、自分なりに考察をしていた。
アブディエルは以前から、人間の魂から負の感情を抜き取り集めていた。負の感情とは、妬み・恨み・殺意など、自身を変貌させ他者をも巻き込んでしまうものだ。
そして、堕天した多数の天使がいた。存在しないと思われた裁判記録と執行承認書も、この目で確認することができた。だが、あれは偽造だ。リストに書いてあった名前は、殆ど存在しない名前ばかりだった。私が全ての天使の名前を知らないとでも思って、適当に書いたのだろう。それだけ処刑した数を把握をしきれていないということだ。
何故、偽造したのか。何故、正式な手続きを踏んで処刑したと見せかける必要があったのか。それは、その二つが繋がっているからだと考えられる。
かの大命で人間は悪を知らしめられ、同時に悪となっていった。これには、アブディエルが行っていた実験が関係している。恐らく、集めていた負の感情を使ったんだ。それがどうやって使われたのかを考えなければ、実験内容も大命遂行の方法も不明瞭のままだ。
だから考え続けた。まだ推断でしかないが、現時点で予想しうるとすれば……実験に同胞を使った可能性が考えられる。
施設では元々、行動科学などを用いた人間の進化や思想を研究をしていた。それは、人間をよりよくする為に行っているものだった。負の感情を集めていたのも、人間の感情の仕組みの解明を試みていたアブディエルの研究の一環だ。どういうプロセスで人間に負の感情が芽生えるのか、どうすればその感情をなくすことができるのかを解明しようとしていた。
そんな最中に下された、『不品行になった人間を戒める方法を講じて実行せよ』という大命は、人間が正道を踏み外す手段を生むきっかけとなった。
恐らくその大命が下される前から、アブディエルは負の感情の移植を試していた。負の感情が芽生えた際、人格の変化にどのような推移が見られるのか、処刑が決まった罪人を実験台として用意し試験的に過程を調べていた。罪人とは言え、倫理的に許されないことだ。だが大命の遂行方法に悩んでいたアブディエルは、公的な理由でこの実験が採用できると踏み込んだ。
使われたのは、偽名を含めあのリストに一番多く名前があった天使たちの可能性が非常に高い。数が多く、多少減っても何ら影響がない位階だからだ。神の為に働きたいと常に願っていた彼らなら、協力を仰げば二つ返事で手を貸した筈。もしこの仮定が的を射ているのなら、シェハキムで目撃されたグリゴリも、もしかしたら実験台にされたのかもしれない。そして集めた負の感情を移植し、人間を懲らしめる存在を作った。
この方法を思い付いたのは、過去の実験で悪に芽生える兆候があった者がいたのかもしれない。でなければ、実験を採用しなかっただろう。
しかし、悪行誘惑に特化した天使を大命の為に実践導入するには、実用性を高め量産化する必要がある。そうするには、試験的に行っていた時よりも負の感情の注入量は変えた筈だ。だが中には、拒絶反応を起こす者がいた。堕天した者が多いのは、その者を失敗作として堕天の扱いとしたのかもしれない。そして成功した者を物質界に送り、天使本来の働きはさせず、人間に悪を教え広めた……。
大命を遂行する為とは言え、何故そんなことを思い付いてしまったのだろう。本来なら認められないこの事実が知られれば、アブディエル自身が危ない。だから奴は非公式に行っていた。恐らく、万全の策を用意して臨んでいた筈だ。元々議会に従順な研究員たちは、アブディエルの口車に乗せられて何の疑いもなく協力し、徹底的な情報漏洩防止をした。偽物の書類が用意されていたのは、私が探っていることが耳に入り、問い質しに来ることを予想して作成したんだろう。
ルシファーは机の引出しを開け、これまで送られて来た密書を広げた。
この密書。関係者からの密告だと思っていたが、アブディエルの動向を怪しんだ公安部が動いている可能性もあるな。もしや議会に潜入し、私のように調べているのか?ならば何故私に情報を……。
天使長だから報告してきた……いや。まさか、疑惑を知れば放っておく筈がないと踏んで、私を誘導したのか?
鼻で笑うと、すっかり冷めてしまったハーブティーを飲んだ。
「……成る程。私の性格を把握している者がいるようだな。その者の策に上手く乗せられた訳か」
だが残念なことに、私は自分の為だけに暴こうとしているだけだ。公安部には悪いが、協力はできない。
協力はできないが、向こうがどこまで情報を掴んでいるのかは気になる。潜入しているのなら、検挙できるまでそう遠くないのだろうか……。
人間の未来への影響とは何だろう。争いの火種が広がるのは目に見えているが、更に大きな争いを呼ぶというのだろうか。それに、ラジエルが異質や違和感があると言っていたことも気になる。一体、未来の物質界で何が起きるのだ……。
すると開け放っていた窓に、散歩に行っていた伝書鳥が帰って来た。ルシファーは迎えの言葉の代わりに人差し指で優しく撫でてやり、定位置の止まり木に乗せた。
ここまで推断できたが、披露したところでアブディエルが全てを認めなければ意味がない。奴は人間の不品行を再度戒めようとはせず、このまま放置し、人間に向けられた神の愛を取り戻すつもりでいるんだ。公安部が時間をかけ人員を裂き調査し証拠を集めようとも、権力を行使して自分が満足するまで続けるだろう。一体誰がそれを止められるだろうか。
「……何処へ向かうのだろうな」
ルシファーはぽつりと憂えた。羽を手入れする伝書鳥は、主の顔を見て綺麗な声でひと鳴きした。




