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ゼブルの居住区。木々や草花が豊かな中に、水鳥がゆったりと翼を休める湖がある。その湖上に浮かぶように建つ、白亜の城。ここは、統御議会新議長アブディエルの居館だ。
門から建物へと続く道の両側には、色とりどりの花が咲き乱れた庭園が広がっている。その全ては、アブディエル自らが育てたものだ。本来、庭いじりなど泥臭いことは好まないが、美しい花を育て愛でるのはアブディエルの心の癒やしだ。非常に手入れが行き届いていて、その思い入れが窺える。
居館の所々にも自ら生けた花を飾り、議事堂の議長室と同様に執務室にも置いている。しかし最近は、育てた花たちが嫉妬をしてしまう程、机と二人きりで過ごす時間が増えていた。慣れない業務から離れられず、世話は勤仕に任せてしまっていた。
今日も嫉妬をさせてしまうと承知しながら、執務室で仕事をしている。難しい顔で書類に目を通していると、一人の天使がお茶一式をトレーに乗せてやって来た。
「アブディエル様。ひと息つかれてはいかがですか」
「メルキゼデク」
彼がアブディエルの勤仕のメルキゼデク。位階は力天使だ。彼の瞳はいつも細められ口角が上がり、記憶形状かと言うくらい微笑んだ表情を崩さない。
「大丈夫ですか。お疲れぎみではありませんか?」
「疲れるのはやむを得ないだろう」
「根を詰め過ぎてもよくありませんし、少しリフレッシュ致しませんか。気分を変えて、庭園でお茶にしましょう。今日は風が気持ちいいですよ」
「そうだな。そうするか」
椅子に根を張りそうになっていた腰を上げ、アブディエルはメルキゼデクと共に外に出た。暫しの気分転換の為に、庭園の中の東屋に移動する。
弱過ぎず強過ぎずの程よい風が吹いていた。小鳥のさえずりが森の中から流れて来る。思ってみれば、自然を感じるのは久し振りだった。力を抜いたアブディエルは目を瞑り、メルキゼデクはおかっぱの髪を揺らした。
「お前が言った通り、程よい風が気持ちいいな。雲のない空もいい。心無しかハーブティーも美味い。花が美しく咲き続けているのも、メルキゼデクのおかげだな」
「喜んで頂けてよかったです」
メルキゼデクはブレない微笑みを浮かべ、自分で淹れたハーブティーの味を確かめるように啜った。
「毎日忙しくされてお疲れのようですが、やはり職務は大変ですか?」
「ああ。副議長だった時の倍はやることがあるからな。これを日々そつなくこなしていたのだから、ルシファー様は大した方だ」
「凄いですね。それだけの才をお持ちだと言うことなのでしょう。勿論、アブディエル様にも務められることだと私は思います」
「気を遣わなくてもいいぞ」
そう言いながらハーブティーを嗜むアブディエルは、満更でもない様子だ。
「それにしても、ルシファー様が議長を退任されたと聞いた時は本当に驚きました。未だに信じられません。お辞めになる前に、何か話されたりしたのですか?」
「いや。相談などはなかったが、何か思うところがあったんだろう。私たちに決意を宣言された時は、自分にできることはなくなったと言っていたしな」
「議会創設から、ずっと議長を務めていらっしゃいましたからね。そろそろ後任に任せてもいいと思ったのかもしれませんね」
「それか、限界を感じたのかもな。まぁ辞めた真意の程はわからないが、私に契機が巡って来たということだ」
「議長になりたかったのですか?」
アブディエルの側に二羽の小鳥がやって来た。アブディエルがお茶請けの焼き菓子を小さく千切って撒いてやると、小鳥は仲良く啄んだ。
「ずっとなりたいと思っていた。あの方を蹴落としてでもな」
「下剋上ではないですか」
「下剋上を成さずとも念願が叶い、私も少々驚いたがな」
仲良く啄んでいた小鳥たちだったが、片方が欲張って餌の取り合いになると、もう片方の小鳥は追い出されるようにして飛んで行ってしまった。
「思いがけないことではあったが、私はこの契機を生かさなければならない。だからと言って、ルシファー様のような議長は目指さない。私は私の思い描く議長になる。そして、あの方を超える存在になる」
「なんと。天使の頂点である存在に負けん気を見せるなんて。そんな畏れ多い野心を抱く者は他にはいませんよ」
「こんな馬鹿な野心を抱く私は、議長には不向きだと思うか?」
問われたメルキゼデクは、一層の笑みで「いいえ」と否定する。
「寧ろ素晴らしい気概です。野心なんて抱く者は当然おりません。ですが、その常識を破ってこそ新しい時代を築けるのです。アブディエル様は下剋上を成し遂げ、新たな時代を切り開かれた。私メルキゼデクは、貴方は天界の新たな指導者になるべくしてなったのではと思わずにはいられません」
メルキゼデクは、アブディエルに負けず劣らずの口調で流暢に述べた。勿論、自分に酔っても演じてもいない。ところがアブディエルは、褒めちぎってくれた勤仕にやや訝しる視線を向けた。
「……メルキゼデク。本当にそう思っているのか?」
「アブディエル様は、他の者たちから圧倒的に抜きん出ていると思います。そんな方に仕えられている私は、天界で一番恵まれているのではないでしょうか」
見ての通り、メルキゼデクはアブディエルに敬意を払うのは勿論のこと、勤仕になった瞬間から彼を持ち上げ続けている。悪い気分にはならないが、いつも変わらない微笑みを浮かべて持ち上げられるのでアブディエルは少しふざけて突いてみたのだが、主の戯れを承知しているようにメルキゼデクは変わらぬ微笑みで答えた。
「お前は始終微笑んでいるから、言葉が本当なのか時々勘繰ってしまいそうだ」
アブディエルは一笑した。本当に裏表がないのかそこまでは見えないが、試されても一切スタイルを崩さないところは見込みがある。何より自分を肯定してくれるのだから、疑うよりも肯定し返してやろうと、腹の中を探るのはやめてやった。
すると、対面に座っていたメルキゼデクは片膝を立て、胸に手を当てた。
「私が笑みを湛えているのは、私が幸福だからです。勤仕にして下さったアブディエル様のおかげで、私は毎日を満足に過ごせております。願わくば、このままずっとお側にいたく思います」
忠誠を示す勤仕の言葉に、アブディエルは満足げに口角を上げた。
「安心しろ。まだお前を辞めさせる気はない。メルキゼデクは優秀だからな」
「有難きお言葉」
メルキゼデクは感謝の意を込めて敬礼する。実はまだアブディエルの勤仕となって日は浅いが、メルキゼデクの心からの忠誠心が届き信頼が積み重ねられていた。
「ところでアブディエル様。その紙は?」
アブディエルの手元には、一枚の紙があった。
「これは、今度取りかかる実験の計画書だ。大命に関することだから詳しくは言えないが、私の研究が役立つ時が来たかもしれない」
「それは、おめでとうございます。議長に就任された上に、ご自身の研究が日の目を見られる時が来たなんて……まるで、アブディエル様が神に味方をされているようですね」
「だと嬉しいけどな。もしそうならば、私は何としてもこの最初の大命を完璧に遂行し、神にお応えしなければ」
これを期に、私の存在がしかと神に認識されるだろう。そうすれば、私の声を聞いて下さる筈。真に愛を注ぐ対象はどちらなのか、目を覚まして頂かなければ。