12
「……大したことじゃないんだけど、考えたいことがあって」
「うん」
マムエルは綿雲のような面持ちで頷く。二人の時間が当時に戻っていく。
「ボクはルシファーのことを尊敬してる。誰よりもルシファーのことをわかってるし、こんなに距離が近いのも自慢だよ。けどさ、やっと落ち着ける場所を見つけたと思ったのに、未だに昔の嫌なことがゴミみたいにくっ付いてるんだ。「力天使」「ルシファーの勤仕」と一緒に、まるで肩書きみたいに」
「うん」
「根も葉もない噂を信じた仲間にイジメられて、ケンカして、何度も公安部に調べられて、裁判にもなって。こんな自分なんかを構うやつなんて、もういないと思った」
「おれがいるよ。忘れないで」
「……そうだね……でも、こんなどうしようもないボクでも、ルシファーは拾ってくれた。噂を知ってる筈なのに、ボクをちゃんと見てくれた。最初は同情だったかもしれないけど、それでも、ボクの新しい居場所を作ってくれた。それだけで嬉しかった。ルシファーはボクの恩人なんだ。なのに……」
「貴方は、ルシファー様をどう思っているんですか?───自分が仕える主ですか?それとも、誘惑をしたいと思ってますか?───貴方は、ルシファー様を敬愛以上に思っている。───人間のように穢らわしい感情を抱いているんでしょう?ルシファー様に愛されたいと」
ヨフィエルから言われた言葉が蘇り、ベリエルの表情が歪む。
「折角、ルシファーのおかげで昔のことなんか忘れかけてたのに。ボクの心を惑わそうとする。また噂が纏わりつく。また周囲の目がボクを狙う。またボクを孤独にしようとする……ルシファーは恩人だ。ボクの大切な人だ。それなのに……」
「誰かに酷いこと言われたんだね!誰なの?おれがベリエルをイジメるなって直接言ってあげるよ!」
「それはやめた方がいいよ。と言うかやめて。大丈夫だよ。問題にする程じゃないから」
「でも、またベリエルが傷ついてるの、悲しいよ。許せないよ!」
憂えたと思えばふわりと微笑み、そうかと思えばまた憂えながら怒りを表す。喜怒哀楽がはっきりした性格も、何もかもが当時と変わらなかった。
「……マムエル。ありがとう。君という味方がいるだけで、ボクは安心できるよ」
疎遠になっていたけれど、昔と何一つ変わらない空気感はいつも出ている棘を隠してしまう。この稀に見るベリエルの素直さは、友達のマムエルしか知らない。
「まだ酷いやつがいるんだね」
「だから、自分の気持ちがわからなくなっちゃって。こうして一人になりに来た訳」
「そっか。気持ちの整理はできそう?」
「うーん……たぶん。ルシファーのことは好きだけど、それは尊敬の類だと思ってるし。それ以前に、ボクの言うことを聞いてくれなかったり、ちょっとだけ頼りなかったりするから、いつもちゃんとして!って口を酸っぱくして言ってるくらいだよ。だから、ボクがしっかり側で支えないとって思ってる」
「ルシファー様って、完璧じゃないの?」
「それは見掛け倒し。勝手なイメージが一人歩きしてるだけ。本当は忘れっぽかったりして、ちょっと抜けてるんだ。普段は威厳なんて全然ないんだから」
「そうなの?想像と全然違うんだね!何か親近感湧きそう!」
「だから、好きって言ったって特別に思ってる訳じゃないんだ……そうだよ。ボクはルシファーの世話を仕方なくしてあげてるんだから、そんな感情抱く訳ないんだよ」
さっきは拾ってくれたルシファーは恩人だと言っておきながら、そんな感謝の言葉たちはものの数秒で忘却の彼方にMAXスピードで投げ捨てられてしまった。また数年は戻って来ないだろう。
これで一応ベリエルは答えを出したつもりだが、マムエルは首を傾げる。
「……そうかなぁ」
「何なのマムエル」
「おれはある意味、特別だと思うな」
「バカ言わないでよ!友達だと思ってたのに裏切るの!?」
悩みがすっきり消えそうだったのに横槍を入れられて激怒されているのに、マムエルは言い訳も何もせずに話を続ける。
「ねえ。家族って知ってる?」
「え?うん、一応。人間が異性と契を交わして、一緒に生活したり子孫を残すやつでしょ?」
「何かさ、それに似てない?ルシファー様が父親で、ベリエルが子供」
「確か父親が支配者で、子供は支配下でしょ?あり得ない!ルシファーは絶対子供!ボクより年下の子供に決まってるよ!」
「ええー?せめて年上でしょ」
「ない!ルシファーに世話されるなんて想像できないし!実際の家族もよく知らないけど!」
逆境から救い出してくれたのだから、絶対世話にはなっている。寧ろ現在進行形と言ってもいい。さっき言葉たちを投げ捨てたのは、全部嘘だったからなのだろうか。
「でもベリエルの話だと、二人は普通の主と勤仕の関係とちょっと違うと思わない?」
「まぁ確かに。敬語は使わないし、気を遣わないし、言いたいことは言えるし、見下してもバカって罵っても怒られないし」
「ルシファー様は、だいぶ器が広いんだねー」
「主と勤仕だけど、対等な立場の場面もあるかな」
「上下関係はあるけどないに等しいのは、やっぱり家族みたいだよ。家族もそういう感じなんだって。親は子供に愛情をもって接して、子供は愛情のお返しに感謝と敬いを示す。でも支配や服従じゃなくて、お互いに対する思いやりが対等の関係性にしてる。二人はそれに近いんだよ。おれはそんな気がするなぁ」
「……そうかなぁ……」
ベリエルは納得いかず、腕を組んで眉間をぎゅっと詰めて考える。ルシファーに対しての感謝はあるし、思いやりも受け取っていると思う。一応しっかりしているし、一応頼りにもしている。でもそれは、統御議会議長だった頃の方が尊敬の念も信頼性も強かった。辞めてからは暇な時間を過ごすばかりになった所為で、威厳は半減していると思った。
「やっぱ違う。ルシファーは父親じゃない!」
「あはっ。それを聞いたら、ルシファー様悲しみそうだねー」
マムエルは立ち上がると目の前の小川に入り、川底から何かを拾い上げた。
「まぁ何でもいいけどさ。何かの不思議な縁が二人を繋いだんだよ。奇縁て言うのかな、そう言うの。二人は繋がったから一緒にいる。他とは違う関係性は、特別な繋がり以外の何物でもないよ」
マムエルはよく効く鼻で新しいキラキラを見つけた。小石程の大きさのそれを掲げると、普通の石に混ざった透明な部分が僅かな日の光に照らされて黄色く輝いた。
「言われるとそんな気がする。ボクみたいなのが高尚なルシファーと縁があるなんて、絶対考えられないしね」
「同情も考えられないよね」
「何で同情じゃないって言えるのさ」
「だって、厄介者で面倒臭そうで悪評の流れ弾で自分の評判まで落とされそうな人、好き好んで引き取らないよ」
「もっともなこと言われ過ぎて反論できない……て言うかそれ、ルシファーを侮辱してるから!ルシファーだけは悪く言わないでよ!」
「悪気はないよー。適当に言っただけだから」
マムエルはへヘヘッと笑う。少年のようなあどけない笑いだから、勘繰る必要もなかった。本音は言っても建前は知らないんじゃないかと思える、純粋な少年性がそうさせた。
「ルシファーは、自分の評判が落ちても気にしない人だよ。統御議会も簡単に辞めちゃう人だもん。たぶん、自分の地位とかどうでもいいって考えてると思う」
「枠を気にしない生き方、かっこいいよね。上級も下級もない、境界線を作らないって、結構難しいのに。でもそういう考え方ができるんなら、ベリエルが本当はどう思っていても、ルシファー様ならちゃんと受け止めてくれそうじゃない?」
「……そうだね。あの人なら、大丈夫かも」
ちゃんと正面から、聞いて、受け止めてくれるかもしれない。ボクを拾ってくれた、あの時のように……。
あの頃のベリエルは全てに投げやりになって、天界からいなくなってもいいと思っていた。ここは自分の居場所じゃない。自分を救ってくれる人は誰もいないと。そんな時に、この湿った森のようだった心に、一筋の陽光が射し込んだ。
「君。私の勤仕にならないか」
きっとあの時のように、手を差し伸べてくれる。そんな人がいるなら、もう逃げたりする必要はない。自分を肯定してくれる存在がいるなら、ここにも留まっていられる。
ベリエルは改めて、ルシファーの存在の大きさに気づかされた。彼がいる所が自分の居場所で、彼は自分に必要な存在であると。
悩みを打ち明けるかどうかは考えておくとして、そろそろ帰ってあげようかな。ハビエルに仕事は任せたけど、半人前じゃ頼りないって言ってボクの帰りを今か今かと待ってるかもしれないし。
眺めていたキラキラを巾着の方に大事にしまったマムエルは、ベリエルの顔をちらりと窺った。
「……あ。どうやら解決したっぽいね」
「まあね。ボクにも、キラキラしたものが見つかったかも」
ベリエルは見上げて、樹木の間から溢れる光に目を細めた。