第二話
雨が降りしきる。
梅雨は長く、気持ちは沈む。とくに紗夜子にとっては、コストダウンのために使われた大腿骨のハイテンション鋼が錆びるので、とても憂鬱なのである。間違ってもコストダウンでハイテンションにはなれないのである。せめてクロモリ鋼、出来ればアルミ合金を使って欲しかった、と東急ハンズの自転車コーナーで紗夜子は思った。
自動ドアを潜り抜け、地下鉄の駅から地下鉄に乗り、紗夜子はアジトへと向かっていた。
2ヶ月前から横浜の、とある飲食店でホステスとして働いていたのだ。
沙夜子が岸田重工の多足歩行制御研究室から逃げ出して10年が経過していた。その間、何度かの転居を繰り返し沙夜子は引っ越しマスターになっていた。
もちろん、まともな方法で引っ越しをしてはいない。沙夜子には戸籍もないし。
「ああ、あ。早くミスタースポックに会いたい」
意味不明のことをつぶやいて、フリルの付いたワンピースの紗夜子は地下鉄の先頭車両の窓から見える暗闇を赤外線暗視モードで眺めていた。
「あ、ねずみさん」
轟音を立てる地下鉄にも負けず、そこにはねずみがいたらしい。
「ねえ、あのねずみは電気羊の夢を見るのかしら?」
と、シートに腰を掛けていた大学生風の男に声をかけた。
「え?」
急に話し掛けられて、その男は眼鏡の奥できょときょとした。もちろん、初対面であ
る。
「なんだって?」
「だから、あのねずみは電気羊かって聞いたの」
「ねずみ?ねずみなんて何処にいたの?」
「地下鉄に住む熊八さんのことよ。ねずみの熊八さんを知らないの?」
痩せ過ぎの男は、そんなもん知るものか、と一瞬だけ思ったのだが、紗夜子があまりにもかわいらしかったので、思わず「うん、うん、熊八さんのことね」と肯いた。だが、
それが彼にとって人生最大のミスだったとは、その時の彼はちらりとも思わなかった。
「熊八さんなら、僕も知っているよ」
黒のシャツにジーンズの男は、にっこりと笑って答えた。紗夜子はにっこりと微笑みかえした。
「あなたも知っているの?熊八さん。でも私は、知らないわ、そんな人」
痩せ過ぎで黒シャツの大学生風は、唖然としたがめげなかった。
「熊八さんは、ねずみなんだ」
「へえ。そうなの?」
首を傾げて紗夜子は尋ね返す。
「そう、君が言ったんじゃないか」
「言わないわよ、熊が鼠を天ぷらにしたなんて」
憤慨したように紗夜子は言い捨てた。男の方は混乱しかけていたが、どうにか会話を続けようと必死になって次の言葉を考えていた。
と、その時、突然に電車が急ブレーキを掛けた。
「どうして地下鉄線路に人が・・・」
うわごとのように呟きながら、地下鉄の運転士はストッパーに当たっているブレーキ
レバーをさらに押し続けていた。
鉄の車輪がレールに爪を立てて物凄い悲鳴を上げた。それに負けないぐらい乗客も
悲鳴を上げた。
午後三時のおやつ時の地下鉄は、空いてはいたが立っている乗客も何人かいた。その
乗客たちは投げ出されるようにして床に転がった。そのうちの一人は転んだ勢いだけで
は止まらずに、マナーの悪い高校生がシートの下に隠していた空缶に乗ってしまい、そ
のまま床を滑って、シートに座っていた60歳ぐらいのご婦人のスカートの中へ頭を突っ込み、驚いたご婦人にピンヒールで力任せに踏んづけられて全治3年の心の傷を負った。
紗夜子は、急ブレーキが掛かった瞬間にオートバランス機構が反応して足を踏ん張ったので倒れなかったが、ハイテンション鋼の大腿骨がきしんで顔をしかめた。別に痛みは感じていなかったが、剛性不足の分だけ重量バランス計算が狂ったのである。
ガラス越しに運転士が慌てているのが見えた。
「いったい何をやっているんだよ」
黒シャツの男は吐き出すように言った。急ブレーキの反動で手すりのパイプに頭をぶ
つけたからだ。
「まさか、早すぎなのー」
紗夜子は、そうつぶやくと両手を差し出すようにして紙バッグを男に押し付けた。
「なに?なんなの?」
「いいから。持っててー」
「え?」
「後で取りに来るからぁ。グッドラック」
言い終わるが早いか、紗夜子は運転席の仕切りドアへ近寄った。それは鍵が掛かっている。だが、小さな紗夜子はためらいもなく、それを素手で叩き壊した。
「発進しなさいぃ」
叫ぶように言って、運転席に侵入すると紗夜子は運転台のコントローラを全速前進の位置へシフトした。
「あ、なにをす・・・」
言いかけた運転士を左手で弾き飛ばす。電車は加速しはじめた。
乗客は、あっけにとられていた。
普通の女子中学生にしか見えない紗夜子が、素手でスチールのドアを破壊し、そのうえ乗務員を放り出したのだ。
黒シャツの男は、きっと夢に違いない、と渡された紙バッグの中へ目を落とした。そ
こには配線やら電池、それから粘土のようなものが所狭しと詰まっていた。
彼は、すごく嫌な予感がした。
電車は、すぐにスピードに乗り始めた。と、その時、後ろの車両の方で鋭い破裂音と
ともに女性の叫ぶ声がした。はっと、目を上げると、ごつい顔をした筋肉質の男が白のタンクトップに黒の革パンツというシルベスター・スタローンのような格好でダッシ
ュしてくるところだった。
妙に顔が白い。
振り向くと、紗夜子も気づいたようで、運転台を離れると、さっと身をかがめた。スタローン男は、考えも無くそこへタックルした。運転台との隔壁がベニア板のように壊れた。だが、紗夜子はいなかった。
「何処へ行った?」
スタローン男が辺りを見回す。
だが、黒シャツの男には見えていた。紗夜子は、這いつくばるようにしてこっちへ来ていた。
「お待たせ」
「え?」
「おにいちゃん、一緒に逃げてくれる?」
「なんで?」
そう言うと、紗夜子は黒シャツの男の腕を取り、そこの窓を素手で叩き割ると、まずは男を窓の外へ放り出し、続いて自分も這い出した。裂けた窓ガラスが、紗夜子のスカートを引き裂いた。
「あ、パンツ・・・」
とつぶやいた営業一筋27年の鈴木道太郎の声は紗夜子の耳には届かなかった。
「なんなんだよ、これは」
走る電車から投げ飛ばされ、したたかに腕をレールにぶつけた男は、紗夜子に向かって叫んだ。その程度の傷で済んだのは奇跡だったが、それもこれもみんな、ストーリーの都合である。
「あれはネクサス6なの。シリーズ最新のアンドロイドで、しかも戦闘用なのぉ」
「戦闘用?」
じりっと、あとずさった彼を、紗夜子はさっと腕を伸ばして掴まえる。
「ダーリン、一緒に逃げるのー」
「どうして、僕が?」
「気をつけて。足元にあるのは地下鉄の電源レールなの。触った瞬間に黒焦げになっち
ゃうの」
「ひぃい」
慌てて彼は飛び退いた。
「じゃあ、行くのー」
紗夜子は彼の手を取って走り出した。彼は、走るというよりも引きずられるようにして
闇へと、姿を消した。
ネクサス6が電車から飛び降りた時、そこにはすでに紗夜子と男の姿は無かった。もっとも、紗夜子達が飛び降りた場所とはずれていたのだが。
「逃げても無駄だ!」
大声で叫んだ声は、地下鉄のトンネルの壁に響き渡り、そして虚しく消えていった。
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