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ゼブルに住んでいたルシファーだったが、議長を辞職し、議会に疑念を持つなどの現状を考慮して、居住を第四層マコノムの別邸に移した。
シェハキムも自然が豊かだか、マコノムは全体が自然に覆われている。花が一面に咲き誇る色鮮やかな谷や、雲を突き抜ける程の高さの山、空から振るように落ちる滝があったり、妖精でも住んでいそうな神秘的な森があり、天使たちの癒しの場所となっている。
ルシファーの別邸は、森の奥にひっそりと佇んでいる。敷地面積も建物の大きさもゼブルの居館よりは控えめで、外壁は赤レンガを用い、空を刺すように立つ尖塔が特徴的な建物だ。
引っ越したばかりのべリエルは、ゼブルに来ていた。
マコノムに居を移すことになった時、荷物をまとめる為に身の回りの整理をしていたルシファーは、返す筈だった議員徽章を未だに持っていたことに気付いた。ベリエルはちゃんと返すように言ったが、案の定ルシファーはそれを忘れたまま引っ越してしまった。それが判明したベリエルは呆れ返り、また忘れられては敵わないと、ルシファーへの説教を後回しにして代わりにわざわざゼブルまでやって来たのだ。
全く。本当に抜けてるんだからあの人は。それ以外は文句ないのに、惜しいよなぁ。
けれど、普通の主人と勤仕の関係性にならなかったのは完璧じゃないからだよなと、その親近感が有難くも思った。
議事堂に着き、事務員に返却が遅れたことへの謝罪と共に返却証明書にサインをし、議員徽章を返した。ルシファーの胸から離れた徽章を、もの惜しげにベリエルは見送った。
事務所を出て、ここに来ることは本当にもうなくなってしまうことをじんわりと感じながら帰ろうとすると、エントランスでヨフィエルと出会した。
「ごきげんよう。ヨフィエル様」
「貴方は、ルシファー様の勤仕のベリエルでしたね。何しにここへ?」
「ルシファー様が議員徽章の返却を忘れていたので、代わりに返しに来ました」
「それはご苦労様。あのお方も相変わらずのようですね」
「ええ。それがルシファー様に親しみを持てるところでもあります」
「確かに。それはあるかもしれない」
多少の心当たりがあるようで、ヨフィエルはくすりと笑う。
そこにラジエルが通りかかった。通り過ぎようとするフードに気付いてヨフィエルは声をかける。
「ああラジエル。先程の件、頼みましたよ。貴方にしか頼めないのですから」
「わかってます。大命の為ですから」
口では「大命の為」と言っているが、ラジエルの口調は平板だ。彼と意思疎通はできているが、いつも淡々とした対応をされている。
フードで上手く腹の中を隠すラジエルはその一言だけ交わして、そそくさと持ち場に帰って行った。ヨフィエルはフードの後頭部を見遣った。
「新たな大命が下されたのですか?」
「ええ。変貌した人間を改善すべく、この度の大命をお考えになられたようです」
先程議会に、『私たちが不寛容であることを人間に教え、中でも悪徒には罰を与えよ』と、『首悪を見つけ、不敬虔を正すよう教えよ』という二つの大命が下され、罰の与え方と悪となった人間への再指導方法の会議が開かれた。前回の大命は戒めることが目的だったので、その時とは違う方法を考えることにし、不敬虔を正す方法は主天使に協力を要請する方針となった。
「二つを同時進行ですから、大変ですよ」
すると、ヨフィエルが持っていた紙の束がバサバサと床に落ちた。ベリエルは拾おうと手を出そうとするが。
「あぁ。お構い無く」
落ちたのは議会の大事な書類だから、見られたくないのだろう。ベリエルはヨフィエルに掌を向けられて、かがもうとした動作を停止した。
「貴方とは、あまり至近距離になりたくありませんから」
遠慮は遠慮だが、特別な理由の遠慮だった。ヨフィエルの言葉に、ベリエルの表情が不快感を含める。
「聞いていますよ。貴方に関する噂。その見目も不便ですね」
「……興味ありません」
「そう言えば。貴方はどうやって、ルシファー様の勤仕になられたのですか?誰かの紹介……ではなさそうですよね。だとしたら……裏口でも使いましたか?」
「ふざけたこと言わないで頂けますか」
「ふざけてなどいませんよ。貪淫がルシファー様を誘惑したともっぱらの噂なので、そうなのかと」
立ち上がるヨフィエルは、嫌味ったらしい微笑みを向けた。急速上昇する不快指数が、ベリエルの眉間に皺を作る。
「それだけではなく、他にも色々と」
「ただの噂です。真に受けられても迷惑です」
「ですが、実際はどうなんです?いや僕も、こんな噂は下らないと思いますよ?でも周りが噂していると、どうしても気になってしまうじゃないですか……貴方は、ルシファー様をどう思っているんですか?」
「どうって」
「自分が仕える主ですか?それとも、誘惑をしたいと思ってますか?もしくは、もうそういった誘惑をされたんですか?」
ベリエルの不快指数がMAXに近付き、拳を握り締めて何とかギリギリで憤慨するのを押え込む。
「いい加減にして頂けますか。それ、ルシファー様にも失礼ですよ」
「答えられないのですか?ということはもしかして、他人には言えないことを……」
「やめて下さい。名誉毀損ですよ」
ヨフィエルはべリエルを挑発するような目で煽る。そして誘惑するように、悪戯に彼の心の言葉を引き出そうとする。
「ここだけの話にしておきますから、正直に言っていいですよ」
誰も通らないエントランス。声が響かないようにサイレントで問い質しながら、ヨフィエルは少しずつベリエルに近付く。
「貴方は、ルシファー様を敬愛以上に思っている」
「違う」
「ルシファー様に触れられたいと思っている」
「そんなこと思ってない」
「本当は、やましい気持ちがあるんでしょう?」
「ある訳ない」
(独占したい)
「人間のように、穢らわしい感情を抱いているんでしょう?」
「やめろ」
(独占されたい)
「ルシファー様に愛されたいと」
(愛してほしい)
「やめろっ!」
ヨフィエルを突き放し、ベリエルは後ずさる。折角のきれいな顔が、血色を悪くしている。
「冗談ですよ」
ヨフィエルは突き放したことは咎めず、にっこりと微笑んだ。
「……失礼します」
手を出したことに対する謝罪はせず、ベリエルは足早に議事堂を去った。